第四章 心中企図

 「永倉くん、今日は一人なんだ」


 社員食堂で、昼食をとっていた時、雅秀は声をかけられた。


 啜っていたうどんの器から顔を上げ、雅秀は確認する。


 案の定、志帆だった。手には弁当袋。


 「そうっすね。一人ですよ」


 今日、菊池はシフトの関係上、休みだ。菊池以外とはろくに接することのない雅秀は、自ずと単独行動になる。


 「ここ座っていい?」


 志帆は、雅秀が座っているテーブル席の対面を指差した。


 雅秀は、一瞬躊躇する。


 「いつも一緒にいる連中はどうしたんですか?」


 志帆は、昼食の時、大抵は同期の女たちと食事をとっていた。今も、離れたテーブル席で、その女たちは弁当や社食を食べている。


 雅秀と違い、行動を共にする人間が休みというわけではないようだ。かといって、仲違いしたとかそんなものではないだろう。先ほどまで、仲良く仕事をしていたのだから。


 「ちょっと話があって、今日は長倉くんと一緒に食べたいんだ」 


 志帆はそう言うと、雅秀の許可を得る前に、席へと座った。


 雅秀は抗議の声を上げようとしたが、思い止まる。下手にこんな場所で揉めたくはなかった。それに、やはり相手は正規社員。逆らっても面倒になるだけだ。


 雅秀は、うどんを啜った後、訊く。


 「話ってなんすか?」


 志帆は、弁当箱を袋から取り出しながら答えた。


 「この前の休日のことなんだけど……」


 「休日?」


 てっきり、仕事の話かと思った雅秀は、面食らう。この間といい、やけに雑談が多い気がした。


 「うん」

 志帆は、首肯し、取り出した弁当箱を開く。中身は、玉子焼きや、ウィンナーなどが綺麗に盛り付けされていた。自分で作っているのだろうか。


 志帆は、言う。


 「永倉くん、この前の休日に、新宿で女性と一緒にいなかった? 随分若い女の子と」


 雅秀は、つい、口に含んでいたうどんを吹き出しそうになった。どうやら、アズサと一緒にいたところを目撃されていたらしい。


 動揺が露骨に表情に出たため、志帆の言葉を肯定したも同然だった。志帆は納得したように頷く。


 「やっぱり……。綺麗な人だったね。永倉くん、あの人とどんな関係?」


 胸の動悸が、少し早くなる。これは良くない兆候だ。アズサは未成年。もしも、アズサが女子高生だと他者に知られてしまったら、雅秀の立場が危うくなってしまう。下手をすると逮捕である。


 なぜ志帆が、こうやって問い詰める真似をするのかはわからない。もしかすると、女の勘なのか、キナ臭いものを感じ取り、追い詰める魂胆なのかもしれなかった。なぜなら志帆は、雅秀を目の敵にしているのだから。


 くそ。よりにもよって、この女に目撃されるなんて。


 ここは、上手く誤魔化したほうがいいだろう。


 雅秀は、首を振った。


 「別に大した関係じゃないですよ。その……親戚の子なんです」


 とっさにでまかせを言う。しかし、発言した後で、少し安直だったかもと、後悔をした。


 実際、志帆は真に受けなかったようだ。


 志帆は、ふーんと目を細める。


 「親戚の子、なんだね。それにしては、やけに親密な感じだったけど?」


 志帆の眼光が、鋭くなった。取調べ中の刑事のようだ。


 女関係の嘘などこれまでついたことなかったため、墓穴を掘った形になる。雅秀は、どうしたものかと逡巡した。


 そもそも、プライベートの話なので、雅秀に答える義務はないのだが、一方的に拒否できる雰囲気ではなかった。しかも、先ほどから、離れた席にいる志帆の同期たちが、なぜかチラチラこちらの様子を窺っている姿が目に付いた。


