第八章 調査と提案
雅秀は東青海駅の北口から外に出ると、正面にあるロータリーを通過した。
それから旧街道に入り、東へ向かう。
目的はこの地区にある警察署であった。奥多摩湖を管轄する青海警察署。そこに用があった。
雅秀は旧街道をしばらく歩き、やがて青海街道に足を踏み入れる。あとはこのまま道なりにいけば、警察署は目の前だ。
今日は平日の昼間ということもあってか、人通りは驚くほど少なかった。
本来、今の時間は仕事をしているはずだったのだが、急遽欠勤した。それは、昨日の夜観たテレビニュースが原因だ。
雅秀は歩道を歩きながら、ニュースの内容を思い出す。
テレビニュースは、奥多摩湖で発見された男の遺体について報道していた。
詳細はこうだ。
昨日の朝、奥多摩湖を散歩していた近くの住人が、早朝から駐車場に停車している不審な車を発見した。
その車は黒のワンボックスカーで、ちらりと中を確認したところ、煙のようなものが車内に漂っていたらしい。
異常を察した住人は、警察に通報した。やがて到着した警察官によって、車が調べられ、中に人がいることが確認された。
急遽ドアがこじ開けられ、中の人間は救出されたものの、心肺停止の状態だったらしい。そして、病院に搬送されたが、そこで死亡が確認されたようだ。
死亡した人間は、都内に住む三十代の男性で、車内から練炭が発見されたとのこと。その後の現場の検証から、自殺だと予測された。
しかし、不審な点もいくつかあり、その内の一つが、もう一人、別の人間が現場にいた可能性があるとのことだ。
痕跡も見つかっており、現在調査中らしい。
雅秀はニュースを観た直後、足元から震えが這い上がってきた感覚にとらわれた。他人事ではない事件。自身の状況と、いくつか類似点がある。
そのせいで、ニュースのことが頭から離れなくなった。強迫観念を患ったように、ずっと頭を占有し続けた。
いても立ってもいられなくなった雅秀は、管轄である青海警察署へ連絡を取り、情報提供者として名乗りを上げたのだ。死んだ男が、知り合いかもしれないと嘘をついて。
雅秀の報告を受けた警察署側は、確認のために青海署を尋ねるよう求めてきた。雅秀はそれを了承する。
そのような経緯があり、今日はわざわざ仕事を休み、青海市までやってきたのだ。
街道を進み、警察署近くの交差点を抜けたところで、雅秀のスマートフォンに着信があった。メッセンジャーアプリの通知である。
立ち止まり、アプリを開く。送信者はアズサだった。
雅秀はそれを確認すると、またかとうんざりする。石を飲んだような不快感が、胃を襲う。
先日の諍いからアズサは、頻繁に雅秀へ連絡を行うようになっていた。ひどい時では、一日五十件以上ものメッセージを送ってきていた。
少しでも返信が遅いと、今度は直接電話を掛けてくる始末。数日続くだけで、とても辟易していた。
だからといって、注意することも、拒否することも、もう現時点では不可能であった。そんな真似をしたら、確実にアズサは自殺を決行することだろう。そうなれば、雅秀は破滅だ。
雅秀は、アズサのメッセージを読む。
『今何してるー?』
雅秀は返信した。
『仕事の休憩中』
アズサは今、学校にいるはずだ。こうしてメッセージを送ってきたのなら、おそらく休み時間中だと思われた。
すぐに既読が付き、返信がくる。
『もうすぐ中間テストだよ。めちゃくちゃメンドクサイ』
『学生なんだから仕方ないよ。頑張れ』
送った後で、ふとこの間もアズサは何かしらのテストを受けていたなと思う。高校生はよほどテストが多いのだろうか。自分の学生時代を思い返すが、不鮮明でよくわからなかった。
その後しばらくアズサとメッセージのやり取りを行い、彼女が休み時間が終わったところで打ち切った。
スマートフォンをポケットに戻し、雅秀は正面にある建物を見上げる。
眼前には青海警察署があった。連絡は取れているので、先方は待っているはずだ。
雅秀は、警察署の敷地内へと足を踏み入れた。
「それではこちらです」
雅秀に応対した若い刑事は、億劫そうに、『遺体安置所』と表示された目の前の扉を開けた。
受付で手続きを済ませた雅秀は、若い刑事と相対し、地下に通された。すんなりとことが進んだものの、その若い刑事はひどく迷惑そうであった。
一応、こちらは情報提供者なので、歓迎されると思いきや、どうも違うらしい。相手はまるで、仕事を増やすなと言わんばかりの態度であった。
遺体安置所の中に入った雅秀は、鼻をひくつかせた。ホルマリンとアルコールを混ぜ合わせたような、奇妙だがどこか懐かしい臭いが鼻腔をつく。この場所特有の臭いのようだ。
