代償
明日出木琴堂
代償
■給料日。
薄暗い更衣室で振り込み金額をスマートフォンで確認する男たち。
毎度毎度、増えた減ったで一喜一憂している。
そして、毎度毎度、給料日後の金曜日に飲みにいく約束をしている。
「研二、今度の金曜、空いてっか?飲みに行こうぜ。」
「すみません…。」
「研二はホント付合い悪いねぇ…。」
「すみません…。」
「こいつ、給料入ったら速攻、コンビニのATMだもんな。」
「趣味が預金てか。」
「どっかに家でも買うんか?」
「女もおらんのに、気の早いこっちゃ。」
「わはははは。」
「わはははは。」
「わはははは。」
同僚たちに馬鹿にされる中にあってもケンちゃんはいつもの笑顔でいる。
きっちりとした制服からクタクタの私服に着替えながら…。
でも、心から笑っているわけじゃない。
ケンちゃんが戻ってきた日からもう7年…。
ケンちゃんも俺も30歳を優に越えた。
俺にとってこの間は言う事のない7年間だったけど、ケンちゃんにとっては辛く苦しく厳しい7年間だったに違いない。
ケンちゃんは、一度、たった一度、取り返しのつかない過ちを犯してしまっていた。
■12年前のあの秋の日は、朝から雨の寒い日だった。
そして、月末最後の平日の忙しい日だった。
毎度の事ではあるが、月末は会社の方から得意先への納品を急かされる。
受注分で出来上がっている部品を可能な限り月内に引き渡す。
当月内に得意先へ納品出来れば、翌月末にはその納品分の支払が発生する。
月を跨ぐ事になれば、翌々月末の支払いになる。入金期間が一か月も変わってしまう。
下請けの小さな会社にとっては死活問題だ。一点でも多く得意先へ納品したいのだ。
あの日はケンちゃんも俺も、2tトラックに出来上がった部品を詰め込めるだけ詰め込んで、得意先への配達で右往左往していた。
雨は一向に止む気配はなかった。
激しい雨ではなかったけど、トラックのフロントガラスに張り付く様な嫌な雨だった。
時間と共に気温も下がり2tトラックのヒーターを入れても足元に冷気を感じるほどだった。
疲労困憊のケンちゃんも俺も2tトラックいっぱいの部品を配達し終えたのは、日付が変わる数分前のことだった。
「じゃあ、会社で。」と、ケンちゃんと後ほど会社で落ち合う約束をし、携帯電話を切った。
『二人共、今月はどうにかこうにかノルマは達成だな…。』
俺は2tトラックを会社の駐車場に停め小さな社屋に向かう。月末最後の平日の社屋は日付が変わっていても、煌々と蛍光灯の青白い明かりが漏れている。
『毎月末の光景だな…。』そんなことを思いながら社屋に入ると、社内は騒然としていた。
『何か部品にミスでもあったか…?』などと思いつつ、納品伝票の自社控えを渡そうと経理課に寄ると「研二が交通事故起こしやがった。」と、社長が唾を飛ばしながら大声で話していた。
■ケンちゃんは、昨晩、俺と飲んでいた。
昨日は珍しいことに、ケンちゃんから「酒でもどうだ?」と、誘ってきた。
俺はいまいち誘いに乗り気じゃなかった。なぜなら、翌日の仕事が大変なのが分かっていたから。
それにケンちゃんは然程飲める方ではないのだ。
「飲む」「打つ」「買う」の三拍子揃って手を出すケンちゃんだが、せいぜいどれもたしなむ程度。「ワル」を気取ってはいるが、うわべだけ。
そんな浮ついた不真面目な生活を、顔を合わせる度に駄目出しする俺をケンちゃんから「酒でもどうだ?」なんて、誘う事は考え辛い。
俺とケンちゃんは仲が悪いわけではない。どちらかと言えば気が合う方だ。
高卒、同期入社で同じ寮に住んでいた。地方出身の同い年ということもあり、当初は二人で行動することが多かった。
しかし、時間の経過とともに、自由に使える金、好きなことに使える時間を得たケンちゃんは自由奔放になっていった。
髪を染め、煙草を吹かし、夜な夜な夜遊び…。ただ、仕事に穴をあける事はなかった。
