第8話友人
「…」
「…どうしたの湊くん?そんないやらしい目で見られるとその…少し困るっていうか…」
休日の昼下がり。相変わらず隣に居座る玲奈の手には俺の視線をどうしても引く物が。
なんで持っているのかという疑問よりもなぜ読んでいるのかという疑問が勝つ。
「そんな目で見てた覚えは無いんですが…一つ、聞いても?」
「何?」
「…それなんですか?」
「これ?ハピネスよ。見たこと無い?」
見たことはある。結婚情報誌だ。だが、問題はそこじゃない。
「…早くないですか?」
いくらなんでも気が早い。お前なんていつでも婿にできるんだぞという新手の脅しだろうか。言葉で表すといささか物騒過ぎる。
顔をしかめた俺を見て何を思ったのか彼女がムスッとした表情で語る。
「早いなんてことは無いわ。こういうのは準備が肝心なのよ。ストーキングと一緒でね」
「たとえが悪いっすねそれ」
「そんなことはいいのよ。いい?結婚というのは一生に一度あるかないかのビッグイベントなの。式場、ウエディングドレス、ウエディングケーキ。すべてにおいて完璧なものを容易しなくちゃいけないわ。他人事じゃないんだから湊くんも少しは関心を持って」
「えぇ…はい」
別に他人事じゃないとは決まったわけじゃないんだが…まぁここで下手にNOを出すのは自殺行為か。
俺の態度に対してか少し怒っているように見える玲奈の姿は妙に可愛げがある。どんな表情をしてても様になるあたりクラスで人気な理由が分かる。俺に加虐癖は無い。
コーヒーを飲み続けていたからか、下腹部に違和感を感じる俺。
トイレに向かおうとする俺の手を底なしの沼のような瞳の彼女が掴んだ。
「湊くん?どこに行くの?」
「トイレです。今逃げても追いつかれるでしょう」
「分かってるならいいのよ」
玲奈の表情が途端に明るくなる。まったく温度差が激しい。こっちもどう接したらいいのかイマイチだ。
とりあえずトイレ…
「ふぃ〜」
ここ最近になってようやくトイレを一人で行かせてもらえるようになった。俺の唯一の安息の地と言ってもいいだろう。いつ何時でも張り巡らせている警戒心でもここでは解く事ができた。
とはいえ、長居は良くない。ああ言ったとはいえ、あまり長いと怪しまれる。
ピンポーン
リビングへと足を向けたところで呼び鈴が鳴った。…客人対応ぐらいは許されるよな?
踵を返し、玄関へと向かう。一体誰だろうか。おおよそ宅配業者だろうが…
「はーい…」
「…え」
扉を開けた先に立っていたのは藤紫色の巻き髪が特徴的な少女だった。金色の瞳はどこか気だるげで、生気をあまり感じない。
光を失った時の玲奈の瞳に似た物を感じる。どこかで見覚えのあるような…ないような。
彼女の手元にはなにかが入った紙袋。どことなく怪しげな雰囲気を漂わせる。宅配業者ではなさそうだ。何一つ目的が分からない。
ただ一つ明確なのが、彼女が俺を不審な目で見ていることだった。
「…あの〜?どちらさまでしょうか…」
「…男…なんで…」
「あの〜?」
どうやら相手は俺に動揺しているらしかった。…ここ俺の家なんだけどな。部屋間違えたのか?
「湊くん?…あ、仁奈」
リビングの方から声がしたかと思うと、すぐそこまで玲奈が来ていた。どうやら俺が帰ってこないのを怪しんで駆けつけたらしい。
それまで戸惑っていた客人が玲奈の姿を見て安堵の表情を見せる。
「玲奈…よかった。男になっちゃったのかと思った」
「そんなわけ無いでしょう。相変わらず天然ね。とりあえず上がって」
「…お邪魔します」
…そんな俺に向かって言わなくてもいいんだけど。
「…」
…なんかすごい見られてる。そんなにおかしいところあったっけ俺…比較的普通な顔してると思ってたんだけどな。
先程の客人はどうやら玲奈の知り合いだったらしく、手招きされてリビングへとやってきていた。
俺を警戒しているのか、異様に俺の顔をまじまじと見つめてくる。なんだか居心地が悪い。
「湊くん、紹介するわ。彼女は如月仁奈。私の友人よ」
「へぇ…友人…」
「…ども」
ペコリとお辞儀をする仁奈。俺もそれに合わせるようにして頭を下げた。どうやら見た感じだとおとなしめな性格らしい。
俺の顔をまじまじと見つめる仁奈。一文字に閉ざしていた口が開かれる。
「…君が湊くん?」
「え、はい」
「なるほど…確かに悪くない顔」
「ふふ、そうでしょうそうでしょう?」
仁奈の反応に自分の事のように喜んでいる玲奈。どういうわけかは分からないが、俺のことを知っているらしい。
「湊くん、捕まっちゃったんだ」
あぁ、なるほど。それも筒抜けと。
「まぁ…はい」
表情の変化に乏しい彼女からは哀れみの様子など一ミリも感じ取れない。本当にただ傍観しているだけの人間だ。
「残念、だね。もう逃げられない」
仁奈のその一言からは抱えきれないほどの説得力と、圧倒的な絶望感が感じられた。きっと彼女は玲奈との付き合いが長いのだろう。会話の節々からもそれが感じられる。
「…仁奈さんもそう思いますか?」
「うん。無理」
