第七章 自傷

 寮に帰るなり、まるで見計らったように雅秀のスマホに着信があった。


 確認すると、アズサからだ。


 胸の動悸が早くなる。これは今までの恋焦がれる感覚とは違い、不安が混ざった緊張によるものだ。


 いい機会だと思う。この際、アズサに例の男のことについて、確認しておこうと雅秀は考えた。


 『もしもし』


 雅秀は着信に応じる。


 しかし、返答がなく、静寂のみが耳を貫いた。通話が切れているのかと思い、画面を確認するが、ちゃんと繋がっているようだ。


 かすかに、吐息のような音が聞こえてくる。


 『アズサ、どうした?』


 雅秀が訊くと、アズサは声を発した。


 『今どこにいるの?』


 暗い声だ。地の底から響くような。


 雅秀は気後れしながら答えた。


 『寮にある自分の部屋だよ。今帰ってきたところ』


 『今までどこにいたの?』


 『横浜だよ。前話したじゃないか。用事があるって』


 『誰と行ってたの?』


 『……会社の同僚とだよ』


 『男? 女?』


 矢継ぎ早に行われる質問。雅秀は、答えに窮した。


 この前に引き続き、アズサは非常に不機嫌のようだ。電話の目的も、今日の雅秀の予定を完全に把握するためらしい。以前、雅秀も同じようにアズサの動向を問い質した経緯があるため、無理矢理突っぱねるのも難しいだろう。しかも、アズサはその時、証拠まで見せて、自分の潔白を証明してくれたのだ。