雅秀は部屋の中を見渡した。倉庫をそのまま造り替えたような、無機質な部屋。白塗りの壁に、正面一面は、銀色の冷凍庫で埋めつくされている。
若い刑事は、その冷凍庫の一角へ歩み寄っていく。雅秀はその後ろに付き従った。
そして、一つの冷凍庫の前に立つと、雅秀のほうを向いた。
「それでは今から遺体をお見せします。ご確認をお願いしたします」
若い刑事は、相変わらず面倒臭そうな口調でそう言った。もしかすると、これが彼の口癖なのかもしれないと思う。
雅秀は頷くと、冷凍庫を見つめた。
若い刑事は、冷凍庫のレバーを掴み、引き出す。古びた扉のような軋む音を立てて、冷凍庫の中身が露わになった。
雅秀はそれを見て、はっとする。
はじめは、マネキン人形が収納されているのかと思った。
だが、すぐに違うとわかる。当然だ。ここは『モルグ』なのだ。
冷凍庫の内部は、手術台に似た銀の台が備えられており、その上にそれが載せられていた。
全裸の男の遺体だ。全体的に白く、一切の血色を感じさせなかった。マネキン人形と勘違いしたのは、このためだ。
雅秀は、若い刑事の視線を感じながら、男の遺体の顔をまじまじと見つめる。
雅秀は確信した。間違いなく、遺体の正体はあの男だ。黒ジャンバーの男。渋谷で雅秀に忠告をしてきた不審人物。
男は生前も死人のように色素が薄かったが、今はそれ以上だ。雅秀の両親が事故死した際も、遺体と対面したが、その時よりもこの男の遺体は白かった。
冷凍されているからだろうか。
「お知り合いですか?」
自然に息が深くなっていた雅秀を見て、若い刑事がそう尋ねてくる。
雅秀は息を吐き、首を振った。
「いえ、知らない人です。私の勘違いだったようです」
雅秀は誤魔化した。下手に説明しても、厄介事が増えるだけで、利点はないだろう。
ニュースを観た際に生まれた直感が、正しかったことが判明しただけで充分だ。それに、この男のことについて、雅秀がほとんど何も知らないのは事実である。
ただし、アズサを除けば、なのだが……。
雅秀の返答を聞いた若い刑事は、怪訝な顔をみせる。
「本当に? この遺体、身元不明なんだから、少しでも心当たりがあれば助かるんだけど……」
雅秀は首を振った。
「すみません。本当にわからないんです」
傍から見ると、結構、雅秀の態度は不自然であろうが、若い刑事はそれ以上は言及しなかった。やはり、やる気がないのだろう。
若い刑事は頷くと、冷凍庫の扉を勢いよく閉めた。
男の白い遺体が、揺れながら壁の中に消えていったのを雅秀は見た。
「結構深刻だな。それ」
菊池は、眉間に皺を寄せ、自身の顎に手を当てた。
休み明けの平日。雅秀は菊池に再び相談を持ちかけた。内容が内容なだけに、普段利用する休憩室ではなく、人が少ない場所を選定した。
「どうすればいいかな?」
雅秀は、アドバイスを求める。菊池は少しだけ黙考し、口を開く。
「今も連絡は頻繁にくるのか?」
雅秀は、無言で自身のスマートフォンを突き出した。画面にはメッセンジャーアプリの内容が表示されている。
菊池は少しの間、画面を見つめていたが、やがて息を飲んだ仕草をみせた。おそらく『引いた』のだろう。
「……これは普通じゃないな」
菊池は目を逸らす。
雅秀は突きつけていたスマートフォンを自分の元へ戻した。それから、画面を確認する。
メッセンジャーアプリの受信欄には、アズサからのメッセージがぎっしりと詰まっていた。昨日だけで、ゆうに六十件は越えるだろう。
菊池は言葉を継ぐ。
「彼女のストーカー行為も問題だけど、湖で見つかった男の遺体の件も気になるな。俺のアドバイス通りに、彼女を問い詰めたんだよな? そしてその後に遺体が発見された」
菊池は手にしたコーヒーの紙コップを傾け、一口飲んだ。
雅秀は首肯する。
雅秀は、『モルグ』での男の遺体を思い出す。マネキン人形のような、無機質な遺体。
「そうだけど、だからと言って、アズサが関わっているとは言えないよ。彼女は未成年の高校生だ」
「わかってる。けれども、曰くつきの女の子なのは確かだ」
菊池は肩をすくめて言う。それから訊いてくる。
「それで警察の動きは?」
「いまだに進展はないみたいだな。身元が一切不明なせいらしいけど」
青海警察署の若い刑事は、確かそう言っていた。
菊池は、思案する仕草をみせた後、ふと何かに思い当たったかのように言う。
「だけど、ニュースだけで、よくその男が関係しているってわかったな。奥多摩湖で男の自殺体が見つかったってだけの情報だったんだろ?」
雅秀は一瞬だけ、言葉が詰まる。
雅秀が例の男のニュースについて、直感が呼び覚まされたのは、自身の自殺未遂のシュチエーションと似通っていたからだ。
