第25話巡る思い

 降りしきる雨の中、俺は帰宅した。濡れた制服がなんとも言えない不快感を与えてくる。

 先程からうつむいたままの彼女の表情が何度もフラッシュバックしている。俺の選択は、正しかったのか。いくら相手が自分を捨てた人間だとはいえ、まだ自分にはできることがあったのではないのか。迷う心が余計に俺をかき乱す。

 

「湊くん、貴方どこでなにして…」


 ドアを明けた先には玲奈が待ち構えていた。俺が入るや否や詰め寄ってくるが、俺の様子を見てその手は止まった。

 

「…タオル、持ってきてもらえますか?」


「え、えぇ。ちょっと待ってて」


 なにが起きているのか分かっていない様子だったが、玲奈はタオルを取りに洗面所へと向かった。

 先程から脳内を埋め尽くしている問いは絶えることなく続く。

 捨てられた相手だというのに同情してしまうのは自分でも甘いと感じる。普通なら恨みの一つや二つ生まれてもおかしくない。

 だが、俺には不思議とそんな感情は生まれてこなかった。その痛みを知ってしまっているから、という理由以上に相手が彼女であるからという理由が大きい。ようやく立ち直れたかと思ったらこれだ。つくづく自分が惨めに思えてくる。

 運命というのは非情である。いつまでも離れられない彼女と俺。神のいたずらなんだとしたら相当性格が悪い。

 

「湊くん、はい…」


 ありがとうと一言かけて玲奈からタオルを受け取る。俺を見る彼女の目は心配の情で埋め尽くされていた。眉が下がったその表情はいつになく不安そうだ。


「お風呂は沸かしてきたわ…なにがあったの?」


「…猫追いかけてたら道に迷っちゃって。傘も忘れちゃうし…えへへ」


 自分でも思うくらいに不器用な笑顔でなんとか誤魔化す。彼女に悩み事を伝えるわけにはいかない。これは俺の問題だ。過去から離れられない愚かな俺の。

 玲奈からの不安そうな視線が気になったが、今の俺には誤魔化すだけで精一杯だった。





「…」


 静かな風呂場にシャワーの音が響き渡る。温かいシャワーを浴びながら俺はただぼーっとして鏡に映った自分を見つめていた。


 何度もフラッシュバックする瑠璃奈の姿。雨に濡れ、心も既に朽ちかけていたその姿は実に見るに堪えないものだった。

 相手は自分を捨て、その挙げ句に新しい男の元に行ったとんでもないクズだと言うのに俺はどうしても彼女のことが気になって仕方がない。彼女の姿に自分を投射してしまった俺はとても他人事のようには思えなかった。

 ようやく過去から離れられると思っていた矢先の出来事に俺はどうすればいいのか分からなかった。


「…なにしてんだ、俺」


 鏡に映った男の顔はひどく醜い。哀れな後悔と囚われた過去に板挟みになり、今にも押し潰れてしまいそうだった。本当に、本当に醜い。

 シャワーを止めて、浴槽に浸かる。雨で冷え切った体に暖かさが染み渡る。それでも、俺の心は冷水に浸かったように冷たくて、沈んだような感覚が俺を襲う。

 悪いのはあっちだ。自業自得だ。そう言い聞かせても俺の気持ちは晴れない。困っている女を目の前になにもできなかったという事実が俺の頭を締め付けてくる。

 俺は思考を一旦止め、浴槽のお湯を手ですくい、顔にパシャリとかける。今は気持ちをリセットするのが最優先だ。いつまでも後悔していては逆戻りだ。そうなってしまっては支えてくれた玲奈にも申し訳ない。


「…広いな」


 普段は二人で浸かっていることもあってか、浴槽がいつもより広く感じる。本来なら二人で入るものではないのだろうが、俺には既にそれが当然になってしまっていた。

 普段だったら一人で風呂にはいっているとすぐに続いて入ってくるのだが、今回ばかりは玲奈も察してか入ってくる気配は無い。今はそれに感謝するばかりだ。こんな面を彼女に見せてしまっては面目ない。

 ただ不覚にも彼女の存在が恋しいと思ってしまった。いつもあるはずのぬくもりが、愛してると言い抱きついてくる彼女が、どんなに辛くても支えてくれる彼女がどうしても恋しく感じた。

 風呂から上がった時には抱きついてしまうかもしれない。普段なら考えもしないことだが、不意にもそう思ってしまうぐらいには俺は参ってしまっていた。




 風呂から上がり、脱衣所に用意されていた着替えに身を包む。玲奈が置いてくれていたのだろう。ありがたい。

 タオルからはふわりと彼女の香りがした。花のような香りに俺の精神が安らいだ。つくづく俺は姫宮玲奈という存在に助けられていると感じる。

 髪を乾かし、リビングへと向かう。風呂上がりだからか、体が火照っているように暑かった。

 リビングでは不安そうな表情でちょこんとソファに座る玲奈の姿があった。

 俺の顔を見た玲奈が駆け寄ってくる。なんだか足取りがいつもよりふわふわしているような…


「あっ、湊くん…」


「着替え、ありがとうございます。助かりました」


「湊くん、その…?」


 俺の事を思ってかなにか言いたげな様子だったが、玲奈の口の中で言葉にならずに消えた。彼女の視線は俺の顔に止まる。なにかを察したようなその顔はなにかを危惧しているような様子だった。


「湊くん、なんか顔赤くない?」


「え?風呂上がりだからじゃないですか?」


「少しじっとしてて…熱っ!?」


 額に当てられた彼女の手がまるで焼け石に触れたかのように跳ねて離れる。 

 ふわふわと浮遊感を孕んだ視界が次第に歪み始める。ぐわんぐわんと床が揺れ始め、俺は床に膝から崩れ落ちた。


「湊くん!?」


 玲奈が俺の状態を支えてくる。立ち上がろうとしたが、うまく力が入らない。歪んでいた意識が次第に暗闇に飲み込まれ始める。

 何度も呼びかけてくる彼女の胸の中で俺は意識を手放した。

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