 それゆえに、雅秀は事実を話すべきかどうか、逡巡した。


 そしてわずかばかり悩んだ末、雅秀は嘘をつくことにした。


 『男だよ。会社の同僚の男』


 今の状況なら、正直に話すと、さらにアズサの気分を害する恐れがある。そうなれば、アズサに例の男の質問もできなくなるだろう。


 そう判断した結果のことだ。


 しばらく、嫌な沈黙が訪れる。アズサは押し黙っていた。何を考えているのかわからない。


 雅秀が不安に苛まれた時、アズサの声が受話口を響かせた。


 『嘘つき』


 なぜかアズサは、いとも容易く、嘘だと見抜いてきた。でまかせか、あるいは勘なのか、それとも……。


 続いてアズサは言う。それは耳を疑う内容だった。


 『女の人と一緒だったでしょ? 髪を後ろで纏めた綺麗な人と』


 雅秀は絶句する。アズサの指摘は、間違いなく、志帆のことを指し示していた。


 どうしてそれを……。


 そして、アズサの次の言葉で、雅秀のその疑問はすぐに解消される。


 『その女の人と一緒に、観覧車に乗ったでしょ? 楽しそうにお喋りしながら』


 雅秀は悟った。アズサは雅秀の所在を探るために、わざわざ横浜へと赴いたのだ。そして、見事雅秀を発見し、尾行を決行。その後、志帆の存在を認知したのだ。


 まるでストーカーのように。


 いくら雅秀に好意があるからと、非常識な真似だ。その挙句、相手を責めるなど言語道断だと、雅秀はアズサを非難するため口を開きかけた。


 そこではたと気がつく。以前、自分も同じ真似をしたではないか。もっとも、あの時は、こちらはアズサを発見できなかったのだが。


 振り上げようとした拳の行方を見失い、雅秀は戸惑った。その沈黙を、アズサは肯定だと捉えたらしい。


 アズサは静かな口調で、訊いてくる。


 『どうして一緒に行った人が男だって、嘘をついたの?』


 『……』


 返答に苦しむ雅秀を、アズサはさらに追求する。


 『黙ってないで答えて』


 雅秀は焦った。心臓が壊れたエンジンのように、妙な鼓動を打ち始めている。


 雅秀は目を瞑った。嘘をついたのは、悪手だった。どうやって言い逃れしよう。やはり、こういった駆け引きは苦手だ。


 だが、雅秀の動揺と裏腹に、アズサはそれ以上は言及せず、がらりと口調を変えて言う。


 『ねえ、雅秀。これから雅秀の部屋に行っていい?』


 『え?』


 あまりに唐突な申し出に、雅秀は間抜けな声を出した。


 本来なら、歓迎するべき展開だろう。以前から、アズサを自分の部屋に招きたい願望は強かったのだから。


 しかし、今のこの現状では、二の足を踏んでしまう。ここは断る以外、選択肢はなかった。


 『ごめん。ちょっと今日は疲れてて、すぐに休みたいんだ』


 それから、部屋の壁掛け時計を確認する。時刻は夕方十八時。本来、未成年なら、家に帰る頃だ。


 申し出を拒まれたアズサは、声を失ったようだ。無言が返ってくる。


 再び沈黙。とても嫌な時間だ。


 やがて、アズサは何かを言った。


 『……るからね』


 『なんだって?』


 あまりにも小さな声だったため、雅秀は訊き返した。アズサは繰り返す。それは、恐るべき発言だった。


 『私、自殺するからね』


 真に迫るような口調。嘘ではなく、本気で言っていることが伝わってきた。


 自殺未遂を経験した相手からの自殺示唆である。これは想像していない状況だ。


 『ちょっと待って。何を言ってるんだ。考え直してくれ』


 『だったら、私を部屋に呼んで』


 冗談じゃない。今のアズサを部屋に招いたら、面倒なことが起きそうだ。


 ためらう雅秀を、アズサは追撃する。


 『私が自殺する時、雅秀のことを洗いざらい遺書に書くからね。未成年と一緒に自殺を企てたってこと。それだけじゃなく、レイプされたって嘘も書いてやる』


 雅秀は青ざめる。そんな真似をされれば、自分の人生は終わってしまうだろう。心中未遂は事実だし、昨今、女性有権が叫ばれる中、女子高生が虚偽でも被害を訴えたならば、自分のような独身の男は、無理矢理にでも犯罪者に仕立てられてしまうはずだ。


 それこそ、自殺しか選択がないほど、追い詰められるに違いない。


 以前の雅秀なら、それでも構わなかったのだが、今は心境が変化していた。


 ここは何とかアズサを宥めなければ。


 『落ち着いてくれ。もう時間は遅いし、女子高生がこんな時間に男の部屋を訪れるもんじゃ……』


 『今更なにを言うの? 一緒に自殺までした仲なのに』


 『……』


 『部屋に入らせてくれないと、本当に私、死ぬからね』


 アズサの言葉は、とても力を帯びていた。


 『……わかった。いいよ』


 雅秀はどうしようもなく、了承せざるを得なかった。アズサが電話の向こうで、歓喜を覚えたように、ほっと息をついたことが伝わってきた。


 雅秀は尋ねる。


 『だけど、どうやってここにくるの? アズサがどこに住んでいるかすら俺はわかってないんだから』


 『大丈夫。もう部屋の前まできているから』


 え? と思った時には、すでに部屋のチャイムが鳴っていた。そのチャイムと全く同じ音が、スマートフォンの受話口から聞こえてくる。


 雅秀は唖然としながら、ディスプレイを凝視し続けた。


 「それじゃあ、そこに座って」


 雅秀は、アズサを部屋の中央にあるガラステーブルの前に座らせた。


 今のアズサは、まるではじめて彼氏の部屋にでも訪れた彼女のように、ニコニコ顔だ。先ほどまで電話先で漲っていた気迫は、どこかへ飛んでいってしまったらしい。


 雅秀はアズサの対面に腰を下す。この部屋唯一の座布団は、今アズサの尻に敷かれてあるため、雅秀は床に直接座らなければならなかった。


 思えば、この部屋に越してきてから、初めての来客である。しかも、その相手は綺麗な女子高生。しかし、今はさほど喜びはなかった。


 雅秀は、アズサへ質問を行う。


 「どうしてこの部屋を知っているんだ?」


 数分前、部屋の玄関を開けた時、目の前に立っていたアズサの姿を雅秀は思い出す。彼女は、廊下の照明に赤みを帯びた髪を艶やかに輝かせながら、悠然と佇んでいた。


 アズサは答える。


 「私、横浜からずっと、雅秀の後をつけてたんだ。それでわかったの」


 彼女は、一切悪びれることなく、正直に話した。まるで今日の朝食はなに? という質問にでも答えるかのごとく。


 雅秀は呆気に取られた。つい文句が口を突いて出そうになるが、堪える。


 咎める真似は慎んだほうがいいかもしれない。下手に自殺をほのめかす相手を刺激するのは、得策ではないからだ。


 それに、アズサが行ったストーカー同然の行為。それについては、自分も先日、渋谷で近いことをやったのだ。無論、アズサがそのことを知っているわけではないだろうが、自分のことを棚に上げて相手を責めると、また墓穴を掘りそうだ。