僅かな希望に懸けて聞いてみたものの、バッサリと切り捨てられてしまった。その短い言葉の中にどれだけの絶望が含まれているのやら。彼女の瞳の奥深さがそれを表しているようで俺の恐怖心をなぞった。想像もしたくない。
「これからの未来は、湊くん次第。…玲奈は案外寂しがり」
「は、はぁ…」
「少なくとも、機嫌は損ねないで」
仁奈の口から出たその言葉はきっと長い付き合いからの言葉なのだろう。アドバイス、だろうか。いかにも彼女のすべてを知っているかのようなセリフだった。
「あ、そうそう。仁奈、例の頼んでいた物は?」
会話を横で聞いていた玲奈がふと気づいたように声を上げた。仁奈が手にしていた紙袋を差し出す。
「ん、これ。おまけで2個多くしておいた」
「親切にどうも。…これが無いと困るのよ」
そう言った玲奈の言葉にはなにか不気味が響きがあった。紙袋に包まれたその中身はなにか良くない物である気がしてままならない。俺は背を走る悪寒に固唾を飲んだ。
「…それは」
「ふふ、秘密よ。後々に分かるわ」
…どうしてだろう。彼女の国宝と言っても差し支えない程に完成された笑顔がどうしてもひどく歪んだ悪魔の嘲笑に見えて仕方ない。本当は悪魔なんじゃないだろうか。
「…玲奈、本気。難儀だね湊くん」
「…そう思うなら助けてもらっても?」
「嫌だ。…私の四肢が飛ぶ」
俺以上に玲奈を知っている彼女が俺の助けを乞う声など、聞くはずもなく。僅かな希望に懸けた自分が馬鹿馬鹿しい。
「…というか仁奈さんと玲奈はどんな関係で?」
「仁奈とは幼馴染なの。色々と湊くんのことでも手伝ってくれてね」
俺のことも…?つまりはストーカーに肩入れした共犯者…?
「…恨まないで」
「…流石にそれは無理な話でしょう」
「ごめん…本気の玲奈には逆らえない」
「人をそんな化け物扱いされては困るわ。湊くんに勘違いでもされたらどうするのよ」
もう既に遅い気がするのは言うまでもないだろう。この人は純粋なのか天然なのか時折測りかねる。彼女の性格上どちらでもないただの演技、という線も否めないが。
「…なんだか不穏。もう、帰る」
それまでちびちびと飲んでいたオレンジジュースを置いて、仁奈は立ち上がる。この先の危険を感知したのだろう。そこら辺は流石幼馴染といえる。
「あら、もう帰るの?もう少しいてもいいのに」
「やるべきことも、もう終わった。もう十分。十二分」
仁奈はもう少しと止める玲奈に断りを入れて玄関へと向かう。俺を見送りぐらいはしなくては。
立ち上がった俺の手に仁奈の手が刹那、交錯する。
「これ、受け取って」
小声で囁かれたそのセリフは彼女にバレないようにと言った意図も込められていたように思える。手渡せれたのはただの紙切れ。手に取った感触ではそうとしか思えない。
「それじゃ、また」
「えぇ。また」
仁奈はそう短く一言残すと、部屋を出た。
程なくして玄関の開く音が聞こえた。彼女は思ったよりもあっさりとこの場を去ったのだ。
俺の手に残された紙切れ。玲奈の気が他に散っている内にそれに書いてある文字を読み取る。
『でんわばんごう』
マーカーで書かれた文字の横には文字の羅列。現代ならばメールアドレスの方が主流だろうが、これも彼女の気遣いだろう。メールアドレスだとやりとりの履歴が残る。万が一の得策としてなら電話番号の方が良い。
玲奈に加担してしまったことへの罪滅ぼしだと受け取って差し支えないだろう。一つ、脱出への手札が手に入ったことは喜ばしい。…いざというときに、か。
「湊くん?」
「…なにかしら?」
「その手の物、何?」
俺の背に張り付くように俺を抱きしめ、拘束した玲奈が冷たい声色で語りかけてくる。…早くにバレたか。流石鼻がいい。
ここでそう安安と渡せば俺の身はもちろん仁奈の身も危ない。加担したとなれば彼女といえどただじゃすまないだろう。だが、だからといって他に策は…
「それっ」
「あっ…」
やっべ
走る戦慄。引いていく血の気。喉元までせり上がる絶望。飲み込んだ息が鉛のように重い。痺れるような感覚が脳天からつま先まで走る。体の芯から感じる絶望。
これは、万事休すか…っ…
「…」
「…何も書いてないじゃない」
「…ぇ」
何も、書いていない。俺と玲奈が見たのはただの紙切れだった。そう、ただの紙切れ。
「…なにか持ってると思ったら、ただのゴミだったのね。紛らわしいことはしないで」
「…」
なぜ、なぜ何も書いていない…?その紙にはしっかりと文字が書かれていたはず…
玲奈によって投げ捨てられた紙をゴミ箱から拾い上げる。確認してみるも、何も書かれていない。なぜ…
俺が疑問に思ったところで、じんわりと文字が浮かび上がってくる。
「…そういうことか」
消える、マーカーペン。体温によって文字が消えて、浮かび上がる。よくある物だ。
あの人は、つくづく知っている。彼女の嗅覚を。抜かりなさを。執念を。
…全く、頼もしい人が味方についたものだ。
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