第十三章 復讐

 雅秀は息を飲む。砂を嚥下したかのように、喉が痛んだ。車内で練炭の煙を吸ったせいではない。恐怖により、喉が強張っているのだ。


 相変わらず、体のほうは睡眠薬の影響で動かせなかった。


 「本当なら、こんな話なんてせず、車に置き去りにして中毒死させるつもりだったけど、仕方ないわ」


 アズサはこちらにぐっと顔を近づけた。暗闇のせいか、それとも興奮のせいか、猫科の動物ように、瞳孔が開いている。


 「いずれにしろ、あなたには死んでもらうから」


 アズサは冷酷にそう宣告した。


 雅秀は目を瞑る。


 確かに、アズサの妹を教唆し、自殺に誘い込んだのは自分だ。だが、最終的に死を選択したのは他でもない、あの子の意思である。自分のせいではない。


 雅秀は心の中でそう叫んだ。しかし、これをアズサに伝えても、納得してくれないだろう。


 アズサは雅秀の足を掴むと、砂袋のようにワンボックスカーのほうへ引きずっていく。おそらく、再び車内へと戻し、練炭によって殺す算段だろう。


 ちくしょう。ふざけやがって。


 雅秀の中に、メラメラと怒りが燃えてきた。練炭の炎のような静かな焔だ。


 俺は自殺を考えているが、不本意に殺されたくはなかった。ましてや、憎しみを向けてくる相手からの引導は、何としても受けたくない。


 雅秀は必死に抵抗しようとした。手足を動かそうとする。しかし、無駄だった。やはり睡眠薬が効いており、体に力が入らなかった。そればかりか、眠気も襲ってきている。


 このままでは、本当にアズサに殺されてしまう。しかも、状況証拠から死因は『自殺』と警察に判断されてしまうだろう。


 せっかく心中相手を募集したのに。女子高生と自殺できると思ったのに、一人で逝くのはまっぴらごめんだった。


 雅秀は、必死に右手を伸ばす。かろうじて動いた。ふと、指先がポケット触れる。


 雅秀は強張る指先を動かし、ポケットを探った。硬い感触が伝わってくる。


 雅秀はそれを引っ張り出した。カッターナイフだ。車内でガムテープを切る際、使っていた物である。


 雅秀はカッターナイフの刃を出し、自分の脚を切りつけた。激痛が電流のように脳天を貫く。


 雅秀は悲鳴を上げた。脚を掴んでいたアズサが弾かれたように振り向いた。そして、ぎょっと目を見開いた姿が目に映る。


 雅秀はさらに太ももを切る。焼けた鉄の棒きれを押し付けたような痛みが発生し、雅秀は呻き声を漏らした。


 地獄のような苦痛だが、しかし、頭の中を覆いつつあった眠気は瞬時に吹き飛んだ。麻痺したように動かなかった手足も、痛みにより自由が利くようになった。


 雅秀は足を勢いよく動かす。掴んでいたアズサの手が簡単に離れる。


 雅秀は立ち上がった。少しふらつくが、問題はない。脚の傷も不思議に気にならなかった。


 目の前にアズサの姿が見える。月明かりに照らされ、恐怖に包まれた表情を浮かべていることが見て取れた。


 雅秀は手にカッターナイフを持ったまま、アズサへ飛び掛った。アズサは背を向け逃げようとするが、亀のように遅い。とっさの出来事と恐怖により、動きが鈍くなっているようだ。


 雅秀はあっさりとアズサを捕まえると、肩を掴み、地面へとねじ伏せた。相手は若い女。こうなってしまえば、こちらのものだ。


 「ふざけやがって。このクソ女」


 雅秀は駐車場のアスファルトにアズサを押さえつけたまま、そう怒鳴った。ここは人里は慣れた場所である。いくら騒いでも誰も助けにはこないだろう。


 しかし、念のため。


 雅秀はアズサのチャックパンツをまさぐった。アズサは狂気に駆られたように暴れて抵抗するが、無駄である。いくらうだつの上がらない人間だろうと、自分は男なのだ。女一人制圧できなくて、どうする。


