第36話存在していた記憶

 昼下がりの屋上。この季節は肌寒いを通り越して凍え死ぬレベルで寒いこの場所に生徒の姿は無い。

 ベンチに座って空を仰ぐ。空を泳いでいく雲が俺を笑っているようだ。

 わざわざこの場所に来たのには理由がある。理由もなくこんな場所に来るほど俺もアホではない。例の記憶についてだ。



 恋歌…いや、レーナと話したときに俺の脳内に浮かんできた記憶。それは幼い頃にレーナと遊んでいた記憶だった。それまで合ったはずの記憶。それなのに俺が感じたのは謎の違和感だった。

 間違っているはずの無い記憶。それだというのに俺の脳はわずかにも拒否反応を示したのだ。確かに出会っているはずなのになぜ?彼女はたしかに存在していたはずなのに。どれだけ考えても答えは闇の中に沈んだままだ。



「あれ、湊」



「…恋歌」



 声の方に視線を向けると、やっぱり恋歌がいた。

 今日ここに来た目的は一つだけ。恋歌と話すためだ。彼女との思い出ならば、彼女と話せば何かを思い出せるかもしれない。考えた末に俺は彼女を頼ることにしたのだ。



「レーナでいいよ。…どうしたのこんなところで」



「いや…なんとなくぼーっとしたくて」



「あはは、なにそれ。それじゃ私はお邪魔かな?」



「いやいや、別に大丈夫だよ。少し話したかったところだし」



 恋歌は俺の隣に座った。こうして彼女の横顔を見ると、大人びているが、たしかにレーナだ。あの日の面影がそこにある。



「いや〜、すっかり成長したね湊」



「まぁ、数年も経てばな。レーナこそ、だいぶ変わったみたいだけど?」



「そうかな?私はわりとそのまんまだと思うけど?」



 そう言って恋歌は微笑んだ。その表情に昔のレーナの笑顔が重なる。昔と変わりないその笑顔に俺は懐かしさを感じた。彼女はやはりレーナだ。レーナなのだ。



「…?どうしたの?」



「いや…何でもない。こうして話してるとなんだか懐かしいなって」



「ふふっ、そうだね。昔は一緒に公園で遊んでたっけ。あの頃は私もまだ日本語がカタコトだったな〜」



「あー、そうか。そう言えばレーナは海外の生まれだっけ」



 記憶の中の彼女はたしかにカタコトだった。服装もどこか海外を思わせるものだったのを覚えている。記憶のピースがまた一つ埋まっていく。



「湊、覚えてる?昔私が日本語下手くそだったから湊が聞き取れなくてさ。一回それで喧嘩したよね」



「あー…ははっ、あったなそんなこと」



 記憶の欠片の中からまた一つ恋歌との思い出が蘇る。なぜか忘れていた記憶がさっきまでのことのように、鮮明に浮かび上がった。

 些細なことでも喧嘩していた俺達はよく競い合いをしていた。一見おしとやかに見えるレーナだが、かなりの負けず嫌いだ。よくくだらないことで競い合っていたのが懐かしい。



「アイスどっちが早く食べれるかとかやったよな」



「やったやった。確かどっちも頭にキーンと来て結局おんなじぐらいに食べ終わったんだよね」



「あれはかき氷系でやったのが失敗だったな…ははっ」



「…また夏になったらやろう。今は私のほうが早いだろうから」



「はぁ?俺だって成長してるんだからな?ぜってー負けねーし」



「…ふふっ」



「…ははっ」



 …懐かしいな。こうやって昔も張り合ってたっけ。またこうやって話せるなんて感慨深い。

 相変わらず上品に笑うレーナを横から見つめる。少し幼さが残っているその横顔に安心感を覚えるのと同時に俺の脳内には一つの記憶が蘇ってきた。



 俺の目の前でボロボロと大粒の涙をこぼす彼女の姿。なぜだか分からないが、止まらないその涙に彼女は顔を歪めている。

 今とは正反対の彼女の表情。悲壮感を感じるはず。そのはずなのに、俺には何の感情も湧き上がってこなかったのだ。

 なぜ泣いているのか?どうして俺の目の前で?浮かんでくるのは疑問ばかり。俺は脳内に広がった謎の光景にただ困惑するしか無かった。



「…湊?どうしたの?」



「…ぁ…いや、なんでもない…」



「ふーん?明らかになんか考えてる顔してるけど?…あ、もしかして玲奈のこと?」



「な!?」



 唐突にレーナの口から飛び出た恐るべき妻の名に俺は激しく動揺してしまった。…俺としたことがここで動揺してしまっては肯定しているようなものだろ…!

 ここは無理矢理にでも誤魔化さないと…!



「…な、なんで玲奈の話になるんだよ」



「え?だって湊、玲奈と付き合ってるんじゃないの?」



「いやいやいや、なんで俺と玲奈が…釣り合わないし?」



「ふーん…付き合ってないんだ…へぇ〜…」



「な、なんだよ…」



「ふふっ、別に?付き合ってないんだなぁ〜って」



 …なんか怪しまれてる?流石に誤魔化すにはきつかったか?



「…湊ってさ、玲奈とよく一緒にいるけどなんでなの?」



「なんでって…別にあっちが近寄ってきてるだけっていうか…」



「ふぅ〜ん?ほんとはなにかイケナイ関係だったりして…」



「そ、そんなわけ…」



 …いや、たしかにイケナイ関係なのだ。なんせ彼女はストーカーだし、何故か同棲してるし、俺の初めて取られたし…



「…ま、いいや。あんまり追求してもいいことなさそうだし。とりあえずただならぬ関係ってことで覚えておくよ」



「えぇ…まぁそれでいいか」



「それじゃ、私行くね。…へっくし!!…さっむ」



 レーナはくしゃみをしながら屋上を後にした。…なんとか誤魔化せたみたいだ。

 彼女と話せたのは良かったが、あの記憶は一体…?なぜ彼女は泣いていたんだ…?



「随分とお楽しみだったみたいね」



「…玲奈」



 俺に悩む隙も与えず、ストーカーは背後から音も無く絡みついてくる。俺の腰に腕を回してがっしりとホールドした玲奈は俺の耳元で囁く。



「私になにも言わずにあの女と会うなんて…どういうつもりなのかしら?」



「…少し気になったことがあっただけです。別にやましいことはしてないですから」



「するしないの話ではないわ。これは夫婦の信用に関わる話よ。…でも今回は許してあげる。今から湊くんの脳内が私でいっぱいになるように書き換えてあげるから…♡」



「…え?な、なに?ちょ、玲奈?玲奈さーん?なにするつもりですか?ちょちょっとー!?」

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初恋の彼女に振られた俺、翌日からメンヘラストーカーとの同棲生活が始まった件について 餅餠 @mochimochi0824

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