その部分に、俺はケンちゃんの中にある地方出身者の生真面目さを感じていた。
まぁ、珍しい誘いなのでしぶしぶ付き合った。けど、明日の仕事が控えているので二人共に飲むと言っても節度をわきまえて飲んだつもりだ。
『本当、違う日に誘ってくれればいいものを…。』
■現場検証時、警官の聴取に対して、ケンちゃんは「少し疲れていた。」と、話たらしい。
「事故を起こした時は、注意散漫だった。」と、話したらしい。
「アスファルトの道は街灯に照らされ、銀色の川の様だった。」と、話したらしい。
「フロントウィンドウに粘り付く様な雨で視界が悪く、目がかすむ様にしか見えてなかった。」と、話したらしい。
「人影に気がつき急ブレーキを踏んだが、雨に濡れた路面で止まる事が出来なかった。」と、話したらしい。
ケンちゃんが現場で聴取を受けている最中、救急車で搬送された被害者の30歳の男性は、救急病院での緊急手術のかいなく全身打撲で亡くなった。
雨止まぬ現場で、ケンちゃんの罪状は業務上過失致死罪となりその場で逮捕となった。
そして、取り調べ、送検、勾留、起訴を経て、刑事裁判にかけられる事になった。
第一回の公判から1年以上にも及ぶ裁判が行われることになった。理由はケンちゃんの体内に残っていたアルコール値。
証拠調べ手続きの段階で、検察官から「体内アルコール濃度の基準値超過」の証拠書類の提出を受けた。
争点は、業務上過失致死罪か酒気帯び運転と業務上過失致死罪の併合罪かという点にあった。
俺も人証として事故前夜のことを事細かに証言した。「事故前夜に節度を持って飲酒はした。」と、証言した。
だが、この証言でケンちゃんにとって何かが好転したようには到底思えなかった。
裁判の結審日、ケンちゃんは全てを認め、たった一人の被害者遺族である奥様に「心から謝罪したい、一生をかけて償いたい。」と、手錠、腰縄姿で最終の陳述を行なった。
しかし、唯一の被害者遺族である奥様の弁護士からは「人殺し。顔も見たくない。」との、被害者遺族である奥様からの伝言だけが返された。
その言葉を聞いたケンちゃんは、膝から崩れ落ち、法廷の床に頭を打ちつけながら、何度も何度も「ごめんなさい。ごめんなさい。」と、ぼろぼろと涙をこぼし、聞き入れる相手無き謝罪を繰り返していた。
審理は全て終了した。ケンちゃんは有罪、禁錮7年の実刑判決で結審となった。
■交通刑務所での態度に改悛の情があると判断されたケンちゃんは、実刑短縮の赦免を受け5年で出所することが出来た。
出所したケンちゃんは、交通刑務所の労役で得た給料で菓子折りを買い、それを持って迷惑をかけた会社に訪問した。
ケンちゃんは、業務上過失致死罪で逮捕された段階で社内規定に則り解雇をされていたが、社長は来訪したケンちゃんに「社会復帰のため、うちでやり直しなさい。」と、言ってくれたそうだ。
しかし、ケンちゃんは「またご迷惑をかけることになるから。」と、社長の思いやりある言葉を丁寧にお断りしていた。
それを聞いた俺はケンちゃんに「俺も辞めるよ。」と、伝えた。
社長は俺が退職することを知ると「研二のことを頼むな。」と、言って餞別と次の働き口を紹介してくれた。
俺たちは社長の言葉に甘え、社長が紹介してくれたら先で働かさせてもらうことにした。
紹介先の会社は警備会社だった。
俺は入社時から、前の会社の実績もあり、紹介もあり、正規雇用で主任と言う肩書でスタートすることになった。
しかしケンちゃんは、非正規雇用で時給契約の警備員として雇われることになった。
警備会社本部からは俺に「暫くの間は、研二くんと一緒に行動してもらいたい。よく監視してもらいたい。」との、お達しがあった。
『罪を償って、改悛の情があると判断されても、世間での扱いはこの程度なんだな…。』
そんな経緯から、ケンちゃんは俺の班の一員として俺の元で働いてもらうことになった。