 雅秀はアズサのチャックパンツのポケットから、スマートフォンを取り出した。そして自身のポケットに入れる。これで通報される心配はなくなった。


 あとは……。


 雅秀はアズサを見下ろした。アズサは怯えた表情で、こちらを睨んでいる。まさか逆襲されるとは露ほども思っていなかったらしい。動揺が手に取るように伝わってくる。


 雅秀は、アズサのコートに手を伸ばした。ボタンを外そうとする。アズサは解体される小動物のように暴れ始めた。自分が何をされるか悟ったらしい。


 悪戯をする悪い娘には、お仕置きをしなければならない。それが大人の務めだ。


 雅秀は、無理矢理にアズサのチェスターコートのボタンを外し始めた。アズサが暴れるものだから、いくつかは引き千切ってしまう。しかしこれも、彼女が悪いのだ。下手に抵抗するから。


 チェスターコートのボタンは全て外され、中に着ている白のブラウスが露わになる。アズサは胸も大きいほうだった。雅秀は唾を飲み込んだ。


 雅秀はさらに、ブラウスも脱がせようとする。アズサの抵抗が強くなった。死に物狂いで暴れているが、雅秀は意に介さない。やはりアズサは力が弱いただの女だ。先ほどまで粋がっていた姿が今や滑稽にすら思える。


 報いを受けるがいい。


 雅秀はブラウスに手を入れながら、アズサに覆い被さった。そして、次にスカートへ手を伸ばす。とっくに自身の股間は膨張していた。


 すでにアズサとの性交のシーンが、アダルト動画のように脳裏に展開している。目覚める直前まで見ていた夢。アズサと結ばれたあの幻想と同じ行為ができるのだ。


 雅秀が歓喜に包まれた。


 その時だった。


 股間に強い衝撃が走る。それから、一瞬間を置いて、脳天まで貫く激痛。下腹部が潰れたような痛み。


 股間を蹴られたのだとわかったのは、反射的に蹲った時だ。股間を押さえ、悶える。


 蹴った張本人は、肉食獣の牙から逃れた小鹿のように、もがきながら雅秀の下から這い出る。そのあと即座に立ち上がり、はだけた服を押さえながら駆け出した。


 雅秀は追いかけようとするものの、下半身に力が入らなかった。立ち上がるのもままならない。男の急所へのダメージは、かなり深刻だった。


 やがて股間の痛みが遠のき、雅秀はよろめきながら立ち上がる。まだ疼くような痛みはあるが、性器は潰れていないようだ。


 すでに、アズサの姿はなかった。どこに行ったのかもわからないため、闇雲に追っても、徒労に終わるだろう。つまり、逃げられたのだ。


 雅秀はしばらく、その場に佇んでいた。


 朝日が山間から顔を出す頃。


 雅秀の心の中を、朝日よりも真っ赤な怒りが占拠していた。溶岩が噴出すような、煉獄にも似た怒り。


 クソ女め。よくも……。


 女子高生と偽り、こちらを殺そうと画策した不埒な女。レイプから逃れて、姿を消した。愚かな真似だ。これは、万死に値する。


 雅秀は清らかな朝日を身に受けながら、アズサを殺すことを誓った。




 レンタカーを返却し、自ら傷つけた脚の傷を治療したあと(幸い、傷は深くなかった)旅館のような外観の駅から、都内方面の列車に乗り込む。


 昨日の朝にやってきたルートを、逆走する形だ。


 雅秀は列車に揺られながら、アズサから奪ったスマートフォンをチェックしていた。


 幸い、ロックはかかっておらず、中身を開くことができた。


 それにより、アズサの『本当』のプロフィールが判明した。


 アズサの本名は、楠月梓というらしい。都内の大学に通う二年生の女子大学生。内容から親元を離れ、一人暮らしとまではわかった。


 梓はスマートフォンには住所の類の情報を入れておらず、自宅までは突き止められなかったが、通う大学がわかった以上、それで充分だった。


 待ち伏せし、後をつければいい。おそらく住居は都内近郊のはずなので、難なくたどり着けるはずだ。まさか、御徒町ということはないだろうが……。


 列車に乗って一時間程経つ。行きと違い、あっという間に感じる。


 やがで、雅秀は会社の寮がある最寄り駅に到着した。始発に乗ったため、時刻はまだ早い。だが、通勤通学の時刻はとっくに過ぎていた。


 今すぐ梓が通う大学に赴き、張り込みをしたいが、こちらにも生活の事情がある。なにせ、今日は出勤日なのだ。


 当初の予定通りなら、今頃は自殺に成功し、黄泉の国へと旅立っていたはずなので、本来、仕事の心配は皆無である。だが、梓の謀略により、全てが狂ってしまっていた。


 明日からも生きなければならない(希死念慮がまだ存続している状況で珍妙だが)ため、仕事はおいそれと休むわけにはいかなかった。こちらはしがない派遣社員なのだ。


 それに、よくよく考えると、梓は今日、大学には姿を現さない可能性が高かった。つい数時間前の出来事なのだ。スマートフォンを奪われた以上、張り込まれていると考えるのが妥当である。おそらく、雅秀が赴いても徒労に終わるだろう。


