第2話ストーカーとお風呂

 朝の突然の一幕から数時間。二つの意味で未だ現実を受け入れられていない俺はリビングのソファで窓の外を眺めていた。

 日は既に沈み、夜の静けさの中で雪がしんしんと積もっている。

 朝の出来事といい、昨日の出来事といい、いくらなんでも急すぎるだろう。人生を二周した気分だ。

 

 今日は今朝同棲相手となった玲奈の監視下で生活していたが、何をするにしても元カノの顔が頭に浮かぶ。俺の心に空いた穴は未だ風穴として存在しているらしい。忘れようとしても忘れられないとは、このことか。

 入学してから彼女に尽くしてきたのだ。そう簡単に忘れるほうがおかしい。それでも、忘れてしまいたかった。

 初めて知った思い。大好きだった彼女の笑顔。二人で作った思い出。

 宝物だと思っていたそのすべてが今は手に余るものでしか無い。できることならすぐにでも捨て去りたかった。

 そして全て忘れて、一人に戻って、隣に座っているこの美女に陶酔できたらどれだけ楽だったか。

 

「湊くん?」


「…ぅえっ?なんですか?」


「…またあの女のことを考えていたの?」


 …少し話を聞かなかっただけでこれだ。少しは一人で感傷に浸らせてくれてもいいのだが、こいつにはそんな気配りは存在していないのだろう。


「あの女は湊くんのことを振ったの。今は友人ですらもない、なんの関係も無い他人なのよ?湊くんが気にする必要も無いし、覚えておく必要も無いの。だから、今は忘れて」


 彼女の言うことも一理ある。今、俺と瑠璃奈は友人どころかただの他人だ。俺が彼女の事を覚えておく必要なんて無いし、むしろ不必要だ。それでも、忘れられないのだ。


「…ストーカーにそんな事言われても」


「…それは一理あるわ。でも、自分のためにも忘れておくべきよ」


「そうかもしれ無いですけど…」


「失恋の痛みが長引くのは分かるわ。私も湊くんとあの女が付き合ったと知った時、どれだけ苦悩したことか…」


「…それはなんかごめんです」


「いいのよ。今はそれも乗り越えてこうして湊くんの隣にいられるのだから…」


「…半ば無理やりですけどね」


 相変わらず玲奈との対話はどこか歯がゆい。調子が狂うというかなんというか、相手のペースが出来上がりすぎている。この人にはいくら話しても勝てない気がする。

 悩んでばかりいても何も進まない。とりあえず、お風呂にでも入って気分を晴らすとしよう。


「湊くん」


「…なんですか?」


「お風呂なら沸いてるから入っていいわよ」


 …読まれてたか。





 この季節になると暖かさが身に染みる。それは物理的なものでも、精神的なものでも変わらない。

 冷えた体をシャワーで温める。体温が上がっていく反面、心は変わらず冷たい。空いた穴は簡単には塞がってくれないらしい。


『私達、別れよう』


「…」


 昨日のあの瞬間がフラッシュバックする。

 何が原因だったのだろうか。容姿?性格?態度?ファッション?原因が何だったにしろ俺は全部に全力を尽くしてきた。彼女のために、彼女のために、と。それなのに、結果がこれだ。現実は無情である。

 …あぁダメだ。もう終わったことだろう…今更追求したところでどうする俺。切り替えろ。


「湊くん」


「…へ?」


「背中、流すわよ」


 固まった俺の目の前に現れたのは一枚のタオルを巻いた玲奈だった。脇下から巻いたそれはかなり短く、少しずれれば下のほうのそれが見えてしまいそうだった。

 …鍵かけてたよな?しかも脱衣所の扉と風呂場の扉に二重にかけてたはずなんだが。底が知れないなこの女は…


「ちょいちょいちょい、俺タオル巻いてないんすけど!」


「それは私もタオルを取れということかしら?」


 …もはやツッコミすら不要な気がしてきた。なんなんだこの無敵の人間は。誰がこうしたんだよ。…いや俺か。


「自分でやるからいいですって!外出てて下さいよ!見えちゃう、見えちゃうから!」


「ダメよ。夫を癒やすのも妻の役目なの。それに、今日は同棲生活を始めたばかり。距離があるのは否めないわ。ここで心身ともに距離を縮めるとしましょう」


「…ストーカー相手に距離を縮めるのも変な話なのでは?」


「何少しうまい事言ってるのよ。いいから座って」


「…上半身だけですからね。洗ったら出てくださいよ」


 なんなんだか…今更だが任せていいのか。いや、ダメだな。…でももう遅いか。

 

