第五章 自殺教唆

 「この前の休みの日? 友達と渋谷に行ったって言わなかったっけ?」


 原宿にあるスイーツカフェで、アズサはパンケーキを突っつきながら、そう答えた。


 雅秀が渋谷で捜索を行った次の週の土曜日。雅秀は、無事アズサと会う約束を果たした。


 その場のノリで原宿へ遊びに行くことになり、アズサの要望で入店したスイーツカフェにて、雅秀は思いきって彼女に質問してみたのだ。


 先日、一体どこで誰に会っていたのかを。


 「その友達って、クラスメイト?」


 雅秀の質問に、アズサはクリームが乗ったパンケーキを頬張り、コクリと首肯した。


 雅秀は重ねて質問を行う。


 「男? 女?」


 アズサはバニラシェイクと共に、パンケーキを飲み込むと、不思議そうな顔をした。


 「どうしてそんなこと訊くの?」


 「別に深い意味はないよ。山手線でアズサに似た子を見かけたから、もしかしてって、思っただけ」


 疑問を抱かれそうだったので、雅秀は嘘をついてはぐらかそうとした。


 だが、アズサには通じなかったようだ。核心を突いてくる。


 「もしかして、私が誰と会っていたか気になっているとか?」


 「……」


 雅秀は質問に答えず、つい目を逸らしてしまう。自身としては、自然に誤魔化したつもりだったが、やはり怪しかったようだ。こういった駆け引きはろくに経験がないため、どうしても墓穴を掘ってしまう。


 二人の間に静寂が訪れた。スイーツカフェのお洒落な店内で、他の女性客たちの明るい話し声が、やたらと大きく聞こえる。


 現在、店内にいる男性客は自分一人だ。そのためか、女連れだろうと、時折不審そうにこちらの席を眺めてくる客が何人かいた。もっとも、女子高生と『デート』しているため、ある意味で不審人物なのだが。


 突然、クスリとした笑い声が耳に届いた。雅秀は正面に顔を戻す。


 アズサがどこか嬉しそうに、小さく微笑んでいた。


 「そうなんだ。雅秀は、私が誰と遊んだかずっと気になってたんだ」


 アズサは小悪魔のように、上目使いでこちらを見る。美少女アイドルを思わせる可憐な仕草だ。


 図星を突かれた雅秀は、思わず赤面した。


 「そんなわけじゃあないよ」


 あたふたと雅秀は手を振り、否定する。だが、アズサはそれをあっさりスルーした。


 彼女は自信に満ちた表情で、ウィンクを行う。


 「安心して。会ってたのは女友達だから。これが証拠」


 そう言うと、アズサはスマートフォンを取り出し、操作した後、画面を向けてくる。


 確認してみると、そこには、プリクラを転送したものらしき画像が映っていた。アズサと、もう一人、色白で背が低い小柄な少女。


 二人は明るく笑って、こちらに向けてピースサインをしていた。落書きのようなデコレーション加工や修正もされており、随分と容姿が変わってはいるが、内一人がアズサだとはっきりわかった。