 意図は不明だが、彼女たちも正規社員。もしも、志帆の『尋問』を無下にし、彼女たちもろとも反感を買うようであれば、面倒臭いことになる。


 やはり、ここはひたすら誤魔化すしかないようだ。


 「人懐っこい子なんです。誰に対してもああですから」


 「本当? まるで恋人みたいに見えたよ。ずっとべったり一緒だった」


 どこまで目撃していたのかと、雅秀は訝しがる。こいつ、なんのつもりだ。


 しかし、同時に疑問も氷解していく。あの時、ずっと感じていた視線の正体は、志帆だったのだ。


 「……だから、本当に親戚の子なんですって」


 「親しくなったのはいつ?」


 「昔の話なので、覚えていません」


 「その子は何歳?」


 「二十歳の大学生」


 そこまで訊いた志帆は、口をつぐむ。顔がどこか不安げだ。何か変なことを口走ってしまったのかと、雅秀も心配になった。


 「永倉くんは、その子のことどう思っているの?」


 「どうも思っていないですよ。言ったでしょ? 親戚だって」


 いい加減、うっとおしくなり、雅秀は荒い口調になった。志帆の意図がイマイチ読めない。よほど、こちらの弱みを握りたいのか。


 なおも、志帆は何か言おうと口を開きかける。


 非常に面倒だった。ここで退散した方がいいだろう。


 雅秀は容器を載せたトレイを持って、勢いよく立ち上がった。志帆ははっとしたように、こちらを見上げる。


 雅秀は、志帆へ軽く頭を下げた。


 「俺、食事が済んだんで、ここで失礼します」


 そう言った後、志帆に背を向けた。直前に、志帆が悲しそうな表情を浮かべたことがわかった。


 志帆をテーブルに残したまま、雅秀はその場を離れた。背中に志帆の視線が突き刺さっていることが感じとれる。志帆の同僚たちも、こちらを見ているような気がした。


 雅秀は思う。理由はわからないが、志帆はアズサと雅秀が一緒にいたところを目撃し、探りを入れてきているようだ。自殺未遂の件もある以上、深いところまで知られてしまったら、少しやっかいだ。


 このまま下手に志帆と絡めば、その可能性が高かった。これから先は、できるだけ志帆から距離を置いたほうがいいかもしれない。


 そして、雅秀はアズサのことを想う。


 そう。一歩間違えば、アズサともう会えなくなるのだ。それは嫌だった。せっかく、生きる希望――光を――見出せるところまできたのに。


 せっかく、女子高生と自殺未遂を行い、掴んだ『絆』なのに。


 雅秀は、この後、アズサに連絡を取ろうと思った。声が聞きたくなったのだ。


 それからついでに、次会う約束も取り付けられたらいいな、とそう願った。




 アズサに打診した遊びの誘いは、予想外にも断られてしまった。高校の友人との予定が入っているらしい。


 はじめてアズサから誘いを拒否された雅秀は、深く落ち込んだ。まるで、自分の全てを否定されたような気分になり、強い疎外感を覚えた。


 アズサは友人と言ったが、もしかするとその相手は男かもしれない。そう思った。


 アズサほどの綺麗な子ならば、高校でも引く手数多だろう。アイドル的な扱いを受けていてもおかしくはないはずだ。


 そのため、アズサを狙う『ライバル』は多いと思われた。雅秀よりも、若く、活力も希望もある高校生の男子が。


 もしかすると、アズサはその中の一人とデートの約束を取り付けたのかもしれない。そんな予感がした。


 制服姿のアズサが、端整な顔をした高身長の男子生徒と手を繋ぎ、渋谷の街を歩く姿がまるでワイドスクリーンのように、脳裏に展開された。


 アズサはその男子生徒と、とても楽しそうにお喋りをしている。艶やかな唇を動かし、少女マンガの主人公のごとく、目をキラキラさせながら。


 心の奥底から、ヘドロのような嫉妬心が湧き起こってくる。ただの想像でしかないのに、まるで現実のことのように感じた。


 脳裏の映像は、続きを映し出す。


 アズサたちはやがて、人気のない公園へとやってきた。そして、ベンチに座り、しばし談笑した後、互いに見つめ合い、唇を重ねる。


 次のシーンでは、男子生徒の部屋へと風景が切り替わった。アズサはベッドへと仰向けに寝そべり、男子生徒は彼女の制服のボタンを外している……。


 妄想は、際限なく膨らんでいった。壊れたビデオテープのように、二人の淫猥な映像をひたすら垂れ流した。


 疑心は少しずつ、確信へと変貌を遂げていく。


 雅秀は、今すぐにでもアズサに会いたい気持ちに襲われた。




 休日となる土曜日。本来、アズサとの約束が成立していたならば、この日は彼女とどこかで遊んでいるはずであった。


 しかし、邪魔者のせいで、それも叶わなくなった。脳裏を占有し始めた、あのイケメンの『男子高校生』のせいで。


 雅秀は、朝起きると、すぐさま外出の準備に取りかかった。理由は渋谷へ足を運ぶためだ。


 事前にアズサから聞いた話だと、アズサは渋谷に赴いているらしい。前も雅秀と訪れたのが渋谷なので、よほど好きな街なのだろう。そして、なまじ自分と同じ場所で『男子高校生』と遊んでいると思うと、比較されている気分になり、強い嫉妬心を覚えてしまう。


