第九章 尾行
「遅くなってごめん。アズサ」
雅秀は、秋葉原駅の出口付近にある柱の前いたアズサに駆け寄った。
待ち合わせの時間はとっくに過ぎている。それにも関わらず、アズサはこちらの姿を確認すると、顔をパッと明るくした。
「大丈夫だよ。雅秀と会うためなら、いつまでも待っていられるから」
そう言うとアズサは、こちらへ抱き付いた。シャンプーの香りか、良い匂いがふわりと漂う。
恥ずかしくなった雅秀は、どうしていいかわからず、目を背ける。
先日、雅秀はアズサへ遊びの誘いをかけた。アズサはそれに対し、一も二もなく了承した。そして話し合った末、秋葉原を『デート』の候補地にしたのだ。
もちろん、今回の思惑は菊池の提案が発端だ。すでに彼には連絡済みであるため、この光景をどこからか見ていることだろう。
雅秀から離れたアズサは、にこやかに笑みを浮かべた。
「それじゃあいこう」
アズサは左手を差し伸ばした。ダッフルコートの袖口から、先日付いたばかりの生々しい自傷の跡が見える。
雅秀は躊躇しながらも、手を取った。
二人の様子を監視している者がいて、しかもそれが知り合いとなると、見世物のようで恥ずかしさが先行する。かと言って、ここで手を取らないとアズサに疑心を与えてしまうため、拒否は不可能だ。
雅秀はアズサと手を繋ぎ、引っ張られるようにして秋葉原の街へと歩き出した。
雅秀は、アズサと一緒に秋葉原の店舗やゲームセンターをいくつか遊んで回る。アズサはこの前の出来事などまるで夢であったかのように、平然と接してきていた。
午後になるとアズサのリクエストにより、上野へと移動を行った。目当てはそこにある有名な美術館だ。
美術館では、ちょうどミレイの展覧会が開催されていた。女子高生にしては趣味が渋いように感じたが、多分、展覧会の内容はどうでもいいのだろう。
雅秀はアズサと、恋人のように手を繋ぎながら、美術館内の絵画を見て回った。
『オフィーリア』の絵をアズサと一緒に眺めていた時だ。ふと、雅秀は既視感を覚えた。
目の前の絵画のせいかもしれない。子供の頃、この絵を見たことがあるが、それは関係なかった。
どことなく、このオフィーリアは、アズサに容姿が似ているような気がしたのだ。
アズサのほうをうかがうと、彼女は絵ではなく、こちらを注目していた。この絵に対して、特に興味は抱いていないらしい。
『オフィーリア』の絵から離れ、アズサと手を繋いだまま、しばらく館内を歩く。今日は休日なので人は多いが、老人や中年のカップルばかりで、アズサのような若い女は少なかった。ましてや、男一人で訪れている者などいない。
それを見ながら、雅秀の頭にふと懸念がよぎる。菊池のことだ。
彼は尾行でこちらの後を追っているはずだ。つまり、彼は今、一人で入館していることになる。
男が一人、こんな場所のいては、周囲から怪しまれないのだろうか。しかも、菊池の外観は、およそ美術から程遠いイメージの人間だ。どこから様子を窺っているのか知らないが、相当浮いてしまっていると思われた。
やがて、ほとんどの絵画を見終え、雅秀たちは美術館を後にした。
その後も、日が沈むまで上野を散策する。そして周囲が闇に染まった頃、雅秀たちは駅へと戻った。
雅秀はそこでアズサと別れることにした。上野駅周辺は、帰宅する人間で溢れかえっている。
雅秀が解散を告げると、アズサは名残惜しそうな様相をみせた。彼女は、躊躇うことなく、雅秀の寮へ行きたいと申し出てくる。雅秀は困惑した。
今日の『デート』の目的は、菊池にアズサを認識させ、その後尾行させることにある。このまま雅秀の寮にアズサを連れて行けば、後手に回るだろう。そればかりか、アズサは下手をすると、雅秀の部屋に宿泊したいと言い出すかもしれない。
それは避けたい展開だった。尾行の計画はご破算になる上、アズサと一緒に一晩過ごすのは恐怖があった。
雅秀は、何とかアズサを説得にかかった。明日は仕事なので早く帰らないといけないことや、未成年者が一人暮らしの男性の家に訪れるのは、やはりまずいことなどを伝える。
説得を行いながら、雅秀は、いつアズサが自殺を仄めかすのか戦々恐々としていた。地雷の中を歩いている気分になる。そこには、自傷行為という爆発物も埋まっているのだ。
説得を続ける雅秀を、アズサは大きな目でじっと見つめていたが、やがては何かを悟ったかのように、ふと笑みを浮かべた。
天女のような可憐な微笑。曰くつきだろうと、可愛い女子高生には変わりはない。
アズサは言う。