俺の班の仕事は、郊外にあるリゾートマンション施設のマンション共用部から周辺施設までの警備を受け持つことであった。
広大な敷地のリゾートマンション施設を四六時中隈なく警備する。
特に夜間は保養地・行楽地だけあって、不審者や迷惑者の排除に夜通しを費やされる。
それでも幸運なことに1年、2年と何事も無い時が過ぎてくれた。
ケンちゃんは給料日の度に、唯一の被害者遺族である奥様に仕送りをしていた。
ギリギリの生活費だけ残し、それ以外は全て被害者遺族である奥様に送金していた。
この地に会社が用意してくれたぼろアパートの寮に住み込み、昼食も夕食もカップラーメン。酒もタバコも止め、残業があれば喜んで引き受ける。
携帯電話1台、テレビ1台、冷蔵庫1台、所有することは無かった。
こんな、21世紀のITの時代に今日の修行僧でもしないような生活を送っていた。
「ケンちゃん、被害者遺族の奥様からは連絡あるの?」と、聞いても「恨まれてるのにあるわけないじゃん…。」と、いつもの笑顔で返してくる。
俺には『どれだけ何かを示したところで、簡単には償えるもんじゃないだな…。』と、思うことしかできなかった。
■リゾートマンション施設での仕事が3年を経過した頃、トラブルが起きた。
その日は日曜日だった。
月曜日が祝祭日でない限りは、日曜日はだいたいのマンションのオーナー様たちが、本邸へ帰る日になる。
このリゾートマンションの規則として、本邸へお帰りの際は、各々のお部屋のルームキーをフロント受付けに預けて帰ることになっている。
この日は、そのフロント受付けの業務をケンちゃんが担当していた。
業務は、お帰りになるオーナー様からルームキーを受け取り、ルームキーの保管場所へ戻す。そしてそのオーナー様のお部屋にフロント受付けからリモートでセキュリティロックをかける。これだけの作業だ。
ルームキーの返却がなければ、明日以降もそのお部屋のオーナー様は引き続き滞在、お部屋を利用されると判断するようになっている。
これがこのリゾートマンションでの留守宅・在宅の指針となる。これにより、マンションの警備方針が決まる。
このリゾートマンション施設においては、帰宅者が多い日曜日は普段の日とは違って慌ただしい日であるのも事実である。
その日も一人のオーナー様がルームキーを預けた後、少しだけキャリーバッグを預かっておいてくれと、フロント受付け担当のケンちゃんに頼んだ。こういうオーナー様は少なくない。
ケンちゃんは了承してオーナー様のキャリーバッグを深く考えることなくお預かりした。
その後、ケンちゃんは業務規定通り、ルームキーを保管庫に収め、フロント受付けからリモートでこのオーナー様のお部屋にセキュリティーロックをかけた。
そして、このオーナー様がフロント受付けでキャリーバッグを受け取り、帰宅してから騒動が起きた。
警備会社本部から「本日ご帰宅のオーナー様より、貴重品の紛失のご連絡あり。」と、知らせがあった。
オーナー様が言うには「キャリーバッグに入れていた財布が無い。」との、ことらしい。
財布には幾ばくかの現金と各種カード類が入っていたらしい。
このリゾートマンション施設の規則では、オーナー以外の人間による部屋の解錠は認めないとなっている。唯一の例外が、緊急時のセキュリティー会社の人間による解錠。これだけは認められている。
だから、勝手にオーナー様のお部屋に入っての紛失物の捜索などは、俺たちには絶対に出来ないのだ。
「オーナー様の口ぶりから言うと、受付けの人間を疑っているようだ。」と、俺は警備会社本部から言われた。
俺もそういう話になるとケンちゃんから事情を聞かなければならない。
俺はケンちゃんのことは全幅で信用しているが、これに関しては警備会社の職務規定事項だ。あくまでも手順通りに進めなくてはいけない。
「ケンちゃん。オーナー様の言っている事に心当たりある?」
「期待はずれのことしか言えないが、心当たりはない。」