 二人以外は誰も写っておらず、男の姿などない。


 「ね、この子とこの前遊んでいたの。男じゃないよ」


 証拠の画像とアズサの言葉に、雅秀は心底安堵した。


 ずっと脳裏を占拠していたイケメンの『男子高校生』の姿が、布で拭ったように、薄っすらと消えていく。


 雅秀は、大きく息を吐いた。本当によかったと思う。


 雅秀は、手元にある冷めたコーヒーを一口飲み、ソファに深く腰を沈めた。


 「わかった。変に詮索してごめんね」


 アズサは首を振った。


 「ううん。気にしてないよ。むしろ、嬉しかったから」


 「え?」


 雅秀は、はっとしてアズサを見る。アズサは、目を伏せていた。長い睫毛のせいもあり、儚げな美しさがある。


 アズサは説明を行う。


 「私、雅秀が誰と遊んだか気にかけてくれて、嬉しかったんだよ」


 雅秀の心臓が、高鳴る。アズサのこの言葉の真意が、なんなのかとても気になった。


 雅秀は、アズサを見た。彼女もこちらを見つめており、清流のように澄んだ瞳と視線が結ばれる。


 「……どういう意味?」


 眉根を上げ、雅秀が尋ねると、アズサは目を逸らし、恥ずかしそうに答えた。


 「そのままの意味だよ。もっと雅秀から気にかけられたいってこと」


 アズサの返答に、自身の脈拍が急速に高まっていくのを雅秀は感じた。これはアズサが示した好意かもしれない。


 嬉しさと恥ずかしさが入り混じった複雑な感情が、雅秀を襲う。


 声を発せられないでいると、アズサは照れたように、赤みがかった髪をかき上げた。袖の隙間から、これまで何度も見たリストカットの跡がちらつく。


 「そういうことだから、これからも一緒にいてね」


 アズサはそう言うと目を逸らした。わずかばかり、頬が紅潮している。アズサが本心で言葉を発したことが伝わってきた。


 雅秀の心は躍った。アズサは雅秀に対し、好意を示した。おそらく、恋愛感情によるものだろう。少なくとも、雅秀を特別な相手として見做しているのは、間違いなかった。


 無性に、アズサを抱き締めたい衝動に駆られる。しかし、雅秀は堪えた。せっかく、好意を伝えてくれたのに、すべて台無しになってしまいそうだからだ。


 雅秀は、アズサと目を合わせず、無言のまま椅子に座っていた。何を喋っていいか皆目見当つかない。それはアズサも同じらしく、居住まいが悪そうに、もじもじしている。


 遊んでいそうな外見とは裏腹に、アズサは案外、恋愛経験が少ない初心な少女なのかもしれないと感じた。


 しばらく時間が過ぎる。スイーツカフェの静かな雰囲気のみが、流れていた。


 さすがに気まずくなり、雅秀は新しい話題を口に出すことにした。ついさっき、思い出したことがあるのだ。


 例の、黒ジャンバーの男の件である。


 雅秀は、沈黙を破った。


 「そういえば、この間、例の男と遭遇してさ」


 「例の男?」


 アズサは顔を上げ、不思議そうな表情をする。


 「そう。109にいた男」


 雅秀は、黒ジャンバーの男との邂逅の経緯を、アズサに話した。


 背後から肩を掴まれ、意味不明な言葉をかけられたことなど。


 雅秀が話を終えると、アズサはまるで心霊体験でも聞いたように、口に手を当てて眉をひそめた。


 「なにそれ。キモイ」


 「ただの不審人物だからね。アズサも気をつけて」


 アズサは疑問を口にする。


 「でも、その人が言うあの女って、誰のことだろ?」


 「さあ」


 雅秀は肩をすくめた。それからアズサの様子を窺う。アズサは純粋に、雅秀が話した黒ジャンパーの男のことを不気味がっているようだ。特に心当たりがあるような反応ではない。