「それじゃ、いくわよ」


 玲奈の手に握られたボディタオルが背中に押し付けられる。優しく、ゆっくりと上下に動き始める。

 風呂場に布と皮膚が擦れる音だけが響く。程よい力加減で行われるその動作は心地が良い。人に体を洗ってもらうことなど幼少期以来の体験だ。これほど心地よいものだとは…

 

「どう?痛くない?」


「大丈夫っす。…うまいっすね洗うの」


「当たり前よ。この時が来るのを想定して毎日練習していたのだから」


 …深くは言及しないほうがいいらしい。俺の本能がそう言っている。

 気持ちよさにほわほわしていると背中が終わったのか、玲奈の手が前に回ってくる。胸部から洗い始めるのと同時に、背中に押し当てられる柔らかな感覚。それが何なのかは振り向かなくても分かった。


「…あの」


「…」


「…玲奈さん」


「…」


「…玲奈」


「何?」


「一応言わせてもらうんですけど…当たってます」


「当ててるのよ。…言わせないで」


 なんでそれは少し恥ずかしそうなんだよ。そこに羞恥心あるなら踏みとどまる理性ぐらいあるだろ。


「…」


「…」


 何この言っては行けない事言ったみたいな空気は。何?俺が悪いの?俺のせいなの?…俺のせいか。

 

「…」スッ


「玲奈」


「…何かしら?」


「下は、なしです」


 さり気なく下の方に回ってきた玲奈の手を掴んで止める。このまま洗われると色々まずい。世間的にも、モラル的にも。

 

「掴むなんて、強引なのね…」


「いいからその手を止めてください。上半身だけって言ったじゃないですか」


「しょうがないわね…それじゃ、私も体を洗ってから入るとしようかしら…」


「…え?玲奈も入るの?」


「当然でしょう?夫婦なんだから二人でお風呂に入るのは当たり前よ。湊くんも早く体を洗って。そのボディタオル使うから」


 結構えげつない事を言ってる自覚がこの人にはあるのだろうか。いや、無いだろう。平然と一切のゆらぎを

見せずに俺のボディタオルが渡されるのを待っている。これは意地でも動かないつもりなのだろう。…とりあえず落ち着いて体を洗うとしよう。


「…とりあえず洗うんで腰に巻く用のタオル持ってきてもらってもいいですか」


「それならあるわ。はい」


 …あったんなら最初から渡してくれ。





「…」


「いい湯ね…」


 浴槽に浸かった俺の膝の上に玲奈が座っている。密着していないだけ不幸中の幸いと言うべきだろうか。

 相手が今日知りあったばかりの相手でも興奮してしまうものは興奮してしまう。正直理性が持つかどうかは怪しい。


「湊くんとお風呂に入れるなんて…私の努力は無駄じゃなかったのね」


「…なんの努力ですか」


「毎日湊くんを欠かさず観察する努力よ。湊くんの妻に相応しい女になるために毎日学校でも家でもどこでも湊くんの事を見ていたの」


「こっわ…」


 流石ストーカー。俺の行動は何から何まで筒抜けらしい。今まで気づかなかったのが不思議なぐらいだが、きっと彼女なりにバレない努力をしていたのだろう。実際に彼女の姿は学校以外で見たことはない。

 とはいえ本当に俺のことを熟知しているのか気になる。少し試してみるとしよう。


「ちなみにですけど、俺のお気に入りのパン屋は?」


「駅前にあるベーカリーなかもと。お気に入りのメニューはツナパンでしょ?いつも買うのはメロンパン、ツナパン。たまに気分でコーンパンかくるみパンを買ってるわ。あと新作はいつも一個は買うけど、大体のものは次から買わないのよね」


 …思ったより知ってるじゃん。というか知りすぎてるだろ。なんでいつものメニューまで知ってる。やばい相手なのは分かってたけど、予想以上だな…

 

「ちなみに好きな女性のタイプは可愛くて元気なタイプが一番好みだけど、普通にどんな女性でも自分を好いてくれていたら誰でもいい。理想の体型はバストが7「ストップストップ!まじでストップ!」…?」


 …危ない。俺の尊厳が傷つけられるところだった。なんでそんな不思議そうな顔ができる。


「どうしたのよ?なにか間違えたところでも?」


「いや、間違えてるどころか一言一句ぴったりですけど…やめましょう。これ以上は」


「湊くんがそう言うなら仕方ないわね。とりあえず、疲れを癒やすとしましょうか」


 …あんたのせいで気で疲れどころか体が休まらないよ。

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