「信じていいんだね。」
「悪いな。迷惑かけて。信じにくいだろうけど、何も知らないから。」と、いつもの笑顔でケンちゃんは応えた。
俺は「分かった。」と、一言だけ返した。
ケンちゃんからの事情聴取の内容はそのまま警備会社本部に報告を入れた。オーナー様には、業務に不備は無かったことをご連絡させて頂いた。
報告を受けたオーナー様は一向に納得した様子は無く、ケンちゃんを外せと、圧力をかけてきた。
この騒動が発端で、俺の班の者たちからも「前科者雇ってて、大丈夫なの?」とか「主任の友達だから甘いんじゃないの。」とか、陰口がささやかれた。
それでもケンちゃんはいつも通りの笑顔を絶やすこと無く、文句ひとつも言わず仕事を続けていた。
翌月、このオーナー様がこちらのリゾートマンション施設に来られた折り、財布を部屋で見つけたと、警備会社本部には連絡があったそうだ。
「部屋にあった。」の、一言だけだったそうだ。
しかし、ケンちゃんにはそんな一言すら無かった。俺の班の者たちからも、陰口に対するケンちゃんへの謝罪は無かった。
ケンちゃんはそんな事を気にする素振りも無く変わらずに仕事に打ち込んでいた。
あの貼り付けたような笑顔を絶やさずに。
そして、変わること無く、コンビニのATMから送金を繰り返していた。
■食べる物も食べず、生活を切り詰めて仕送りに当てていたケンちゃんは、2020年に感染力の強い新型コロナウイルスに感染してしまう。
その当時、体力のない老人たちが感染し、重篤化していた感染症だったが、ケンちゃんは切り詰めた生活からの栄養不足と働き詰めの過労から感染、発症に至った。
40℃近い高熱を出した後、ウイルス性肺炎を起こし呼吸困難になるほど重篤化した。
新型コロナウイルスによる感染者は毎日のように拡大していたが、ケンちゃんの重篤時には偶然にも、重篤病床の空きがあり、人工心肺装置(ECMO)を使う事ができた。人工心肺装置(ECMO)は体外式の肺機能代行装置で、あの当時は数えるほどしかまだ設置されていなかった。
ケンちゃんは人工心肺装置(ECMO)のおかげで一命を取り留めた。しかし、本来であれば症状的には命を落としていても仕方なかった。ケンちゃんは運が良かった。
この、長期に渡る入院と、自宅待機期間は、時給契約で非正規雇用の警備員であるケンちゃんには大きな痛手となる。
最低限の生活費以外は全て被害者遺族の奥様への仕送りに当てているケンちゃんには一円の預金すらない。
現状では重篤病床の入院医療費も払えない。退院してからの生活費もままならない。
それらは当面、俺が立て替えはしたが、ケンちゃんは仕送りが出来ない不甲斐なさに深く落ち込んだ。自分を酷く戒めた。
ケンちゃんの現状を見るに見兼ねた俺は、ケンちゃんの弁護士に連絡を取り、被害者遺族である奥様と話が出来ないかあちらの弁護士に打診してもらった。
俺は、ケンちゃんの現状を伝え、ほんの少しだけでもケンちゃんの重荷が軽くなればと考えた。
しかし、ケンちゃんの弁護士から返ってきた答えは「被害者遺族である奥様の弁護士が全く取次がない。」と、言うものだった。
ケンちゃんを「人殺し。」の一言で一蹴した人だ。少しばかり時間が経ったとは言え気持ちがすんなりと変わるものではない。
俺はケンちゃんの何の助力にもなれなかった。
「何をやってんだ…。こんなことじゃあ…。まだまだ…、まだまだ…、病気になんてなってられない…。」と、新型コロナウイルス感染症から回復した後でも、ケンちゃんは自分を責め続ける。俺にはその姿勢が痛々しく、そして、ある意味では尊敬に値した…。
後日、国や自治体や企業から新型コロナウイルス感染者に対する助成金の支払いが決定し、ケンちゃんは手に入った助成金で俺の立て替えた金額を全て返してくれた。
そして、残りは全て、即日仕送りに当てていた。
■ケンちゃんの爪に火を灯す様な日々はこの後も続いた。
