第24話雨の公園
『瑠璃奈と真中先輩が別れた』
そんな噂が俺の耳に入ったのはつい最近のことだった。
長いようで短かった冬休みも明け、新たな楽器がスタートした。まだ家でゆっくりしていたいという堕落した気持ちを抑え、俺は学校へと足を運んだ。
教室に着くと、いつもの騒がしい教室が俺を迎え入れた。久しぶりの感じになんだか微笑んでしまう。
これからまた起こるであろう玲奈関係のトラブルにうんざりしながらも俺はいつもの席に座る。座って早々に話しかけてきたのは他でもない、ムカつく親友の奏音だった。
「おい湊、聞いたか?」
「何がだよ。また玲奈の事?」
「いやちげーよ…瑠璃奈ちゃんのことだよ」
妙に神妙な面持ちの彼の口から出てきたその女の名前に俺は背筋を震わせた。
俺を捨てたあの女。俺を絶望の淵に叩き込んだあの女。存在ごと忘れてしまいたいあの女。
ようやく過去に踏ん切りをつけて進めると思っていたところでこれとは、神様もいい性格をしている。
「…あいつがどうかしたのかよ」
「…瑠璃奈ちゃん、別れたらしいぞ」
奏音の口から告げられたその事実に俺は大して驚かなかった。
なんとなく察しはついていた。話の脈絡的にあの女になにかあったのだろうと。様々な事象が頭をちらつくが、唯一ぱっと思い浮かんだのがこれだ。…あの女にとっても俺にとっても一番最悪なものだったわけだが。
「…それをなんで俺に?俺の嫌なことが分からないぐらい馬鹿なお前じゃないだろ」
奏音は少し言いにくそうな表情で黙り込んでいたが、決心したように口を開いた。
「…捨てられたんだってよ。真中先輩に」
「…え?」
さすがの俺もこれには驚かざるを得なかった。その事実は一番残酷で、一番あってはいけないこと。それは俺が一番分かっている。
天罰としか思えないその事実に俺はしばらくまともな言葉を発することができなかった。出てくるのは疑問をそのまま声という形にしたような言葉の端切れだけ。あの女が捨てられた…?
黙ったままの俺に対して奏音はゆっくりと話す。
「…実際に見たわけじゃないから完全に噂の域を出ないんだがな、真中先輩が他の女子と歩いてるところを何人も見てるらしいんだよ。それと同じぐらいに見られてるのが瑠璃奈ちゃんが一人でいるところらしくて…同じクラスの奴らから聞いても最近は一人っきりらしいし…」
俺は完全に言葉を失った。自業自得というやつだろうか。神があの女に下した天罰は自らの行いをオウム返しにされたような、耐え難い苦痛だった。
ざまぁ見ろ、という感情よりも俺は驚きの感情が勝ってなんとも言えない感情に陥っていた。
「真中先輩、こんな事する先輩だとは思ってなかったんだけどな…」
「…マジか」
「俺がお前に言ったのは、正直伝えたかっただけで特に意味は無いし、玲奈さんの事もあって大変だろうし、どうするかはお前の勝手だけど…なんか言ってやったほうがいいんじゃないの?」
はっきりと言い切った奏音の瞳が俺を見据える。こいつは分かっているのだろう。俺が案外引きずりやすい性格だということを。
その時は答えを口には出さずに俺は奏音にありがとうとだけ告げてその話を終えた。それ以降その話題を出すことはなかったが、俺の心には依然あの女の姿が残っていた。
降りしきる雨。止む気配はなく、むしろ勢いを増していっている。学校を終えた俺の足は玲奈を振り切り、ある場所へと向かっていた。
不本意ではあるが、後で叱られることは覚悟の上だ。足が勝手にそっちに向いているのだから仕方がない。
今歩いている通りはひどく懐かしい景色だった。変わらない景色が俺の様々な記憶を呼び起こす。
初めてのデートで歩いたのはこの通りだった。目を閉じれば最初で最後の儚い時間が浮かび上がる。手を繋ぐことすらままならなかったあの時間は何物にも変え難いものだ。今となっては、人生最大の汚点であることに間違いは無いが。
見覚えのある未知を記憶を頼りに歩く。記憶が正しければこの先には…あった。