 雅秀は寮に帰ると、出勤することに決めた。下手にサボったら、この寮にもいられなくなるおそれがある。


 雅秀は急いで出勤の準備を行った。遅刻確定だが、休むよりはマシだ。


 服を着替えている最中、脚が痛み、小さく呻いた。梓の手から逃れるために、自ら付けた傷である。


 雅秀は、傷口に貼ってあるガーゼを撫でながら、梓のことを考えた。


 今彼女は、どうしているのか。警察に駆け込んだのか。


 雅秀は、一人で小さく首を振った。いや、それはないはずだと思う。彼女もこちらの命を狙ったのだ。しかも客観的には自殺未遂である。喫急の命の危険がない限り、彼女も簡単に警察に頼るわけにはいかないはずだ。その上、雅秀を危険と証する根拠も消えている。


 梓側に、国家権力が付く心配は不要だと断言できるだろう。つまり、彼女は無防備も同然なのだ。


 雅秀は梓と対峙した際の光景を思い浮かべた。散々舐めた真似をして、こちらを追い込んだのだ。徹底的に『お仕置き』をしてやらなければ。


 雅秀は、小さく笑みを浮かべた。




 「おい、なにちんたらしてんだよ、グズ」


 クリーンルーム内に、菊池の胴間声が響き渡る。


 雅秀は装置から目を離すと、背後を振り返った。


 視線の先で、菊池がこちらを鬼の形相で見下ろしていた。防護服のように目だけ出ているクリーンスーツだが、長い間接していると、それだけで誰なのか判別できるのだ。


 「永倉、こんな作業にどんだけ時間かけてんの?」


 菊池はカツアゲをするチンピラのように、脅し口調で難詰してくる。


 雅秀はそれに答えず、菊池から目を逸らすと、洗浄機である装置を見つめた。ついさっき、ウェハーケースを装置に突っ込み、開始させたばかりだ。


 それ以前の工程は、別の作業員が担当している。この装置にウェハーケースを入れて、洗浄を開始するまでは五分とかからない。実際、雅秀は、それくらいで作業を終えている。


 つまり、菊池の言う『ちんたら』は、雅秀に向けるべき言葉ではないのだ。


 「おい、なに無視してんだよ。負け犬のオタク野郎」


 菊池が挑発するように言う。雅秀は、クリーンルーム内に設置されてある大型のデジタル時計に目を向けた。


 時刻はちょうど正午だ。休憩の時間が到来している。菊池がイラだっているのは、おそらくこのためだろう。


 なんのことはない。つまり『普段通り』なのだ。


 雅秀がその場を離れようとした時、菊池から進路を塞がれた。菊池は大柄なので、自然と立ち止まるしかない。


 雅秀は菊池を見る。彼は精悍な目を小馬鹿にしたように歪め、こちらに視線を注いでいた。


 「あのさ、お前が遅いから、休憩時間越えちゃったわけ。だから責任とって、このウエハーも片付けといてくれよ」


 菊池は、近くの作業台に載せてあるウエハーケースを顎で指し示した。あれは測定機にかける分であり、洗浄に比べると随分と時間がかかってしまうシロモノだ。


 雅秀が無言でいると、菊池は鼻で笑い、その場を離れていった。そして、待っていた他の作業員と共にクリーンルームを出ていく。


 残された雅秀は、ため息をつくと、菊池が残したウエハーケースを手に取った。




 遅めの昼食を済ませた雅秀は、休憩室でスマートフォンを弄っていた。これは自身のではなく、梓のものだ。


 中身を徹底的に調べ上げ、可能な限り彼女の情報を得なければならなかった。『復讐』に至るまでの必要なメソッドだ。


 缶コーヒーを片手にしばらくの間、梓のスマートフォンを精査する。


 けっこう夢中になっていたせいか、人の接近に気がつかなかった。休憩室内が喧騒に包まれていたせいもある。


 雅秀は声をかけられた。


 「ねえ、永倉さん、ちゃんと十番のウエハーケース、洗浄まで進ませた?」


 顔を上げると、志帆が目の前に立っていた。髪を後ろで纏めた地味な女性。学級委員長のような優等生然とした相貌だが、目鼻立ちは整っていた。


 「ええ。進んでますよ」


 雅秀がそう答えると、志帆は頷く。


 「そう。ならいいんだけど……。三十番のウエハーは?」