 男が警告した『あの女』は、アズサのことではなさそうだ。


 雅秀は続けた。


 「ストーカーみたいな真似をする奴の言うことなんだから、真剣に考える必要はないと思うよ」


 「そうだね」


 アズサは頷いたものの、納得していない様子で、こちらの顔を覗き込んでくる。


 「けど、わざわざそんな忠告してきたってことは、もしかして雅秀の知り合いの女の人のことじゃない? 私に内緒で付き合っている人がいるとか」


 アズサの言葉に、なぜか一瞬だけ、脳裏に志帆の姿がよぎった。彼女は単に、こちらを目の敵にしている職場の上司に過ぎないのに。


 志帆のことを思い出していた雅秀は、少しだけ言葉に詰まる。


 その反応を見て、アズサは顔を曇らせた。


 「やっぱり。私に嘘ついて付き合っている女の人がいるんだ」


 アズサは急に不機嫌になり、唇を尖らせた。


 雅秀は面食らう。どうやら、アズサは誤解をしたようだ。


 立場が逆転した状況に困惑しつつ、雅秀は説明を始めた。


 「勘違いしないでくれ。俺には付き合っている人どころか、知り合いの女性もいないんだから」


 「嘘つき」


 アズサは、そっぽを向いてしまう。


 その後、雅秀は、不機嫌になったアズサを時間をかけて宥めければならなかった。他人から見ると、カップルの痴話喧嘩のように映っているかもしれないなと思う。


 ようやく説得を聞き入れたアズサは、笑顔を浮かべた。


 「そこまで言うなら信じるね」


 雅秀は、ほっと胸を撫で下ろした。最後にはまるで彼女のご機嫌取りのようになっていたが、本当のカップルみたいで、むしろ楽しささえ覚えた。


 話が一段落したところで、アズサが訊いてくる。


 「そういえば、その男の人ってどんな顔をしていたの?」


 雅秀は、黒ジャンバーの男の容貌を脳裏に蘇らせた。


 不自然なくらい色白で、能面のような顔の人間。やけに瞳孔が開いており、ゆえに眼光は鋭い。まるでゾンビを想起させる見た目だった。


 雅秀は、男の容姿の特徴をアズサに話した。注意を促したのだから、早めに伝えるべきだったと思いながら。


 男の容姿について説明を受けたアズサは、なぜか顔色を一変させた。よほど不気味に感じ取ったのだろうか。


 雅秀は訊く。


 「どうした? そんなに嫌なイメージを受けたのか?」


 アズサは強張った表情で、首を横に振った。顔が青い。明らかに様子がおかしかった。


 雅秀は怪訝に思う。一体、どうしたのだろう。


 「大丈夫か?」


 雅秀が問いかけるが、アズサは無言を貫き、答えなかった。


 その後、スイーツカフェを出て、二人で原宿を回っている最中も、アズサの様子はおかしいままだった。いくら理由を尋ねようと、これまでと同じで、首を横に振るばかりだ。


 雅秀の心の中に、わずかばかり疑心の炎が生まれた瞬間でもあった。


 やがて、その炎は大きく燃え広がり、雅秀の身を焦がした。


 アズサに事情を確認したかったが、隠蔽される確信があった。


 そこで雅秀は菊池に相談することにした。もちろん、相手が女子高生とは言わず、また黒ジャンパーの男について、少しぼかしながらだが。


 それは、アズサにジャンパーの男の話をしてから、二日後のことだった。




 休憩室にて、雅秀は菊池に相談を行う。


 相談を受けた菊池は、まず始めに目を丸くした。まるでUMAや幽霊でも目撃したような風情だ。


 「なんだよ」


 雅秀のほうが困惑してしまう。


 菊池は驚いたように言葉を発した。


 「いや、お前の口から、女絡みの相談を受けるなんて思いもしなかったから」


 「それ、どういう意味だよ」


 雅秀は唇を突き出した。確かに、自分は女っ気がない男ではあるが……。


 菊池は厳つい相貌ではあるものの、目鼻立ちは整っており、女性からモテる部類である。そのため、相談相手としては相応しかった。


 だが、変に言いがかりをされると、その判断が間違っていると思ってしまう、


 雅秀はため息をつき、言葉を継いだ。


 「そんなこと言うなら、別に相談に乗ってくれなくていいから」


 菊池は苦笑しながら、手の平をこちらに向けて謝罪する。


 「すまんすまん。別にからかうつもりはなかったんだ。――それで、お前と付き合っている彼女さんの話だな」


 「別に俺の彼女ってわけじゃあ……」


 菊池は腕を組んだ。


 「彼女も同然だろ。話を訊く限りではな」


 雅秀は、それ以上反論しなかった。こだわる部分ではなかったし、特段、的外れというわけでもないだろう。


 雅秀は先を促す。


 「わかった。それで、続きだけど」

 「ああ。彼女の元彼から警告を受けたんだよな? あの女に気をつけろって」


 雅秀は首を振って、注釈する。


 「そいつが、元彼かどうかは、まだわからないよ」


 菊池は、がっしりとした両肩を上げて言う。


 「それしか考えられないじゃないか。お前たちを監視していた男が、わざわざ一人の時に警告してきたんだろ?」