 外出の準備を終えた雅秀は、寮を後にした。


 山手線を利用し、渋谷駅に向かう。比較的早い時間帯なので、電車内はさほど混雑していなかった。


 座席に座り、電車に揺られながら、雅秀はポケットからスマートフォンを取り出した。


 メッセージアプリを開き、アズサとやり取りした履歴を確認する。


 やはり、彼女は今日、渋谷にいる。早くから出るとのことなので、もう到着しているはずだ。


 しかし、具体的な居場所や、共にいる人間までは伝えられておらず、判明はしていない。だが、一緒にいるのは『男子高校生』だと確信していた。


 あとの問題は、彼女の現在地だ。それさえ把握できれば、アズサの姿を目にするのも時間の問題だ。


 雅秀は、アプリを通じて、アズサに居場所を尋ねようか思案した。だが、思い止まる。下手に探るような真似をして、不信感を買ってしまったら、本末転倒だ。


 ここは自力で探す他ないだろう。


 そして、アズサを発見できたならば、一緒にいるであろう『男子高校生』の姿を確認する。それから、しっかりと目に焼き付けるのだ。


 そして、そいつを……。


 実際のところ、その先は考えていなかった。とにかく、少しでも早く、アズサの姿をこの目で見たかった。


 その後のことは、それから考えよう。




 渋谷駅に降り立った雅秀は、以前アズサと一緒に回ったスポットや、店舗を中心に捜索を行った。


 休日であるため、朝の時間帯でも人混みが多く、常に雅秀を辟易させた。


 特に若者やカップルが目立ち、鬱陶しさが増す。苛立ちが募った。この間の休みに、アズサと新宿で遊んだ時とはまるで違う心境の変化だ。


 それでも雅秀は、アズサを探した。109にも訪れ、ほとんどのフロアも見て回ったが、アズサらしき人物は発見できなかった。


 雅秀は、次第に焦燥感に駆られ始めた。荒野に置いてきぼりにされた気分、といえばいいのか。茫漠とした孤独感と、疎外感。


 このままアズサと永遠に会えないような錯覚に襲われた。そればかりか、この世界からアズサが消えてしまったかのような、妙な感覚にとらわれていた。


 やがて、正午になった。だが、雅秀は昼食をとるつもりはなかった。アズサ捜索が優先だ。


 再び渋谷駅に戻り、雅秀は、また一から彼女を探すことに決めた。


 大型のデジタルサイネージが映像を垂れ流す中、スクランブル交差点を通過し、道玄坂方面へ向かう。


 屋外屋内問わず、さらに人混みは増し、捜索は困難を極めた。これほど大勢の中から特定の人物を見極めるのは、運動場に落ちたマイクロネジを探すよりも、難易度が高いのではないかと思われた。


 それでもめげずに、雅秀はアズサを探し続けた。


 二周目の捜索を開始して、二時間ほどが経過する。


 ちょうどその頃からだ。


 雅秀の首筋に、チリチリとした焼け付くような妙な感覚が生じ始めていた。


 これには覚えがある。新宿御縁でも感じたものだ。


 誰かの視線。あの時と同じだ。


 雅秀は、立ち止まり、周囲を見渡した。若者やインバウンドらしき外国人が多く、とても活気が良い。そして、その中では、誰も雅秀のほうを見ていなかった。


 雅秀は、ポケットに手を入れ、再び歩き出す。視線もこちらの動きに合わせるように、移動している気がした。


 新宿御縁の時の視線は、志帆のものだった。ならば、これも志帆だということになる。しかし、そんなことあり得るのだろうか。つい先日、彼女とちょっとした悶着があったのだ。