 「それならまだです。測定機にかけたばかりなので」


 志帆は、きっと目を吊り上げた。学級委員長から、ヒステリックなお局様に変貌した瞬間だった。


 「はあ? なにやってるの? 三十番、さっさと終わらせないと次の工程進めないじゃない。本当にグズね」


 志帆はそう吐き捨てた。唾が放物線を描き、飛んでいく様が雅秀の目に映る。


 「そう言われても、本来、あれは菊池の仕事ですよ」


 「関係ないでしょ? あなたが菊池さんから作業を引き継いだ以上、あなたの責任なのよ。そんな身勝手な思考だから、いつまで経っても派遣なのよ」


 志帆は苛立った口調で、雅秀を罵った。近くにいた志帆の同僚たちが、クスクス嘲った笑い声を上げる。それを雅秀は視界の隅で捉えた。


 雅秀はぎりっと歯噛みをする。だが、それ以上は何もしなかった。所詮は、いつものことなのだ。


 なおも、志帆の叱責が続く。雅秀は梓のスマートフォンを持ったまま、黙って聞いていた。


 「どうしたんだ? 志帆」


 そこで、菊池が大柄な体を揺らしながら、そばにやってくる。志帆は、菊池を確認するなり、目を輝かせた。


 「菊池さん、おつかれさま」


 志帆はこちらを一瞥した。


 「またこの人が作業を遅れさせちゃって」


 菊池は乾いた笑い声を上げた。


 「またか。間に合わないんなら、休憩潰せばいいのに」


 菊池は、自身が作業を押し付けたことなど忘れたかのように、いけしゃあしゃあと非難をする。志帆は含み笑いを浮かべた。志帆も成り行きを菊池から聞いているはずなので、誰が一番悪いか知っているはずであった。


 雅秀は、じっと俯く。自殺未遂の際に見た『夢』が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。あまりにも現実と乖離した世界。あの世界は悪くはなかった。


 「それじゃあ菊池さん、あとで例の話をしましょう」


 志帆は菊池に声をかけると、近くに座っていた同僚たちの元へ戻っていった。元々、鬱憤晴らしのために雅秀に絡んできたらしい。


 菊池もこちらに舌打ちすると、離れていく。志帆が言っていた『例の話』とは、菊池へ推薦されている正規社員への昇格の件のことだろう。


 雅秀は周辺が静かになると、再び梓のスマートフォンを触り始める。


 今の自分には、もうこれしか残っていなかった。自殺を決行するほどの惨めな自分には、梓に復讐する目的を達成する願望しか。


 雅秀は一人で休憩室のソファに座ったまま、スマートフォンを操作し続けた。




 自殺未遂から一週間が経過した頃。


 雅秀は山手線を乗り継ぎ、駅へと降り立った。それから駅前の遊歩道に出て、目的地を目指す。


 目当ての場所はもちろん、梓が通う大学だ。


 雅秀は先日購入したグレーのキャップを深く被り、俯き加減で歩いた。この近辺は繁華街に比べれば人通りは少ないが、それでもすれ違う人数は相当な数だ。これから行う『イベント』を考えれば、可能な限り容貌は覚えられたくなかった。


 事前に調べたコンビニや銀行などの防犯カメラがあるルートを避け、極力監視の目が少ない場所を選定して進む。無駄かもしれないが、用心するに越したことはないだろう。


 しばらく経つと、茶色い外壁と共に正門が見えてくる。


 梓の大学だ。私立の女子大であり、偏差値は低い学校だ。自殺決行の前に、梓が語っていた「自分は成績が悪い」という証言は、どうやら嘘ではないらしい。


 雅秀は、正門から直視されても、容姿をすぐには判別できない位置で立ち止まった。そして、路傍に体を寄せ、大学の入り口近辺の様子をうかがう。


 平日の午後だが、人の出入りはそこそこある。正門の内側に、守衛の管理小屋が見えることから、セキュリティは厳重であることが理解できた。


 対象の場所が女子大であるため、聴講生を装って侵入することも難しいだろう。ここは大人しく、梓が姿を現すのを待つのが懸命だ。焦るあまり、警察沙汰にでもなってしまえば、全てがご破算なのだ。