 「そうだけど……」


 菊池は教師のように、こちらをびしっと指差した。


 「じゃあ答えは一つだ。お前が付き合っている彼女は、曰くつきって結論になる」


 雅秀は、唇を噛んだ。客観的に判断すれば、そうなるが……。


 そもそも、彼女は自殺志願者。元来から、曰くつきといえるかもしれない。だが、菊池が指摘しているのは、そういった部分ではないだろう。


 雅秀は、疑問に思っていたことを口に出す。


 「そいつが言った、あの女に気をつけろって、具体的には何に対してなんだろう」


 菊池は目を細め、首を捻りながら答える。


 「元彼からの警告だとすると、九分九厘、彼女との恋愛関係についてのトラブルだろうな」


 「それは考えられない。アズ……彼女はいい子なんだよ」


 「お前がそう思っているだけで、悪女の可能性はある。よくある話だ」


 「だけど、その男が言う女が、彼女である確証もないよ」


 「男の話をした後、彼女の様子がおかしくなったんだよな? 嫌疑は充分だ」


 菊池は、次々に論駁を述べた。まるで、ストライクを確実に狙ってくるピッチングマシーンのようだった。


 雅秀は、頭を抱えそうになる。熾火のように小さかった疑惑が、次第に高い火柱となって、燃え盛っていく。


 まさかアズサが……。せっかく好意を見せてくれた矢先に、このような展開になるとは。


 自分と菊池の間に流れている深刻な雰囲気を感じ取ったのか、近くの席にいた他部署の従業員が、こちらをチラリと横目で見てきたことがわかった。


 菊池が、気を遣うように言う。


 「とはいっても、その元彼の勘違いや、当て付けって線もあるから、彼女をクロだと断定するのも早いかもな」


 雅秀は訊く。


 「どうすればいいかな」


 菊池は強面の顔に皺を寄せ、しばし黙考する。どこか刑事のようだと思った。


 菊池は答えた。


 「とりあえず警戒はしておいたほうがいいかもな。そして、隙を見て、彼女さんがどんな人か探りを入れる」


 「探り?」


 「ああ。怪しむべき理由ができたんだ。相手の素性を探るのは、当然さ。シロなら問題なし。クロなら別れればいい」


 「……」


 アズサに探りを入れるなんて、まるで裏切り行為だ。あまり気乗りはしなかった。


 菊池は雅秀の心情を悟ったのか、励ますように、こちらの肩を叩いた。


 「まあ、いずれにしろ、その元彼の警告に対しては、何らかの形で解決をしたほうがいいと思うぞ。今後のためにな」




 一日の業務が終わり、帰宅の準備を整えた雅秀は、ロッカールームを出た。


 この後は、事務所に赴き、タイムカードを押せば全て完了だ。残るは帰るだけとなる。


 本来なら、菊池も隣にいるはずだが、今日は彼だけ作業が残っており、残業であった。哀れなやつだと思う。


 雅秀は、正規社員が常駐している事務所に入り、タイムカードを押した。それから、足早に出口へと向かう。


 できるだけ、事務所には長居したくなかった。それに、今日は早く寮へ帰って、ゆっくり休みたかった。胸の内に、濁りのある靄が広がっているためだ。


 例の男の件を、菊池に相談した影響だろう。ずっと何かが燻っているのだ。


 可能なら、夜アズサに電話もしたかった。菊池のアドバイス通り、真意を早めに確かめるためだ。


 雅秀が、事務所を出ようとした時だった。こちらを呼び止める声がした。


 「永倉くん、ちょっといい?」


 振り返ると、志帆が立っていた。


 雅秀はげんなりする。社員食堂で会話をして以降、極力接触を避けていたのに、このタイミングで話しかけてくるとは。


 「何か用ですか?」


 ついぶっきらぼうに応じてしまう。志帆のほうも、わだかまりがあるのか、どこか気まずそうな雰囲気だ。


 志帆は言う。


 「話があるんだけど、付き合えるかな?」


 「話?」


 また下らない作業の押し付けか、それともプライベートの詮索か。いい加減、この女とはかかわりたくなかった。


 今日は一刻も早く、部屋に戻りたいのに。


 雅秀は首を振った。


 「もうタイムカード押したんで、明日でいいっすか?」


 うっとしそうに雅秀が断ると、志帆は顔の前で手を合わせて、強く頼んできた。


 「お願い。ちょっとでいいから付き合って。永倉くんにとっても、悪い話じゃないと思うから」


 雅秀は訝しむ。いつになく、真剣だ。なんだろう、一体。


 「悪い話じゃないとは?」


 「聞けばわかるわ。ね、すぐに終わるから」


 雅秀は、少し考えた後、首肯した。


 「わかりました。ちょっとだけなら」


 雅秀は了承する。志帆はほっとしたように笑みを浮かべた。


 「この部屋が空いているから」


 志帆は、事務所の入り口近くにある会議室を指し示した。それから扉を開け、中に入る。


 雅秀も後に続いた。


 コの字型並んでいる机の一角に、志帆は着席した。その隣に雅秀は座る。


 志帆は、すぐに口火を切った。


 「長倉くんは、この工場にきてどれくらい経つかな?」