俺はあの後も何度となく被害者遺族である奥様に連絡を取る事が出来ないか、ケンちゃん弁護士に打診していた。
しかし、弁護士から返ってくる答えはいつも同じ「被害者遺族の奥様の弁護士が取り合わない。」の、同じフレーズだけだった。
俺が被害者遺族の奥様に許しを乞っている訳ではないけど、ケンちゃんの改心した誠実な生き方だけでも知ってもらいたかった。
自分の人生を送っていない真実を知ってもらいたかった。
これでケンちゃんが許されるわけではない。ケンちゃんの償いが終わるわけではない。
でも、いくら何でも、今のケンちゃんは救われない。見るに耐えない。いったい誰が救えると言うのか。神が救えるのか…。仏が救えるのか…。
ケンちゃんが救われるのは拒否されている被害者遺族の奥様と言葉交わせた時…。それだけしかないのだ。
俺はどうしても被害者遺族の奥様に会わなければいけない心境に駆られた。
■俺にはあっと言う間の7年間だった。
ケンちゃんにはどうだっただろう…。
今年の秋は被害者の十三回忌にあたる。
12年後の命日に仏様となった故人が、宇宙の生命そのものである大日如来と一つになる日。
十三回忌の年季法要は「迷いや、偏った考え方から離れ悟りを開く。」ものだと言われている。
ケンちゃんにとってひとつの区切りになってくれる年であって欲しいのだが、被害者遺族の奥様からは未だ梨の礫であった。
ケンちゃんは今迄と変わらず熱心に働き、そして給料日には毎月欠かさず仕送りをしている。
文句ひとつ、愚痴ひとつ言うこと無く。笑顔を絶やす事無く、鳩時計の様に同じリズムで同じ日々を送っている。
今年も終わりに差し掛かった頃、ケンちゃんが俺のいる事務所に飛び込んできた。
出所してからのいつもの貼り付けた様な笑顔とは違う、本当の笑顔で飛び込んできた。
「見てくれ。見てくれ。」ケンちゃんは両手でとても大事そうに、そして、優しくしっかりと握りしめた紙を俺に渡した。
それは葉書だった。
俺はケンちゃんから渡された葉書を慎重に受け取り、そして黙読した。
それはあの被害者遺族の若い奥様からケンちゃん宛てに初めて届いたものだった。
「もう、送金は結構です。あなたの名前が通帳に記帳される度、失くしたものを思い出してしまいます。苦しいのです。あなたの贖罪の念は理解しました。もう、あなたはあなたの人生を送って下さい。私は私の人生を送りますので。」と…。
多分、この時点では、ケンちゃんにとっては葉書に書かれていたことなんてどうでもよかったに違いない。
ケンちゃんにとって重要だったことは、許してくれるはずもない被害者遺族の奥様から葉書が来た事実。その事実だけが嬉しくってしょうがなかったのだ。
それ程までに嬉しかったのだ。まるで長年待ち望んでいた恋人から便りが来たみたいに…。
ケンちゃんは許されたのだ…。そう思った。心優しい真面目な男は、やっと許されたのだ…。そう思った。
そして俺は『神様』と、思わず心の中で叫んでいた。
■「…。…ごめん。」この言葉を口から出すのが精一杯だった。
「ん…?どうした。」
「すまない、ケンちゃん。」
「なに?何で謝るの?」
俺は最高の幸せに浸っているだろうケンちゃんに謝らなくてはならないことがあった。
葉書を読んだ瞬間からどう謝るべきかずっと思案していた。
俺はケンちゃんに本当に申し訳ないことをしてしまったのだ。
被害者遺族のあの若い奥様がケンちゃんにこんな葉書を出していることを知らなかった。
俺は悩んで悩んで悩んだ末に、ケンちゃんに伝えなくてはいけないことを口に出していた。
「ケンちゃん。俺………、この人………、殺めちゃったよ………。」
■「えっ?!何て…。」
「俺、この人、殺しちゃったよ…。」
「じょ、冗談だろ?」
「本当…。」
「い、いつ?」
「昨日…。」
「噓だろ?」
「本当…。」
「な、何でだよ。」
「俺、何度も何度も、この人に連絡取ろうとしたんだよ。」
「…。」