だが、菊池にはその件については話していなかった。アズサと出会った経緯についても、ネットの出会い系サイトで知り合ったとだけ伝えてある。
心中のために知り合い、結果、奥多摩湖で自殺未遂に至ったなどと、話せるわけがないだろう。
「ちょっとした勘だよ」
雅秀の説明に、菊池は納得したのかしてないのか、微妙な表情で頷いた。
それから、気を取り直したように口を開く。
「それはそうと、問題は彼女の素性だな。前に話した通り、お前はほとんど把握してないんだろ?」
「ああ。女子高生だとしかわからない」
「知り合うきっかけになった出会い系サイトには、何か情報が載ってなかったのか?」
雅秀は、先日チェックしたアズサのSNSのアカウント欄を記憶に呼び覚ます。
プロフィール欄や、過去のコメントを遡っても、ほとんどアズサのプライベートの情報は入手できなかった。
ただ、その時知ったことだが、アズサはそのアカウントを、結構最近作ったようだ。最古のコメントも半年前である。
おそらく、自殺を決行するためだけに作ったのだと思われた。
雅秀は、力なく首を横に振る。
「一切何もわからなかったよ」
「その後、探りは入れてみたか?」
「入れてない。怖くて無理だ」
「自傷行為をやったんだっけか。確かに難しいな」
菊池の言葉に、雅秀は唇をきゅっと結んだ。それだけじゃない。菊池には話していないが、自殺示唆もある。
アズサの自殺示唆は、雅秀にとって、弱みを握られているも同然だ。彼女の意に反する言動を取れば、こちらを巻き込んでの即破滅の可能性もある。
菊池が思っている以上に、事態は深刻なのだ。
雅秀が思考の海に沈んでいると、突然、菊池が朗らかな声を出した。
「それじゃあこうしよう」
雅秀は、はっとして菊池を見返す。彼の顔は、決意と好奇心が入り混じった表情をしていた。
「どうした? 一体」
菊池はコーヒーを飲み干すと、紙コップを握り潰して言う。
「俺がお前の彼女の素性を探ってやるよ」
「え?」
目が点になった雅秀に、菊池は続ける。
「お前が頭を悩ます女子高生がどんなものか気になってな。外見は可愛いんだろ? 協力させてくれ」
雅秀は呆れた。菊池は興味本位で雅秀の相談に乗っていたらしい。事情を全て知っているわけではないため、雅秀よりも比較的、能天気に受け取っているのであろう。
「遊びじゃないんだぞ」
雅秀は注意を促す。菊池は潰した紙コップを、ゴミ箱に放り投げると、こちらを向いた。
菊池は真剣な面持ちだった。
「わかっている。別に遊びのつもりではない。ただ、気になっているだけだ。それに、理由がどうあれ、協力者がいたら心強いだろろう?」
どうやら、雅秀が思っているよりかは、彼は彼なりに、真剣に考えてくれているようだった。
雅秀は顎に手を触れ、思索にふける。
確かに、菊池の言う通りかもしれない。一人で対処するには限度がある。それに、もう菊池にはある程度事情を話しているのだ。そのため、可能な限り協力してもらったほうがお得といえるだろう。
雅秀は頭を下げた。
「わかった。頼む」
菊池は、逞しい容貌を破顔させた。
そこまでやり取りを済ませたところで、休憩室の扉が開いた。誰かが入ってくる。
その人物を見て、雅秀はあっと思った。入ってきたのは志帆だった。
わざわざこんな僻地まできたということは、こちらのことを探していたのだろう。
志帆は後ろで纏めた髪を揺らしつつ、雅秀の元まで歩いてくる。やや、表情が固いのは、先日の観覧車での会話が尾を引いているからだ。
あの『デート』から、何度か志帆とは接したが、ぎこちなさは続いていた。もうアズサのことについては一切触れていなかったものの、ずっと気にしていることは伝わってきていた。
それから、『告白』の答えはまだ保留中である。相変わらず志帆は、気にする素振りを見せていない。
目の前に立った志帆は、ゆっくりと口を開く。
「永倉くん、例の件のことでちょっといいかな?」
例の件とは、おそらく、正規社員への昇格についてのことだろう。
「わかりました。行きます」
雅秀は菊池に視線だけで合図を送ると、志帆の後に続いて休憩室を出た。
菊池には正規社員の話はしておらず、志帆の『忠告』の件も言っていないため、この呼び出しは、ただの仕事の話だと思っているはずだ。今度、伝えようと思う。
雅秀は、前を歩く志帆の背中を眺めながら考える。
菊池が提案した調査が功を奏したら、また展開も違ってくるはずだ。少しずつ問題をクリアしていき、アズサの件が落ち着いたら、志帆とのわだかまりも解消するだろう。
そのための着手として、まずは今度の休日、アズサを遊びに誘わなければならない。
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