第六章 寛解
勤めていた工場が閉鎖され、ホームレス同然の身に落ち、自殺を考えるようになった頃。
インターネットで心中相手を探していた時、偶然ある記事を目にした。印象的だったので、ずっと覚えていることでもある。
その記事は、いわゆる『死生観』について特集していた。哲学や『臨死体験』をまじえての内容である。
古代ギリシャの哲学者、ヘライクレトスは「死後に人を待っているのは、彼らが予期もしなければ、また思いもかけないようなものなのだ」と述べたらしい。
哲学にもギリシャにも詳しくなかったものの、意味は理解できた。
確かに、死後の世界は未知数であろう。いまだに死者が蘇り、体験談を話した実例がないため、この世で死後の世界を知っている者は皆無であるはずだ。
それは『臨死体験』を経験した者も同じだと思う。
よく臨死体験を、死後の世界への一時的な『入門』だと称されるが、所詮は生者が生きている時に経験した事象に過ぎない。あの世と関係があるとは言えないのだ。
だが、『臨死体験』は現象としては存在しているのも事実だ。記事によれば、『お迎え現象』のように、自分が願う理想の『夢』が訪れるらしい。
その記事を読んだあと、心中する相手を探しながら、ずっと考えていることがあった。
もしも、自分が死ぬ間際、つまり『臨死体験』の時にみる『夢』は一体なんだろうと。
そして、その先にある事実には、一体なにが待ち受けているのだろうかと。
JRを乗り継ぎ、雅秀は横浜にある『みなとみらい駅』のホームへと降り立った。
大勢の人間に混ざりながら、エスカレーターを使い、一階へと登り、けやき通り口から外へと出る。
十一月も終わりを迎える頃の、鈍い日差しが雅秀を包んだ。風がやや冷たく、少し肌寒い。
雅秀は、襟元を閉めると、肩をすれ違わせていく幾人もの人間に閉口しながら、駅口を離れた。
目の前には、クイーンズスクエア横浜の入り口が見える。予定通りなら、そこで彼女が待っているはずだ。
疋田志帆が。
あの時――志帆から『愛の告白』を受けた後、雅秀は、答えを出せないでいた。
まるで思春期の男子高校生のように、もじもじと体を動かしていると、志帆はある提案を行った。
今度の休みの日、一緒に遊びに行かないかと。
雅秀は、その提案を了承した。相手が上司だからとか、正規社員に引き立てられるためといった、負い目のせいなのかはわからない。だが、無意識に頷いていた。
雅秀の色の良い返事に喜んだ志帆は、場所を指定する。それが横浜、みなとみらいだった。
なぜ、みなとみらいを選んだのかまでは教えてくれなかった。だが、そこがデートスポットであることくらいは、雅秀も知っていた。
その証拠に、駅を降りてからは、周囲では、カップルの比率か増えている。
みなとみらいには、以前、家族と訪れたことがあったが、カップルばかりで気後れした記憶があった。
クイーンズスクエア横浜の入り口に到着した雅秀は、志帆の姿を探した。先ほど、スマートフォンのメッセージアプリに、目的の場所に到着したという連絡が入っていたため、(この連絡先は、『愛の告白』を受けたあとに、交換したものだ)すでにこの場所にいると思われた。
雅秀は周囲を見渡す。志帆らしき姿はない。
場所を間違えたのかと思い、雅秀はポケットからスマートフォンを取り出し、確認しようとした。
そこで、誰かから肩を叩かれた。
雅秀ははっとして振り向く。そこに、一人の女性が立っていた。グレーのロングコートに、黒のシガレットパンツといった服装。背は低いが、フェミニン系モデルのような、清涼感のある美しさがあった。
その女性が志帆だとわかり、雅秀は己の目を疑う。普段、職場で目にする時とは、まるで違う雰囲気を纏っていたからだ。
志帆は、晴れやかに微笑んで言う。
「永倉くん、誘いを受けてくれてありがとう。きてくれて嬉しいわ」
志帆に見つめられ、雅秀は小さく首を振った。
「いや、別に気にしなくても」
はじめて見る私服姿の志帆に対し、雅秀は気後れしてしまっていた。正直、とても魅力的だと思ったからだ。
「えっと、それじゃあ行こうか」