「でも、ずっとシカトだよ。」
「…。」
「ケンちゃんのこと、知ってもらいたかったんだよ。」
「…。」
「ケンちゃんが死ぬほど頑張っていること、知ってもらいたかったんだよ。」
「…。」
「ケンちゃんの償っている姿を、知ってもらいたかったんだよ。」
「…。」
「あの人がこんな葉書出してたなんて知らなかったんだよ。」
「…。」
「最後の最後に…、何でもっと早く…。」
「…。」
「これ以上、ケンちゃんを苦しめてほしくなかったんだよ。」
「…。」
「ケンちゃん、ごめんよ。」
「…。」
「ケンちゃん、分かってくれよ。」
「…。」
「ケンちゃん、許してくれよ。」
「…。」
「ケンちゃん…。」
「…。」
「ケンちゃん…。」
「…。」
「ケンちゃん…。」
「…。」
「ケンちゃん…。」
「…。」
「ケンちゃん…。俺…、俺…、ケンちゃんのことが…、す…。」
■「ふざけるな!」今まで黙っていたケンちゃんは、俺の話が終わる前に大声で怒鳴った。多分、俺はケンちゃんの怒鳴る姿を初めて目の当たりにした。俺は俺の思いの丈をケンちゃん伝える緊張からか、ケンちゃん怒鳴り声で緊張の糸が解け、体中の力が抜ける思いをしていた。
そんな俺を気にすること無く、ケンちゃんはゆっくりと切々と語り出した…。
「てめえのせいで全てが台無しだ。」
「…。」
「12年もの時間をかけた計画はおじゃんだよ。」
「…。」
「やっとあいつと幸せになれるはずだったのに、てめえに全て壊された。」
ケンちゃんは何を言っているんだろう。ケンちゃんは誰と幸せになるんだろう。
「てめえのことは一番警戒してたんだよ。てめえの役目は事故の前夜に飲酒した段階でとっくに終わってたのに、その後もまとわりつく態度が気に食わなかった。」
ケンちゃん、分からないよ。何の話をしているの?
「はぁ…。」
ケンちゃんは大きくため息をついた。
「12年前、よく、夜遊びしていた時にあいつと知り合った。」
「…。」
「あの頃、あいつは旦那からDVを受けていた。」
「…。」
「会うたびにに顔を腫らしていたよ。」
「…。」
「そんなあいつが不憫でならなかった。」
「…。」
「だから、あいつと…、旦那を殺す計画を立てた。」
「えっ…。」
「旦那をしこたま酔わし、道路にほっぽった。」
「…。」
「それを車でおもいっきり轢く…。」
「…。」
「旦那は即死。仕事中だったので業務上過失致死罪。」
「…。」
「それにあえて飲酒運転も付ける…。」
「…。」
「二つ合わせても長くても7年…。」
「…。」
「その間、あいつは民事訴訟で会社から慰謝料を巻き上げる。」
「…。」
「ごねてごねてごねまくる。」
「…。」
「しこたま巻き上げる。」
「…。」
「それには短い刑期じゃ困るんだよね。」
「…。」
「早く出てきちゃうとこっちが慰謝料払う破目になる。」
「…。」
「だからこそ前の晩にてめえと酒飲んだ。」
「…。」
「おかげで時間はできた。禁錮7年。あんがとよ。」
「…。」
「あいつは2億近い慰謝料をぶんどった。」
「…。」
「あとはほとぼりが冷めるまでおとなしく…、真面目に…、を、演じるだけ。」
「…。」
「演じ切った。」
「…。」
「主演男優賞ものだよな。」
「…。」
「この葉書で許されて、今日でここを辞めて、明日からはあいつとの幸せな日々…、のはずだった。」
「…。」
「…はずだった。」
「…。」
「…はずだったんだよ!」
「…。」
代償
1 本人に代わってつぐなうこと。代弁。
2 他人に与えた損害に対して、金品や労力でつぐないをすること。
3 目的を達するために、犠牲にしたり失ったりするもの。
4 欲求などが満たされないとき、代わりのもので欲求を満たそうとすること。
終わり
代償 明日出木琴堂 @lucifershanmmer
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