 雅秀はスマートフォンを操作するふりをしながら、正門に注意を払った。梓のスマートフォンを調べてわかった彼女のスケジュールは、今日が履修日だ。出席日数がやばい、との実情があるらしく(雅秀をはめるために傾倒していたせいだと思われる)今日は通学するはずだと雅秀は踏んでいた。


 待ち続けること一時間ほど。


 梓はまだ現れない。あまり一箇所に留まり続けていると、周囲から不信を買ってしまうため、時折、場所を移動することを心掛ける。まるで探偵だ。


 雅秀は根気よく待った。十一月初旬が過ぎ、寒さも強くなってきている。もっと厚着をしてくればよかったと思う反面、目立たない格好の今の服装がベストなのだ。


 雅秀は、立ちっぱなしの苦痛と、肌寒さに嫌気が差しながら、それでも辛抱して耐えた。全て梓に復讐するために。


 やがて、我慢が身を結ぶ。雅秀の視線の先で、見覚えのある女性が正門を通って、校内へと入っていく姿を捉えたのだ。


 服装の雰囲気こそは、年相応に変わっているものの、あの赤みがかった髪と、整った顔立ちは見間違えようがなかった。


 雅秀の中に、炎が生じた。心と身を焦がす紅蓮の火炎。唯一の生きる目標。


 雅秀は、梓の姿が消え去るまで、背中を見送った。あとは、再び正門から出てくるまで待機しておけばいい。


 雅秀は、獲物を狙うハイエナのような視線を一度正門へと向けたあと、梓がやってきた方角を勘案し、絶好の位置まで移動した。




 二時間ほどが経過し、雅秀ははっと目を見開く。


 梓が正門から出てきたのだ。彼女は一人だった。


 梓は冷たい風に髪をなびかせながら、周囲をさほど警戒することなく、歩道へと足を踏み入れた。こちらには気がつかなかったようだ。選んだ位置取りは正しかったらしい。


 雅秀は梓の様子をうかがいつつ、ある程度距離が離れたところで、歩き出した。


 キャップを深く被り、振り向かれても雅秀だと認識できない距離をキープし、あとをつける。歩道には人も多く、梓との間にも『壁』として存在しているため、簡単には尾行が発覚することはないと思われた。


 しばらくの間、追跡劇が続く。梓は無用心にも、一度も背後を確認しなかった。つい一週間前に、殺し合いに近い出来事を経験し、相手が今も野放しなのに、随分と呑気だと思う。


 梓はゆっくりと歩きながら、時折、スマートフォンをチェックしていた。以前所持していたスマートフォンは雅秀に奪われたので、新しく購入したようだ。証拠に、数日前、雅秀が持っている梓のスマートフォンは、使用不可能になっている。


 尾行が始まり、十数分が経過した頃。梓は大学の最寄り駅へと到着した。他の乗客を縫うようにして、颯爽と構内へと入っていく。


 どうやら、自身の住居へと帰宅するつもりらしい。このまま追い続ければ、いずれは梓の所在を突き止めることができるだろう。そうなれば、あとは煮るなり焼くなりこちらの思うがままだ。