雅秀は、照れ隠しに志帆を促す。志帆は、一瞬キョトンとしたが、すぐにクスッと笑うと頷いた。
雅秀は志帆と共に歩き出す。
二人が目指す先は、みなとみらい21。横浜港に面している定番のデートスポットで、様々なアミューズメントパークや、商業施設が軒を連ねている場所だ。特に、カップルや家族連れに人気がある。
雅秀は志帆と並んで、みなとみらい21にアクセスしているけやき通りを進んだ。
その最中、二人は会話を交わす。
雅秀は当初は緊張していたものの、しばらく時間が経つと、自分でも不思議なくらい、志帆と気軽に話を交わすことができるようになっていた。
会社では、あまり行うことのない、取るに足らない雑談。新鮮で、とても楽しかった。
余裕が出てきたためか、志帆と笑い合う度に、頻繁にアズサのことが脳裏に思い浮かぶようになっていた。
志帆と『デート』の約束をした時から、頭の片隅に常にあったものである。それが、現在、表出してきているのだ。
先日、雅秀に対する好意を示したアズサ。もしも、彼女が今の雅秀の姿を目撃したら、どう思うのだろう。
激怒するのか、悲しむのか、それとも何とも思わないのか。
雅秀は、一昨日の夜のことを思い出す。
一昨日の夜、アズサから電話があった。彼女は、今度休みの日、どこかに遊びに行こうと提案してきたのだ。
しかし、志帆の先約があったため、雅秀は断らざるを得なかった。本来ならアズサの誘いは全て優先したかったし、色々聞きたいことも出てきている。だが、どうしても状況的に無理があった。
雅秀から誘いを断られたアズサは、不満を抱えたようだった。息を呑んだことが電話越しにでも伝わってきた。
アズサは、神経質な口調で、一体なぜ会えないのか理由を尋ねてくる。
そこで雅秀は、一つの過ちを犯す。
嘘でも方便でも使えばいいものを、正直に「用事があって、知り合いと横浜にいく」とアズサへ伝えてしまったのだ。
男女関係の駆け引きなど経験がない上、女性二人との人生初のオーバーブッキングに戸惑っていたせいかもしれない。それに加え、かすかに心が躍っていたことも関係があるだろう。
理由を聞いたアズサは、ふーんと納得した様子をみせると、そのまま電話を切ってしまった。
その後、こちらからアプリでメッセージを送っても、既読は付くものの、返信はなかった。そして、そのまま今日を迎えたのだ。
おそらく、アズサは今も不機嫌に違いない。今度、何らかの形で埋め合わせをしなければ、と思う。
アズサのことを考えていたためか、少し上の空になっていたようだ。志帆が隣で歩きながら、心配したように、こちらの顔を覗き込んでくる。
「永倉くん、どうしたの?」
志帆の顔が近かったため、雅秀は慌ててのけぞると答えた。
「いや、なんでもないよ」
志帆は、雅秀の心を読んだかのように訊く。
「もしかして、例の女の人のことを考えていたの? 親戚の子」
雅秀は言葉に詰まった。志帆はどうも女関係に関しては、勘が鋭いらしい。
「別にそんなことは……」
雅秀は弁明するが、志帆は聞いていないようだ。
けやき通りを歩く人々とすれ違いながら、志帆は質問してくる。
「その親戚の子って、どこに住んでるの?」
「……都内だよ」
「都内のどこ?」
雅秀は返事に窮する。実際の話、アズサがどこに住んでいるのか、正確な場所を雅秀は把握していなかった。
「渋谷近辺」
雅秀は適当に嘘をつく。
「名前は?」
「アズサ」
「苗字は?」
雅秀は志帆の質問の最中、ふと疑問を覚える。今更だが、自分はアズサの苗字すらろくに知らなかった。
こうして思うと、アズサのプライベートのことなど、ほとんど何もわかっていないのだ。
口ごもった雅秀を、志帆は凝視している。この前の『愛の告白』の際、アズサについて、恋人ではないと告げたはずだが、まだこだわっているらしかった。
雅秀は訊く。
「どうしたんだ? 彼女は、恋人でも何でもない親戚の子だってこの前説明したじゃないか」
志帆は困ったように、眉根を寄せた。
「そうだけどね」
志帆はそう言うと、口をつぐんだ。