曲がり角を曲がったところで見えてきたのは一つの公園。住宅地の中にあるこの公園は普段は子供達の遊び場になっているが、雨の日ということもあり流石に子供達のは見えない。そんな中でただ一人、雨の中傘もささずにベンチに座る一人の女の姿があった。
ぴしゃりぴしゃりと濡れることも気にせずに水溜りをつっきり、うつむいた女の元へと一直線に向かう。
傘を女の方に少し傾ける。その女は目を見開き、驚いた様子で顔を上げた。
「え…」
「…なにしてんだこんなとこで」
その女、瑠璃奈は俺の質問には答えずにうつむいたままだった。なぜこうも気丈に振る舞ってしまうのか。こいつの弱点だ。
「…あんたこそ何よ。自分を捨てた女になにか用?それとも笑い飛ばしに来たわけ?」
俺はなにも言わなかった。正直、笑い飛ばしてやった方が良かったのかもしれない。だが、俺にはできなかった。
なんせ俺はその痛みを知ってしまっている。どこにもやり難い重いが心で跳ね回り、自分そのものを傷つけていくその痛みを。
捨てた糞野郎を前になにを、と自分でも思った。だが、俺はそこまで非常になれない。自ら相手の首を切ることなどできない。
「…俺からお前に問うことは二つだ」
強気な姿勢を見せる俺に彼女は少し驚いた様子だった。
この女の前でこんな態度を取るのは初めてだったからかもしれない。本当の俺を見たこいつがどう思ったのかは分からない。ただ、今は俺が聞く番だ。
「…俺を捨てたのはなぜだ?」
「…なによ今更。分かってるでしょ?もっと好きな人ができたからよ」
瑠璃奈は少しも悪びれずにそう言い切った。それが縫い合わせた態度だったかどうかは分からない。ただ俺にはボロボロの中必死に取り繕っているように見えた。
更に一つ。結び目を一つ解くように、過去の記憶を引きずり出す。そして、彼女へとぶつける。
「…俺のことは最初から好きでもなんでもなかったのか?」
俺の言葉を受けた瑠璃奈は言葉に詰まった様子だった。視線を地面へと落とし、歯をぎりりと噛み締めている。その彼女の様子からはなにかに悶えている苦しみを感じられた。
しばらくして、彼女の口が開かれる。
「…そうよ。ただ使えそうな男が一人よってきたから遊んでやっただけよ!まんまと騙されて滑稽ね!」
目を伏せたまま瑠璃奈はそう吐き捨てた。口元は嗤っているが、目元は濡れた前髪で隠れて見えない。
あぁやっぱりかという感情の後ろから嘘であって欲しいという気持ちが沸いてくる。
嘘でもいい。嘘でいいから好きだったと言ってほしかった。まだ、まだだと言ってほしかった。そんな俺の幻想は無惨にも散った。
嗤った顔の瑠璃奈を俺は静かに見下ろした。頬を伝う雫は雨か涙か。今になってはどちらでも良い。
「はは…というかなによ。あんたこそすっかり変わっちゃって…玲奈さんの影響かしら?」
「…」
「なによデレデレしちゃって。…なによ」
尻すぼみに瑠璃奈の声が小さくなっていく。か細く、今にも折れてしまいそうなその声は震えている。
まるで自分で腹を切りながら苦しんでいるようなその姿は俺の瞼に焼きついてしまった。
「なによ…私との時とは大違いじゃない…」
助けを乞うような震えたその声は虚しく雨音にかき消された。再び沈黙が走る。
彼女は今絶望の淵にいる。俺と同じように捨てられた苦しみを味わい、自分がやったことへの罪悪感で今にも押しつぶされてしまいそうになっている。
彼女には支えがない。傷を癒やしてくれる人も、頼りになる人物もいない。誰にも話せないまま、苦しみ続ける。
俺にはどうすることもできなかった。彼女に寄り添うことも、顔を上げてと声をかける資格すらない。
俺は自らがさしていた傘を彼女の手元に置いた。
「…使うかは勝手にしろ」
どうすることもできないまま俺はその場を後にした。
帰り道は雨の激しさが増していって、俺の耳には打ち付ける雨音が残っていた。
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