 梓はやってきた列車に乗り込み、窓際に立って外を眺める。雅秀は同じ車両の隅のほうに陣取り、梓の様子をうかがった。


 ふと、『夢』で見た光景とほとんど一緒ではないか、と思った。デジャブのような奇妙な感覚に、雅秀はとらわれる。


 やがて列車は駅に停車した。それと同時に、梓が動き出す。どうやら降車するらしい。


 列車内の案内板で駅名を確認すると、若者が多く住む街の駅だとわかる。大学生も多く居住していることから、女子大生が住むには打ってつけの街であろう。


 雅秀は距離キープを遵守しながら、梓に合わせて降車した。


 そして、これまでと同じように、尾行を継続する。


 駅を出て、住宅街へと梓は歩き、やがて一軒のアパートへたどり着いた。梓はそのままアパートの中に入っていく。


 雅秀は立ち止まり、アパートを見上げた。『メゾン大塔』と、建物の側壁に名前が記されてある。


 見る限り、大学生向けの物件のようだ。ワンルームのアパートらしく、建物の規模は二階建てと、さほど大きくはない。


 玄関こそはオートロックだが、いくらでも突破は可能だろう。見るからに貧弱で、はりぼてのバリケードも同然だ。


 雅秀は玄関に近づいた。天井を確認する。防犯カメラらしき物体は、見当たらない。梓は、厳重なセキュリティを擁する物件に住む余裕はないらしかった。


 雅秀は正面に目を向けた。入り口はガラス張りの自動扉。中を見通すと、複数の郵便ポストが見える。住人全てのものが集まっているようだ。


 かろうじて、ネームプレートが見えた。梓の名前を探し、彼女が201号室であることを突き止める。おそらく、二階にある一室だろう。


 自分が今やるのはここまでだ。


 雅秀は、周囲を警戒しながら、ゆっくりと玄関を離れた。そして、やってきた道を引き返す。


 雅秀はキャップを被り直すと、ほくそ笑んだ。


 もうすでに梓は、追い詰められたネズミも同然だ。住む部屋まで探り当てたられたのならば、あとは雅秀の胸先三寸次第。特に、雅秀のように失うものがない人間にとっては、己の人生を棒に振るような真似だろうと、まったく頓着せずに事を成し遂げられるのだ。


 雅秀はこれから先、訪れるであろう『楽しみ』を頭に思い描き、下半身の疼きが抑えられなくなった。


 高らかに笑い声を上げたい気分になった。




 寮へと戻った雅秀は、さっそく準備に取りかかる。ボストンバックを用意し、復讐に必要な様々な『道具』を中に詰める。職質されれば即アウトだが、外観からは特に怪しまれるべき要素が見当たらないため、特に懸念すべき事項ではないだろう。


 準備を整えた雅秀は、最後に全ての所持品をチェックし、部屋を後にした。次、この部屋に戻ってきた時は、勝利の凱旋になるだろう。燃え上がるような高揚感に包まれているに違いない。


 寮を出た雅秀は、ボストンバックを肩に掛け、最寄りの駅へ向かう。時刻はすでに夕方で、日の入りも早くなったせいで薄暗い。だが、セールスなどの訪問時間帯で言えば、さほど不自然な時間ではないので、タイミング的には悪くはなかった。


 列車を乗り継ぎ、雅秀は数時間前に訪れた駅へ再び足を踏み入れていた。


 そして、梓のアパートを目指す。ラッシュアワーの時間にぶつかったため、複数の人間とすれ違うが、誰も雅秀に注意を向けていなかった。まさか彼らも、今すれ違った男が、世間を揺るがすような汚行を志しているなど、露ほども思っていないだろう。


 ほとんど時間がかからないうちに、梓のアパート『メゾン大塔』へと着く。雅秀は、玄関が見える位置で待機し、様子をうかがった。


 少し待つと、住人らしき者が、玄関へと近づく姿が目に入る。


 住人は、自動扉の隣に設置されてあるコンソールパネルの前で、操作を行っていた。雅秀はそれを確認すると、ゆっくりと接近する。


 そして、何食わぬ顔を作り、そばに立つ。やがて自動扉が開き、住人は中へと入っていった。雅秀もそれに続く。背後で、自動扉が地獄の門のように閉じた音を聞き、雅秀はほっと息を吐いた。


 難なく進入を果たしたのだ。


 結局、雅秀を内部に『導いてくれた』住人は、最後まで雅秀の顔を見ようとすらしなかった。昨今、凶悪犯罪が叫ばれているが、人間とは所詮その程度である。真に危機が訪れない限り、自覚も用心も頓着しないのだ。


 雅秀は小さなエントランスを通り、階段へ進む。防犯カメラも守衛もいないアパートなので、オールスルーも同然だ。こうなれば、こっちのもの。


 雅秀は階段を上りきり、二階へ到達する。それから、梓の部屋である201号室を探した。


 あった。二階東側の一番奥。


 雅秀は肩に掛けたボストンバックを擦りながら、梓の部屋の前に立った。周囲を見渡し、誰もいないか確認する。先ほどの『案内人』は、自分の部屋に入ったのか、姿は消えていた。


 周囲の『安全』を確保した雅秀は、ボストンバックを開いた。そして、中からボルトニッパーを取り出す。ボルトニッパーは大きな鋏のような工具で、太い番線や、チェーンを切るために使用されるものだ。