それから志帆は、何事もなかったかのように、話題を変えた。雅秀の言葉を聞き入れてくれたらしい。
しかし、その後しばらくの間も、志帆から胸の奥にわだかまりがあるような、妙な感覚を抱いている様が、ひしひしと伝わってきていた。
みなとみらい21に到着し、雅秀は志帆と地区内をいくつか回った。
今日は休日のせいもあり、地区全域にわたって人が多く、雅秀を辟易させた。しかし、志帆との遊覧は思いの外楽しく、いつしか人混みは気にならなくなっていた。
アズサと遊んでいる時とはまた違う、気炎のような熱い悦びが全身を満たすのだ。
志帆とみなとみらい21を回っている最中、雅秀は志帆の『告白』について、ずっと思案を巡らせていた。
あれ以来、答えを保留にしているが、いずれ何らかの結論は出さなければならないだろう。志帆は一切言及していないが、気にしているはずだ。演技派なのか、今のところそういった素振りはないが……。
いくつかの施設を回った後、二人は昼食を済ませる。それから、みなとみらいの名物である観覧車に乗ることにした。
整理券をスタッフに渡し、二人は降りてきたゴンドラに乗り込む。内部で雅秀は、志帆と向かい合せに座った。
扉が閉まり、徐々にゴンドラは上昇する。
二人は無言で景色を眺めた。水族館の水槽のように、大きく取られている窓から望む風景が、どんどん小さくなっていく。
やがて横浜の街並みが、ジオラマのように小さくなったところで、志帆が口を開いた。
「例の告白のことだけど」
雅秀は、志帆のほうに顔を向ける。志帆は、窓から差し込んでくる黄金色の陽光を受け、魅惑的な雰囲気を纏っていた。肌が真珠のように美しい。そう思った。
志帆は続ける。
「答えはいつでもいいからね」
雅秀は首肯した。女性からの告白は生まれてはじめてだったため、そんなものかと思う。同時に、本当なら早めに答えを聞きたいものではないのかと、疑問も持った。
言い終わると、志帆は照れたのか、後ろで纏めてある髪をさっと左手で触れた。
グレーコートの袖口から、志帆の左手首が覗く。そこには、リストカットの跡などなかった。
アズサや雅秀とは違い、死の影など纏わり付いていない人間。普通の人。それが志帆だ。
雅秀の脳裏に、映像が展開される。
アパートの一室で、志帆と共に暮らす風景。いつか見た似たような妄想。そこにはアズサではなく、志帆がいる。
希死念慮や、自殺未遂とは関係のない相手との生活は、とても美しい気がした。
やがて、雅秀たちが乗ったゴンドラは、頂点へと達した。小麦畑のように煌く横浜港が、眼下に広がる。かつて、世界一の全高と謡われたパノラマの景観は、伊達ではなかった。
絶景を眺めながら、志帆が呟く。
「私ね、高校生のとき、両親を事故で亡くしたんだ」
雅秀はえ? と顔を上げて志帆を見つめる。志帆は窓の外を眺めたままだ。
「私、一人っ子でさ。親がいなくなった途端、孤独になっちゃって」
志帆の唐突なカミングアウトに、雅秀は面食らった。一体、どうしたんだろうと首を傾げると同時に、自分の境遇と似ているではないかと驚く。
雅秀の心中を、読心術のように察した志帆は、悲しげな面持ちで頷いた。
「そう。あなたと同じよ。永倉くん」
「……どうしてそのことを?」
自分の過去について雅秀は、今までほとんど誰にも語ったことはなかった。唯一の例外は、同僚の菊池か。雅秀の両親が亡くなり、親類とも疎遠であることを知っているのは。
だが、志帆と反目し合っている菊池の口から、彼女へ直接、雅秀の情報が漏れたとは考えにくい。
志帆は答えた。
「風の噂で聞いたんだ」
「風の噂?」
雅秀は眉をひそめた。菊池の口からではないのなら、おそらく間接的に伝わったのだろうが、疑問が生じる。
自分は誰からも大して興味を持たれることがない人間だ。ゆえに、雅秀のプライベートを吹聴する珍しい輩がいるとは思えない。かといって、菊池でもないだろう。一体、誰が志帆に自分の過去を伝えたのだろうか。
しかし、雅秀は、すぐにどうでもいいと思った。自分の過去を誰が把握していようと、気にはならないからだ。