 雅秀は一瞬考え、正直に答える。


 「約三年ってところですね」


 志帆は大きく頷いた。後ろで纏めてある髪が、左右に振れる。


 「永倉くんは今の環境で満足している?」


 「満足? あまりしていないですけど……」


 志帆が何を言いたいのかわからない。もしかして、リストラでも言い渡すつもりじゃないだろうな。


 雅秀が疑惑を抱えた瞬間、志帆はすぐに答えを出した。


 形の良い眉目をこちらに向けて言う。


 「永倉くん、正規社員になるつもりはないかな?」


 雅秀は、自分の耳を疑った。想像外の内容だ。


 雅秀は、声を上擦らせながら質問をする。


 「正規社員に? どうして俺が?」


 「永倉くんは仕事できるし、長く勤めているから、そろそろかなって思って。その気があるなら、私が推薦するわ」


 雅秀は押し黙る。寝耳に水の話に、困惑した。


 しかし、これは願ってもいない話だ。朗報とも言えるだろう。今の不況の最中、自分の年で正規社員に就くことは、なかなかに厳しい。ましてや、この工場ではなおさらだ。


 だが、志帆の提案が事実なら、それが覆る。正規社員になれば、色々と待遇が良くなり、生活の質も向上するだろう。もしかすると、結婚という道も、あるいは可能かもしれない。


 本来、雅秀の中には結婚願望などなかったが、アズサと出会い、共に過ごすうちに、それに近い欲求が生まれ始めていた。


 アズサとアパートの一室で暮らすイメージが、脳裏に展開された。アズサが作った料理が食卓に並び、それを二人が囲み、美味しそうに食べている。まるで新婚夫婦のように。


 輝くような美しい日々。相手は女子高生だが、とてもリアルな幸せの象徴そのものが、目の前にあった。


 雅秀は、しばし思案した末、答えを出した。


 「わかりました。お願いします」


 そして、頭を下げた。ふと、志帆に頭を下げるのは、今まであまりなかったなと思う。


 雅秀の色の良い答えに、志帆はにっこりと微笑んだ。今の状況のせいもあるのか、とても素敵な笑顔だと思った。


 「うん。わかった。それじゃあ上に推薦しておくね」


 志帆の言葉に、雅秀は頷いた。


 話は終わり、沈黙が訪れる。なぜか、志帆は席から立ち上がらなかった。そのせいで雅秀も動くことができず、座ったままだった。


 少し時間が流れる。志帆は、どこか思い悩んでいる様子をみせていた。まだ何か伝えることがあるのだろうか。


 気になって、雅秀が尋ねようとすると、それよりも先に志帆が口を開いた。


 「ねえ永倉くん。この前の話だけど」


 「この前?」


 「うん。永倉くんが女の子と一緒に新宿を歩いていた時のこと」


 再び、ぶり返される話。雅秀は当惑する。どうして志帆は、そのことについて、やたらと気にするのだろうか。


 志帆は、言いにくそうに、つっかえながら続けた。


 「それでね、その人と永倉くんはどんな関係なのかなって、それをどうしても聞きたくて」


 「前にも言ったように、親戚の子ですってば」


 アズサが女子高生である以上、雅秀の答えは変わらない。事実を知られるわけにはいかないからだ。


 志帆は眉根を寄せる。やはり信じていない様子だ。


 だが、志帆はすぐに表情を崩した。どこか考えを改めた印象を受けた。


 志帆はぐっとこちらに顔を近づけると、囁くようにして言う。


 「じゃあ、あの女の人は、恋人でも友人でもないんだ」


 「前からそう言ってるじゃないですか」


 志帆は、一呼吸間を置き、口をつぐんだ。ほんの僅か、何かに躊躇った様子が見受けられた。


 志帆は、さらに問いかけを行う。


 「じゃあ今の永倉くんには、付き合っている彼女はいないんだね」


 「ええ。そうですよ」


 志帆が納得してくれそうで、雅秀は安心した。もうこれ以上、アズサのことについて詮索されたくない。


 志帆から正規社員の推薦がなされる現状、これまでと違って、あからさまな拒否の態度を示せないのは難点であった。


 雅秀の返事に、志帆は満足したように頷いた。そして、志帆は思いがけないことを口にする。


 「だったら、永倉くん、私たち付き合ってみない?」


 「え?」


 志帆が何を言ったのか、全く理解できなかった。まるで宇宙人から話しかけられた気分だ。


 「なんだって?」


 雅秀は、唖然として聞き返す。何を言っているんだろう。


 志帆は、緊張した面持ちで答える。


 「前から永倉くんのこと気になっていたんだ。だから、フリーなら私と付き合って欲しいなと思って」


 ようやく、志帆の言葉が、墨汁のように頭に染み込んでくる。志帆の発言は、つまるところ、これではないか。


 「それって愛の告白?」


 雅秀の問いに、志帆はコクリと首肯した。


 雅秀は、あんぐりと口を開けた。おそらく、自分の人生で一番、間抜けな顔をしている瞬間ではないかと思った。

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