 「それで、用事はなに?」


 雅秀は、話題を変える。早めに本題に入り、早々に切り上げたほうがいいと判断した。


 「うん。それで、横浜で雅秀と一緒だった女の人のことについて知りたくて、ここまできたんだ」


 アズサの最後のほうの言葉は、一オクターブほど音程が下がっていた。突然、奈落に落ちたような、ほの暗い感情。それが溢れ出した感じだ。


 雅秀は正直に話す。


 「あの女の人は、会社の上司で、別に恋人ではないよ」


 事実、志帆とは恋人関係にはなかった。告白され、ほとんど『デート』同然、という形ではあったが……。


 アズサはふーんと頷くと、目を細めてこちらを睨む。


 「それにしては、まるで恋人同士みたいに仲良かったけど?」


 「君の勘違いだよ。特別に仲良くしたわけじゃない」


 「じゃあ、どうして横浜まで遊びに行ったの? あそこ、デートスポットじゃん」


 「……彼女が、一度も遊びに行ったことがないって言うから、付き合っただけさ。相手は上司だから、下手に拒否できなくて」


 我ながら、苦しい言い訳だと思う。とっさの嘘は、ほころびが生まれる。男女の駆け引きが不得手なら、なおさらだ。


 アズサの目が鋭くなった。


 「なんでその人は雅秀を誘ったの? 雅秀は前に女の人と全然縁がないって言ってたじゃない」


 「多分、他に一緒に行く相手がいなかったからじゃないか? 理由は俺にもわからないよ」


 ほとんど惚けたような返答だったが、プレイボーイのように、絶妙な言い訳が思いつくわけもなかった。


 アズサは、疑いの目をこちらに向ける。


 「正直に話して。あの女の人と、何があったの?」


 雅秀は逡巡した。志帆から『愛の告白』を受けた件を、アズサに話すとどうなるだろう。


 おそらく、この調子だと、断固として告白に対する拒否を求めるはずだ。そればかりか、志帆との接触すら不満を抱えるかもしれない。


 志帆のお陰で正規社員へと推薦されるのだ。これから先、志帆と関わらずに職場で過ごすことはありえなかった。


 正直に話すと、下手に拗れるのは目に見えている。アズサも雅秀に対し『愛の告白』めいた言動をとった相手なのだから。


 雅秀は、事実を伏せる方向に決めた。再び墓穴を掘るリスクはあるが、ここまできたなら、誤魔化しきるしかないだろう。


 雅秀は、肩をすくめた。


 「何もないよ。言った通り、ただ適当な相手だったから、誘われただけだ」


 「それなのに、あそこまで楽しそうに会話をしていたのはおかしくない?」


 「そんなことないさ。俺は社会人だし、相手は上司。嫌でも楽しげに振る舞わなきゃ」


 アズサはまだ子供だから、『大人』の事情などわからないだろう、といったニュアンスを込めて雅秀は言う。


 アズサは大きな目を、二、三度瞬かせた。


 「つまり、雅秀は嫌々だったってこと?」


 「まあそうなるかな」


 雅秀は、背中側に手を置き、体を反る姿勢を取った。本音で話しているため、落ち着いているというアピールだ。


 「そう」


 アズサは俯いて、じっと考え始める。相変わらず、睫毛が長いなと思った。


 少し時間が経つ。アズサはまだ黙っているものの、納得しそうな雰囲気だ。随分、穴だらけの釈明だったが、やはり相手は子供。篭絡はそう難しくないということか。


 なんにせよ、この場が納まりそうで、雅秀はほっと胸を撫で下ろした。


 とはいえ、アズサがわざわざ部屋を訪れてまで、志帆の件を問い詰めてきたのは想像だにしなかった。そもそも、横浜からのストーカー行為も想定の範囲外だ。


 いくら好意がある相手だとしても、女子高生にしてはやることが大げさだと思う。それとも、今時の恋愛とはそんなものだろうか。


 そもそも、雅秀のような男をアズサが好きになること自体、ありえないのだ。


 しかし、『吊り橋効果』という言葉もある。特別な経験をした相手に好意を持つ現象。アズサが先ほど言及したように、一緒に自殺未遂をした仲ならば、特別な感情を抱えても不思議ではないかもしれない。