 あれからは彼女と接触すらない。それなのに、雅秀に執着する理由があるとは思えなかった。


 この視線は、志帆ではない気がする。


 しかし、それなら一体、誰なのか。


 雅秀は、周囲を警戒しながら歩き続け、新宮通りに差し掛かった。そして、前方にある高架下に入る。


 この辺りは、人気が少ない場所で、メインストリートに比べると閑散としていた。


 雅秀が高架下を半分ほどまで進んだ時だ。背後に気配を感じた。


 そして、こちらが振り向くよりも前に、肩を掴まれた。


 雅秀は勢いよく背後を振り返る。


 思わず声を上げそうになった。


 背後にいたのは、見覚えのある黒ジャンパーを着ている男だった。年はこちらと同年代ほどだろうか。中肉中背で色が白く、生気を感じさせない能面のような相貌をしている。


 男には墓地にでもいるような、不気味なオーラが纏わりついていた。ただ、眼光だけは異様に鋭い。


 雅秀の背筋に冷たいものが走る。息が荒くなった。


 こいつが、あの時の男なのか。109でこちらの様子を窺っていた……。


 目の前の黒ジャンバーの男は、猛禽類のような鋭い眼差しをこちらに向けている。眼光が鋭く見えるのは、男の瞳孔が開いているせいだと気がついた。


 男は口を開く。


 「あの女には気をつけろ」


 「え?」


 一瞬、言葉の意味がわからなかった。なんだ一体。


 男は瞳孔が開いた目でこちらを見据え、再び、言葉を繰り返した。


 「あの女には気をつけるんだ」


 「あの女?」


 誰のことだだろうか。もしかしてアズサのことを言っているのか。


 「女ってアズサのことか?」


 雅秀の質問に、男は答えなかった。用が済んだとばかりに背を向け、歩き出す。


 「待てよ。一体、なんなんだあんたは」


 雅秀が大きな声で男を呼び止めた。だが、男は立ち止まらなかった。雅秀の声が、高架下に虚しく響いただけだ。


 黒ジャンバーの男は、振り返りもせず、どんどん離れていく。


 「おい、待てって」


 雅秀はとっさに駆け出した。そばを歩いていた通行人が、驚いたように道を開ける。


 男は高架下を出て、その先にある曲がり角を曲がった。


 雅秀もすぐに後に続いた。男と同じように角を曲がり、追いかけようとする。


 ――しかし。


 雅秀ははっとした。曲がり角の先には、誰もいなかった。寂れた路地が続いているだけだ。


 雅秀は周囲を確認するが、隠れるような場所も、見落とすような場所も見受けられなかった。


 男は煙のように消えたのだ。


 雅秀は、しばらくの間、呆然とその場で立ち尽くしていた。




 結局、その日はアズサを発見することができなかった。気落ちした雅秀は、捜索を打ち切り、大人しく帰路につくことにした。


 渋谷駅から電車に乗り、寮の最寄り駅を目指す。


 車内はほぼ満員だったので、可能なだけ人が少ない扉付近を陣取った。それから窓の方を向いて立つ。


 アズサに会えなかったとしても、彼女にメッセージアプリで居場所を聞き出すことは可能である。だが、やはり最後まで食指が動かなかった。まるでストーカのようだし、こちらのイメージを損なう恐れがある以上、どうしても行動に移せなかったのだ。


 それに、新たに生まれた疑惑が、二の足を踏ませていた。


 雅秀は、目の前にある窓の外を眺める。


 外は、すでに日が落ちようとしていた。燃えるような夕陽が、墓場のように立つビル群の合間から、煌々と光を投げかけている。


 雅秀は夕陽を見ながら、新宮通りの高架下で会った男のことを考えた。


 あいつは警告を発していた。


 あの女には気をつけろと。


 男を最初に目撃したのは、アズサと共にいる時だった。つまり、彼が言う『あの女』とは、アズサ以外いないはずだ。


 しかし、仮にアズサだとして、そもそも彼女の何に対し、警告を発したのか。


 アズサは捨てられた子猫のように、人畜無害の少女だ。誰からも理解されず、孤独に生き、手首まで切って、自殺をも決行した哀れな女子高生。


 第一、あの男は一体、何者だろう。アズサの父親でも、アズサの通う学校の教師でもなさそうだ。わざわざ雅秀に警告する意図も読めなかった。


 当然だが、今のところ、彼のほうが、極めて怪しい相手であることに間違いはない。つまり、単なる不審者なのだ。


 そして、あのタイミングでこちらに接触してきたとなると、彼はずっと雅秀のことを尾行していたことになる。


 そう考えると、背筋がうそ寒くなった。


 雅秀は、電車内を見回す。


 大勢の乗客により、車内は埋め尽くされていた。その中に、雅秀へ注目している者など皆無だ。現代病なのか、ほとんどの者が俯き、スマホを弄っている。


 あれから、雅秀へ注がれる視線の気配は消えていた。あの黒ジャンバーの男の姿も見えない。今のところは、脅威は迫っていないように思えた。


 だが、用心は必要だろう。あの男の意味不明な警告は無視するとして、彼がこちらに目を付けている不審人物であることは、紛れもない事実なのだから。


 そして、アズサにも伝えておこうと思った。下手をすると、彼女に危害が及ぶ可能性もある。それに、会話のネタにもなりそうだった。


 雅秀は、窓の外に顔を戻した。


 しかし、と雅秀は考える。


 自殺を決行し、未遂に終わってからというものの、自分の周りで色々と変化が訪れているような気がした。


 まるで運命が切り替わったような、奇妙な感覚があった。

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