 雅秀は、梓の部屋のインターホンを鳴らす。そして、ボルトニッパーを構えた。ドアスコープから視認されない位置に陣取るのも忘れてはいけない。


 玄関扉の向こうから、ドタドタと人が床板を踏み鳴らす音が聞こえる。そしてすぐに、鍵が外される硬質な音が響く。


 玄関扉が、軋みながら開かれた。しかし、完全には開かれず、腕が入るくらいの間隔で止まる。ドアチェーンのせいだ。


 雅秀は即座に、ボルトニッパーを扉の隙間から差し込み、チェーンを先端に挟んだ。そして、思いっきり力を込める。


 パキンと、木の棒を折ったような小気味いい音がして、簡単にドアチェーンは切断された。すだれのように、二本のチェーンが垂れ下がる。


 扉が開かれてから、数秒もしない間の出来事だ。梓はきょとんとした顔をしている。その顔が、恐怖に歪むよりも先に、雅秀は扉の隙間に体をねじ込ませた。


 梓の表情が歪む。だが、雅秀はそれ以上の隙を与えなかった。


 すでにボルトニッパーは床へと投棄し、手には新たに取り出した両口ハンマーを持っていた。


 雅秀は、梓の頭部に両口ハンマーを振り下ろす。スイカを殴った時のような、鈍い衝撃が手に伝わってくる。


 梓はぎゃっと小さく呻くと、頭を押さえて、蹲った。両口ハンマーは他のハンマーよりも頭の部分が大きく、打撃のダメージはひとしおだろう。


 雅秀は完全に部屋の中へ入ると、素早く玄関扉を閉じ、施錠をした。これで彼女は袋のネズミだ。


 雅秀は再び梓に向き直り、彼女を見下した。梓はまだ頭を押さえて蹲っている。手の間から血が滴り落ちていた。ハンマーは見事、梓の頭部を砕いたらしい。我ながら良い腕をしていると思う。大工にでも転職すればよかったかな? まあ今更もう遅いが。


 雅秀はさらにハンマーを振り上げ、何度も梓の頭に打ち下ろした。梓は殴られるたびに、ガマガエルのような濁った声を上げる。


 やがて、梓の動きが鈍くなった辺りで、雅秀はハンマーをその場に捨て、ボストンバックをまさぐった。


 そこから、ナイフを取り出す。刃渡りが三十センチほどもあるステンレス製のボウイナイフだ。警察に所持を発覚されたら、即没収ものだろう。


 そして、雅秀はそれをしゃがみ込んでいるアズサへ向けて、ボディブローを打ち込むような形で突き刺す。


 米袋を刺したような感触がして、ナイフの刃が、梓の腹部深くに食い込んだことを確信した。


 梓は腹部を押さえ、横になって倒れる。苦悶の表情を浮かべ、もがく。あまりにも唐突な一連の暴力により、悲鳴を上げる余裕すらなかったらしい。雅秀にとっては、好都合だった。


 すでに床は血だらけで、彼女が大きな深手を負っていることは明白だ。このまま放っておいても、逃げることはおろか、いずれは死に至るはずである。


 雅秀は満足気にため息をつく。まるで長期の出張を終わらせた気分だ。晴れ晴れとした充足感が全身を満たす。


 今、自分が行った犯罪は、時間を経ればいつか必ず警察に露見するものだ。痴漢を逮捕するよりも簡単に、警察は雅秀の腕に手錠をかけるだろう。


 自分の未来を一切考えない者だけが取り得る、玉砕覚悟の凶行だ。ごり押しと言ってもいい。まさに、自殺志願者の面目躍如といったところか。


 雅秀は梓を見つめる。これで彼女の人生は終わりだ。そして雅秀も。復讐完了である。


 だが、その前に。


 雅秀は、ズボンをその場で脱ぐと、瀕死の梓の上に覆い被さった。それから、彼女の服を脱がし始めた。




 射精した快感の残滓と、気だるさを感じながら、雅秀は梓の部屋を後にした。部屋の外は、まるで何事もなかったように静かだ。


 梓が騒ぎ立てることなく、綺麗に天国へと旅立ったお陰だろう。スムーズに全てを終わらせることができた。彼女も今頃は妹と再会できて、満足に違いない。


 鼻歌を歌いながら、階段を下り、アパートの外へ出る。


 雅秀は手ぶらだった。持ってきたボストンバックは、梓の部屋に置いてきてある。


 そのため、部屋の中には、雅秀の犯行の証拠が見本市のように残されてあった。手袋も付けていなかったので、指紋はいくつも付着しているだろうし、凶器も残存、おまけに梓の体内に射精された雅秀の精子は、今もなお活動していることだろう。