「うん。わかった。事情があるなら無理にいかないから」
アズサは意外にも、雅秀の説得に対し、素直に応じる様子を見せた。
雅秀は呆気に取られるが、ほっと息を吐く。どうやらアズサは納得してくれたらしい。良かったと一安心する。
後は……。
雅秀は、アズサと上野駅でいくつか言葉を交わし、その場で解散した。彼女とは路線が別なのだ。
アズサと別れた後、雅秀は立ち止まり、周囲の様子をうかがう。だが、すでに彼女の姿は確認できなかった。もう帰路についたらしい。
おそらく、菊池の尾行も始まっているはずだ。上手くいけば、アズサの素性を把握できることになる。期待しよう。
雅秀は、菊池に願いを託しながら、自らも帰路へとついた。
菊池との連絡が途絶えたのは、その翌日の朝のことだった。
菊池へメッセージを送っても、既読すら付かず、いつまでも未読のままだった。
雅秀は気になり、次は電話を掛けるが、電源を切っているのか、全く繋がらなかった。
雅秀は困惑する。尾行の件はどうなったのか。アズサの素性は判明できたのか。
そして、なぜ連絡がつかないのだろう。彼に何かあったのかもしれない。
しかし、今の環境下では、どうやっても彼に連絡を取るのは不可能だ。菊池の自宅の電話番号は知らないし、住んでいる具体的な場所も不明だ。彼は寮ではなく、アパートを借りて居住していると聞いたことがある。女遊びができるからという理由らしい。
スマートフォンが繋がらないだけで、こうも現状確認に難があるとは、現代における欠陥の一つといえるだろう。
雅秀は仕方なく連絡は諦め、出勤することにした。菊池も今日は出勤日のはずなので、もしかしたら職場で会えるかもしれない。――いや、きっと会えるだろう。
そして耳にするのだ。たまたまスマートフォンの調子が悪いとか、電池切れだとか、音信普通の下らない事情を。
だから心配する必要はないはずだ。
朝礼の際、雅秀はその話を聞いた。
「無断欠勤?」
雅秀が聞き返すと、雅秀の班のリーダーは、眉根を寄せながら頷いた。
「ああ。出勤してきていないらしい。事務員がケータイに連絡しても、繋がらないとか」
雅秀は腕を組んだ。今の自分の状況と同じだ。つまり、菊池は完全に音信不通に陥っていることになる。
リーダーは訊いてきた。
「永倉のほうも何か知らないか?」
雅秀は首を捻った。
「俺も連絡が取れないんです」
リーダーは困った表情になる。
「そうか。ならどうしようもないな」
リーダー曰く、明日になっても連絡がつかないなら、警察へ相談するとのことだ。これは上司たちが下した決断だそうだ。
一人欠員が出たものの、業務は通常通り行われた。正規社員が菊池の抜けた穴を埋める形になったが、ほとんど現場には入ってこず、結局人員が足りない状態での作業となった。
やはり正規社員は、現場のことなど微塵も考えていないことが再認識させられた。同時に、いずれ自分もその正規社員に昇格される可能性が高いことを思うと、少し複雑な気分になる。
午後になり、一人で昼食を済ませた雅秀は呼び出しを受けた。
呼び出した相手は志帆だった。
先日の『告白』の際に使った会議室で、雅秀は志帆と向かい合わせに座る。ふと、あの時にタイムスリップしたかのような錯覚を覚えた。
例の『告白』の答えはまだ言っていない。今回も、そのことについての呼び出しではなさそうだった。
志帆は前髪をかき上げると、口火を切る。
「知っていると思うけど、菊池さんと連絡が取れないの。何か心当たりある?」
雅秀の心は少しざわめいた。心当たりは当然ある。もしかすると、アズサに関わったせいかもしれないのだ。
雅秀は怪訝に思う。従業員の無断欠勤とは言え、たった半日程度である。第三者にとっては、わざわざ事情聴取する段階にはないはずだ。
志帆は単純に雅秀と菊池が知った仲であるため、質問してきたわけではないだろう。何かしら思うところがあって、こちらを呼び出したのだ。
雅秀は首を振る。
「いや、ないな。俺も心配しているところだ」
下手に菊池の『尾行』の件を話すと、面倒になるだけだろう。黙っておくのが吉といえた。それに、実際問題、本当にアズサが関わっているとは限らないのだ。
いずれにしろ、菊池が心配なのは事実であるが。
「そう。私も同じよ。心配してる。けれど……」
志帆は、不安げな眼差しをこちらへ向けた。
「永倉くん、本当に何も心当たりないの?」
雅秀の脈拍が速くなる。やはり志帆は、疑心を抱えているようだ。おそらく、菊池に対してではなく、雅秀への心配が根底にあるのだと思われた。