 それとも、何か他に理由があるだろうか。


 志帆の忠告が、頭に思い起こされる。例の男と同様、アズサについて懸念を述べていた――。


 そこまで雅秀が考えた時だ。アズサは顔を上げた。


 「わかった。私、雅秀を信じるね」


 アズサは微笑みながらそう言った。雅秀は、深く首肯する。


 良かったと思う。これで厄介事は解決しそうだ。後は……。


 雅秀は、今度は自分が質問するため、口を開こうとした。


 そこで、アズサが先を制する。アズサは表情を変え、真面目な顔付きになっていた。


 「ただ、その前に一つだけいい? それを聞いたらその時こそ、本当に信じるから」


 「なに?」


 アズサは訊いてくる。


 「どうして嘘をついたの?」


 「え?」


 「電話で私が横浜へ一緒に行った人のことを訊いた時、雅秀、嘘をついたじゃん。なんで?」


 雅秀は口ごもる。電話での詰問の続きだ。


 とっさに理由を考え、雅秀は答える。


 「君を不安にさせたくなかったんだよ」


 「どうして? その女の人とは何もないんでしょ? 嘘つく必要なくない?」


 「だから、君のためを思ってついた嘘だ」


 アズサは、頬を歪めた。疑念が再び燃え上がったようだ。


 「やっぱり、あの人となにかあったのね」


 「……ないよ」


 「嘘つき」


 雅秀は、困り果てた。そこで思いつく。こうなったらいっそのこと、こちらから問い詰めたほうがいいかもしれない。


 雅秀は強めの口調で言う。


 「嘘ならアズサもついてるじゃないか」


 アズサは、眉根を上げた。


 「どういうこと? 私、嘘なんてついてないよ? この間だって、ちゃんと友達と遊んだ証拠を見せたじゃん」


 雅秀は首を振った。


 「そうじゃない。例の男のことだよ。黒ジャンパーの男。アズサは知らない人って言ったけど、あいつは君の元彼だろ?」


 男のことを話題に出した途端、アズサは顔を強張らせた。予測は的中したらしい。


 アズサは目を背け、焦った様子を見せる。


 「だ、だから、そんな男のこと知らないって、前にも言ったでしょ?」


 「それこそ、嘘だろ?」


 アズサは、眉間に皺を寄せた。


 「私のことはいいって、言ってるじゃない。 今は雅秀の話をしているの!」


 アズサのヒステリックな声が、部屋に響き渡った。声量が大きく、隣の部屋まで聞こえているかもしれないと雅秀は心配する。


 雅秀は腕を組み、ため息混じりに伝えた。


 「アズサが正直に話さないと、俺も正直に言うわけいかないよ。お互い様だ」


 そう伝えた後で、少々言い過ぎでは、と懸念がよぎる。


 静寂が部屋に訪れた。アズサは俯いている。ミドルロングの髪が、すだれのように顔を隠しているため、表情がよく見えず、少し不気味だ。


 そこで雅秀はふと、あること気がついた。透明になったガラステーブルを通して見える、座布団の上に座っているアズサの下半身。彼女は手を、自身の太ももの上に置いていた。


 雅秀の目に映った物。アズサは、右手に何かを握っていた。


 雅秀は、それの正体を知ると、ぎょっとした。アズサが右手に持っているのは、カッターナイフだったからだ。


 カッターナイフからは、すでに刃が出ていた。


 アズサは、両方の手を掬うような形で、同時に胸元まで持ち上げた。そして、右手のカッターナイフを自身の左手首に当てる。


 雅秀は、あっと自分の口を手で覆った。


 ガラステーブルに、赤い花びらが散った。鮮やかな赤が目に付く。


 アズサは、手首をカッターナイフで切ったのだ。


 「なんてことを!」


 雅秀は絶句し、身を乗り出す。しかし、それ以上どうしていいのかわからず、前傾姿勢の格好で、雅秀は硬直した。