 数日後には、警察は雅秀の寮の扉を叩くに違いない。だが、それでも一向にかまわなかった。もうその頃には雅秀は『逃げおおせて』いるのだから。


 アパートを出た雅秀は、一直線に駅へ向かった。終電にはまだ早いので、大勢の人間とすれ違う。誰もが雅秀を見ようともしない。路傍の石と同じだ。


 雅秀が殺人者だとは知りもせずに。愚かな凡人共め。


 俺はついさっき、人を殺してきたばかりなんだぞ。お前らとは、すでに格が違う立派な人間なんだ!


 雅秀は心の中で快哉を叫んだ。まるで自分が勲章でも授けられたかのような、誇らしい人間になった気分だ。


 ここ数年、あるいは、生まれてから、これほど気持ちが晴れやかになったのは、はじめてのことかもしれない。


 雅秀は、意気軒昂に帰路へと着いた。


 ハミングを行いながら、雅秀は寮の部屋の扉を開けた。そして、部屋の中に入る。

 電気を点けると、いつものレイアウト。気分だけが高揚していた。


 雅秀は部屋の隅に近づき、そこに置いてある『荷物』を手に取った。


 練炭と、七輪、それから小道具等。


 雅秀はそれらを抱え、浴室へと向かった。玩具を運んでいるような、楽しい気分に包まれる。


 立て付けの悪いガラスドアを開け、雅秀は浴室に入る。穴蔵のような狭くてジメジメした場所だ。元々安アパートをそのまま転用して作られた寮である。監獄に似た薄汚い雰囲気があった。


 以前は、部屋や浴室に入るたびに、己の不遇さを再認識させられていたが、現在はもうどうでもよかった。今はとにかく、気分が良い。


 雅秀は浴室のタイルの上に七輪を置くと、ガムテープを使い、鼻歌混じりに窓やドアの隙間を目張りしていく。


 やがて、全ての目張りが完了し、雅秀は七輪に練炭を投入した。ライターで着火し、火を起こす。


 火が消えないことを確認した雅秀は、睡眠薬を口に含み、蛇口の水と共に飲み込む。最後の飲み物が、浴室の蛇口の水とは、なんともユニークだ。


 よし。これで準備万端である。あとは睡魔に任せ、天国へ旅立てばいい。


 雅秀は浴室のタイルの上へ寝転がった。早くもまどろみが訪れている。


 これでこちらの『勝ち』だ。かつて女子高生に自殺教唆を行い、共に自殺を決行した。だが、自分だけがのうのうと生き残った挙句、復讐に燃える姉をも殺害し、罪を償うことなく、この世を去るのだ。


 悪くない最後だった。


 雅秀は薄っすらと目を閉じた。全身が沈み込むような感覚に襲われる。雅秀は身を任せた。


 その時である。


 ポケットに、何かが入っていることに気がついた。けっこう大きいものだ。握り拳ほどの。


 そんな大きい物体をポケットへ入れた記憶はないし、どうして今まで気がつかなかったのか不思議だった。一体、なんだろう。


 雅秀は急速に力が失われていく手を動かし、ポケットをまさぐった。そして、中のものを取り出す。ゴムボールのように柔らかい。


 雅秀は取り出したものを、霞んだ目で見てみる。それは小さなティディベア人形だった。握り拳ほどの、青い熊の人形。


 見覚えがある。これは確か、アズサと自殺未遂を行ったあと、渋谷で遊んだ時に彼女へプレゼントしたものだ。


 そこで雅秀は、ふと大きな矛盾があることに気がつく。麻痺したかと思われた肌に、粟が生じたことを自覚した。


 おかしい。おかしすぎる。そんなわけがないのだ。このテディベアは、『夢』の中で登場したものだ。この世界には存在するはずがない物体。


 雅秀は睡眠薬により、薄れゆく意識の中、混乱を来たしていた。


 なぜ、これが、今ここにあるのか。絶対に有り得ないはずだ。


 その疑問の解を導き出すよりも前に、雅秀の意識は睡魔に飲まれ、闇の中へと落ちていった。

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