「いや、ないね」
雅秀は首を振って、答える。しかし、志帆は真に受けなかった。
「永倉くん、もしかしてアズサさんのこと、菊池さんに話した?」
雅秀は口を結んだ。ある程度事情を知っているため導き出された推測なのだろう。志帆の指摘は的を射ていた。彼女の勘が鋭いことも、影響しているかもしれない。
どう答えようか雅秀は悩む。正直に全てを話すのは避けるべきだ。マイナスにしかならないし、下手をすると雅秀の正規社員への道も閉ざされることになる。
「話すわけないよ。菊池の音信不通は、アズサとは無関係のはずだ」
志帆はちょっとだけ眉宇に皺を寄せると、ゆっくりと頷いた。
「永倉くんがそう言うなら、その通りなのだろうけど……」
志帆は、まだ腹の底に一物持っているような風情だったが、やがて表情を変えた。
話題は雅秀の正規社員の話に移る。すでに本社へ推薦済みであり、近い内に面接があるのだそうだ。
話を続けている間も、志帆はこちらの様子をうかがう素振りを見せていた。菊池の件について、まだ何かしら聞きたいことがあるのだろう。雅秀はそれがわかっていたため、その点については触れなかった。
志帆との話が済み、昼休憩が終わる頃になっても、菊池との連絡は取れないままだった。
雅秀は寮の部屋に戻ると、すぐにスマートフォンを開いた。
メッセージアプリから、アズサの連絡先を選択する。今日は偶然なのか、アズサからのメッセージはほとんどなかった。
雅秀はしばし躊躇った後、通話ボタンをタップする。
スマートフォンを耳に当て、呼び出し音を静かに聞く。すぐにアズサは電話を取った。
『もしもし』
アズサの声が鼓膜を響かせた。
『アズサ? 俺だけど』
『うん。どうしたの?』
雅秀は菊池の件について世間話をするように、アズサに話した。同僚が無断欠勤し、音信不通であることや、その同僚の容姿や声の特徴など。
話を聞いたアズサは、小さく吐息を漏らした。
『そう。大変ね。その同僚の人、無事だといいんだけど』
『明日まで連絡がつかないなら、会社が警察へ相談するらしいよ』
『そっか。そのほうがいいかもね』
菊池の件を話しても、特段、アズサは変わった反応をみせなかった。あくまで声だけだが、普段通りに感じる。
次に彼女は、話が一区切りしたと思ったのか、今日、自分の周りであった出来事の話題にシフトさせた。
楽しそうにおしゃべりを始める。
雅秀は、相槌を打ちながら、アズサの今の言動を、菊池のことを一切関知していない人間ならば、取り得るものではないかと思った。
言うなれば、大して興味を示していないのだ。当然だろう。知りもしない人間が、たかだが音信不通になった程度のエピソードなのだ。本来、どうでもいいものである。
それほどアズサの応答は自然であった。変にこちらが疑っているだけで、アズサは菊池の件と関係がないのかもしれない。
菊池はアズサへの尾行を行った。それは確かだ。そして反応をうかがう限り、アズサは尾行にすら気づいていない可能性があった。
菊池の身に何かがあったとしたら、アズサの尾行が終わった後、ということになる。
雅秀は、アズサとおしゃべりをしながら、自身の考えが変化していることを自覚する。
大の大人がたかだが一日、無断欠勤し、音信不通になっただけのことだ。案外菊池は明日、ひょっこり出勤してくるかもしれない。今は、変に疑心暗鬼になる必要もないだろう。
結局、それ以降は一度も菊池の話には言及せず、夜遅くまでアズサのおしゃべりに付き合うハメになった。
翌日も菊池との連絡が取れなかった。会社の上層部は、宣言通り、警察へと相談を行ったらしい。それから、捜索願いが出されたようだ。
それから次の日。
菊池の遺体が発見されたとの報せが、雅秀の耳に届いた。
こじんまりした葬儀場に、読経の声が響く。雅秀は参列者の席に並び、じっと俯いていた。
菊池の葬儀は驚くほど質素だった。遺族の席に座っている人間も少なく、参列者も会社関係を除けば、数えるほどしかいなかった。
雅秀は顔を上げ、祭壇を見る。いつの頃の写真かはわからないが、にこやかに笑みを浮かべている菊池の遺影と目が合った。
雅秀はその遺影を見つめながら、一昨日の出来事を思い出していた。
菊池の訃報が届いたのは、仕事が終わる夕方頃だった。
終礼の際、班のリーダーが説明を行ったのだ。菊池が遺体で発見され、警察で検案された後、遺族に引き渡されたということを。
菊池は自殺だった。一人暮らしのアパートで、風呂場に目張りをしての練炭自殺。