 アズサは右手にカッターナイフを持ったまま、左手をこちらに突き出す。左手首からは、鮮血が流れ落ちており、ガラステーブルに血溜まりができ始めていた。


 アズサは手首を結構深く切ったらしく、湧き水のように血が溢れている。白い肌に、薔薇のような真っ赤な傷口。雅秀は、眩暈を覚える。


 雅秀は気圧されたように、その場に座り直した。


 左手首をこちらに突き出しまま、アズサは言う。


 「いい? 雅秀。よく聞いて。私を裏切ったら、絶対に自殺してやるからね。電話で言ったように、雅秀の人生も終わらせてやる」


 アズサの目は、爛々としていた。


 「どうしてそこまでして……」


 雅秀が唖然として訊く。アズサほどの美人な女子高生が、どうしてこれほどまでに、うだつの上がらない男に執着するのか。


 アズサはニッコリと笑った。


 「だって私たち、一緒に自殺した仲じゃない」


 雅秀ははっとする。


 「たったそれだけのことで?」


 アズサはこちらを睨みつけた。


 「それだけ? 違うでしょ。似たような動機を抱えて、自殺するために巡り合って、未遂に終わった二人。これは運命なのよ」


 雅秀は口をつぐんだ。やはりアズサは、自殺未遂の果てに特別な感情を育んだようだ。しかし、それは『吊り橋効果』とは明らかに違う、不自然なくらい過剰なものであった。


 「……」


 二の句が継げず、雅秀は押し黙る。動揺で、息が荒くなっていた。


 すると、アズサは立ち上がり、こちらへと近づいてきた。


 左手首からは、相変わらず出血が続き、床へと滴り落ちている。かなりの量なので、アズサの体が心配になった。もうすでにこの時点で、死んでもおかしくはないと思わせた。


 救急車を呼ぶか? しかし、そうなったら、それはそれで……。


 そばまできたアズサは、雅秀の隣に座った。そして、左手首を一切庇うことなく、そっと雅秀へと抱きついた。


 あまりに自然な行動だったので、雅秀は反応できず、されるがままであった。ふわりと花の香のような良い匂いが鼻腔をつく。


 アズサと体が密着し、体温が伝わってくる。彼女の鼓動もはっきりと感じ取れた。


 これほど深く女性と接触したのは、今までの人生で、母親以外はほとんどなかった。熱湯に飛び込んだように、雅秀は自分の血圧が急上昇したことがわかった。


 アズサは雅秀に抱きついたまま、静かに耳元で囁く。


 「だからね、私たちは結ばれるべき者同士なんだよ」


 アズサの吐息が、首筋にかかり、雅秀は背筋を震わせた。


 体が緊張により、蝋で固めたように硬直しており、雅秀はアズサを抱き返すことができなかった。


 アズサは雅秀のその反応が気に食わなかったのか、催促するように、さらに強く雅秀を抱き締めてくる。


 左手首から流れ落ちるアズサの血が、雅秀の服に染み込み、生温かく湿っていることが感じ取れた。


 やがてアズサは諭すように、雅秀へ言葉を呟いてくる。


 「例の男のことなら、なにも心配しなくていいわ。必ず私とは無関係だって証明されるから」


 二人の間に生まれた温もりにより、雅秀は導かれるようにして、アズサを抱き返した。


 アズサは満足そうに、吐息を漏らす。もしも、ここでアズサを押し倒しても、おそらく彼女はその先の行為を受け入れるだろう。その確信があった。


 だが、雅秀は何もしなかった。体が全く動かなかったのだ。


 アズサを抱き締めたまま、暗澹たる想いが、濃霧のように胸中を覆い出したことを雅秀は自覚した。




 それから数日後のことである。


 テレビのニュースにより、奥多摩湖で、とある男の遺体が発見されたとの情報が雅秀の元へと届いた。

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