「それで、何が言いたいんだ?」
雅秀は結論を促した。いまいち志帆の真意が見えない。
志帆は、しばし黙考した後、やがて話し始めた。
「私、両親を亡くして以降、ちょっとした特技を身に付けたんだ」
「特技?」
「うん」
なんだか話がおかしな方向に進み始めた気がして、雅秀は不安を覚えた。
「その特技って?」
雅秀が訊くと、志帆はこちらを見つめた。綺麗な奥二重の目。澄んだ瞳が、雅秀の両眼を射抜く。
志帆はそのまま、雅秀の質問に答えた。
「人の正体を見抜ける力」
「はあ? なんだよそれ」
まるで、漫画やアニメの世界だ。冗談かと思ったが、どうも本気らしい。
志帆は真面目な顔で言う。
「さっき、両親を事故で亡くしたって話したでしょ? その時、実は私もその事故に巻き込まれたんだ」
そう語りながら志帆は、雅秀から顔を逸らし、再び窓の外を眺める。現在、ゴンドラはゆっくりと下降を始めていた。
志帆は言葉を継ぐ。
「それで、生死の境をさまよった後、目が覚めたとき、この能力が身に付いていることに気がついたんだ」
「人の正体が見抜けるって、具体的にはどんなものなんだ?」
「その人が危険な人物だったり、普通じゃない人間かどうかが判別できるの」
雅秀は、しばし硬直する。志帆の言う『特技』とは、どうも超能力のようなオカルトめいた類のものらしい。
どう返答したものか雅秀が困惑していると、志帆はこちらに顔を向けた。
真摯な面持ちで、伝えてくる。
「だから、永倉くんに忠告するね」
「忠告?」
「ええ」
志帆の眼光が、陽光を受けて光る。
「アズサさんに気をつけて」
雅秀は絶句した。脳裏に、黒ジャンパーの男の姿が蘇る。
あの男と同じことを、今、志帆は言った。
動揺しつつ、雅秀は訊く。
「一体、なぜ?」
雅秀の動揺が伝わったらしく、彼女は、伏し目がちになりながら答えた。
「その……。私の特技がそうなっているの。見るだけで危険な人間だってわかるから」
雅秀は、思わず責めるような口調になる。
「だから、なんなんだよそれは。何の根拠もなく、悪者扱いしているだけじゃないか」
雅秀の非難に、志帆は押し黙った。実際、志帆の言い分に寄れば、彼女が述べた『特技』は、いわゆる、勘のようなものに過ぎないということである。
特に明確な根拠はないのだ。そんな理由で、アズサを危険人物扱いするなど、許せない。
雅秀は、志帆に指摘を伝える、
「もしかして、嫉妬でアズサのこと貶めてているんじゃないのか」
志帆は、こちらに好意を持っている。そしてその雅秀が以前、恋人のように連れていた女がアズサだ。
つまり、志帆は、雅秀が伝えた親戚の女の子という証言は全く信じずに、アズサを一人のライバルとして――一人の女として――認識していたということである。
その相手を今、志帆は嫉妬から言い掛かりをつけて、蹴落とそうとしているのだ。
雅秀は、そう判断した。
志帆は慌てたように、弁明する。
「違うよ。本当に永倉くんのことを心配して言ってるんだよ」
雅秀はそっぽを向いた。
「もうアズサのことについて、何も言わないでくれ」
雅秀の言葉に、アズサはショックを受けたように口をつぐんだ。
雅秀は窓の外へ目を向ける。ゴンドラは、随分と下降し、すでに横浜港は姿を消していた。雑多な街並みが、下から雅秀たちを飲みこもうとしている。
雅秀は、息を吐いた。心がざわめいている。
このざわめきの正体を、自身でも理解していた。信頼しているアズサを貶められたからではない。むしろ逆だ。
これほどまでに動揺し、志帆を責めるのは、自分の中にもアズサに対する疑心があるからだ。
例の男の特徴について、話した時の、アズサの反応。それに対する疑問が、まだ解消されていなかった。
菊池の声が、頭の中に響く。
「彼女は曰くつきってことだ」
できるだけ早めに、アズサに黒ジャンパーの男について、確認を取ったほうがいいかもしれない。
それさえ解決すれば、アズサを疑う必要はなくなるのだから。
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