遺書はなかったものの、現場の状況から、他者の介入はなく、自殺と断定されたらしい。
同僚や遺族は大したショックを受けることもなく、すんなりと納得していたようだが、雅秀は違っていた。
強い疑念が湧いているのだ。
事情を知っている者が雅秀だけのせいもある。だが、身近で接していたからよくわかっていた。確実に菊池は自殺をするような人間ではないのだ。
雅秀は、眠くなるようなお経の最中、祭壇の近くで並んで座っている遺族に目を向けた。
初めて目にする菊池の親族だ。親や兄弟かわからないが、老若男女複数いる。しかし、その誰もが涙を流していなかった。菊池は生前、自らの家族関係について一切語らなかったが、この様子を見ると、あまり仲が良いとは言えなかったのだろう。
雅秀は横に座っている志帆を、横目でチラリとうかがった。志帆は何かを堪えているような、苦痛が混ざったような表情でじっと俯いていた。
雅秀は前を向く。祭壇の菊池がこちらに笑いかけたように感じた。
「やっぱりそんなことがあったのね」
菊池の葬儀が終わり、雅秀は近場の喫茶店で志帆に事情を話した。菊池に伝えたこととそっくりそのまま同じ内容に加え、彼が遺体で発見されるまでの出来事をあわせて。
「あの時、嘘をついてすまなかった」
対面に座っている志帆へ、以前会議室で虚偽の報告をしたことについて、頭を下げた。
志帆は手元に置いてあったコーヒーカップを持ち上げ、中身を一口飲むと、こちらに尋ねてくる。
「警察には伝えたの?」
雅秀は首を振った。
「伝えていない。女子高生が相手の問題だから、言っても理解されないだろうし、まだアズサが関係していると確定したわけじゃないから」
雅秀の答えに、志帆は顎に手を当て、思案する仕草を取る。真面目な顔つきが、さらに真剣味を帯びていた。
「アズサさんに、菊池さんのことは伝えたの?」
「ああ。伝えたよ。菊池が音信不通になった時にね。あくまで身近にあった出来事としてだけど」
「反応は?」
「電話越しの声だけだったが、特に変わったところはなかったな」
雅秀は、アズサの口調を思い出しながら答える。
志帆は、そう、と呟くと再び思案の海に沈んだ。推理中の探偵のように、眉間に皺を寄せている。
雅秀はそろりと不安になった。一体、何を考えているのだろう。邪推でもされていたら、困るのはこっちだ。志帆は以前、アズサついて、危険な少女だと言っていたが……。
少しだけ、時間が流れる。喫茶店の内部に流れているクラシックのBGMのみが、耳へと届いていた。
雅秀は訊く。
「志帆、どうしたんだ?」
考え込んでいた志帆は、はっとしたように顔を上げた。こちらを見つめる。
「いえ、なんでもないの」
「なにか思いついたのか?」
志帆は一瞬だけ動きを止めると、小さく首肯した。
「別に大したことじゃないけど……」
雅秀は耳を傾けた。八方塞がりの現状、少しでも有益な提案が欲しかった。
志帆は話す。
「私もアズサさんのことを調べてみようとと思って」
雅秀は耳を疑った。
「なんだって? どうして?」
「前に私、言ったでしょ? アズサさんが危険な人だって。わざわざ永倉君にそんなことを伝えた手前、それを証明する手助けは必要だって考えたの。もしも私の思い違いならそれはそれでオッケーだし。それに、永倉君のことが心配なの」
雅秀は首を振った。
「気持ちは嬉しいいけど、止めておいたほうがいい。嫌な予感がする」
志帆は、まっすぐ雅秀を見つめた。
「私のことは大丈夫。それより、方法を一緒に考えましょう」
志帆は雅秀の身を案じているようだ。雅秀は胸が温かくなる。
その後、二人で話し合う。その結果、計画が纏まった。
目下の解決目標は、やはりアズサの素性を知ることだった。そこが明確になれば、彼女の家族や教師を把握でき、対処も容易になるだろう。
しかし、こちらは刑事やプロの興信所ではないため、相手の素性を探るのは限度があった。
志帆の提案した方法は、菊池と取った行動と似たようなものだ。対象を尾行する。そして、住居や身辺を把握し、調査を行う。
だが、今回は二人でだ。菊池の件の危険も踏まえ、二人で尾行する。
それが雅秀と志帆が出した結論だった。
決行は次の土曜日。アズサを遊びに誘い、その後別れてから追跡を行う。
もしも危険を感じたならば、その時点で尾行を中止することも決めた。
土曜日まで残り二日。準備を整え、確実に成功させたかった。
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