第38話 揺れる精神世界
闇に紛れてしまうほどの漆黒の槍。それを操るのは、認識の隙を貫く術技。
右かと思えば左、今と思えばその半秒後に訪れる、虚実入り乱れた槍の嵐。
かつて何度敗れたかもわからない天敵を前に、アルルカは防戦を強いられていた。
問題は、単純な力量の差だけではない。アルルカはそもそも、明らかに積極性に欠けていた。剣と槍の織り成す仕合いの中、隙らしき瞬間を目の前にしても、前進の一歩を躊躇してしまう。
「くふふ。どうした。逃げることしか出来ないか。それも道理だな!」
向けられる哄笑に唇を噛みながら、頬を掠っていく槍の穂先を剣で払い落とす。
流れに持っていかれて、束の間魔神が態勢を崩した。それは罠か? それともここで打ち込めば勝てるのか? その逡巡の間に槍はふっと実体を消し去り、身軽になった魔神は、前傾の勢いを使って掌底を繰り出してきた。顎の下に直撃し、目の前が薄く白む。
「アルルカ!」
背後遠くで見守っている神から浄化の魔法が届き、意識が即座に回復。眼前に迫っていた槍を身を捻ってかわす。
「何をどう言い繕ったとしても、かつてお主が吾に一度も及ばなかった事実は揺るがない。それに加えて、ああ、いまのお主にはいったいどれだけのスキルがあろうや? 火炎無効は? 邪悪耐性は? そもそもその貧弱な魔力量では、不死身もそう長く持つまいな? ともすれば、一撃良いのが当たればそれで終わりやもしれん。くくく、怖かろう。その恐怖だけが、お主が生きている証明だ」
黒い閃光を散らす衝突から一歩身を引いて、はあっ、と息をまとめて吐き出した。
アルルカがところどころに負った手傷を癒しながら、神がそっと語り掛ける。
「アルルカ、耳を貸してはなりません。これはあなたの心の中を乱すための言葉に過ぎないのです」
「心配ない。ちょっとまだ心の準備ができてないだけだ。ワタシはもう、こんな魔神よりも、よっぽど化け物じみた男を知ってるんだぞ」
魔神はそれに否定の意を返すことなく、ただ小さく喉を鳴らした。
「ああ。それは否定するまいよ。なにしろ
「あるさ。昔のワタシにとって、キミは世界の頂点だった。いまはもう、そうじゃないことを知ってるってことだ。それに、あのベルガトリオにすら、できないことはあるらしい。だからキミへの勝ちの目も……きっと、ないわけじゃないよ」
「くく、青臭い希望論だな。では、もう少し緊迫させてやろうか。つまりこうだ。先ほどあの愚神の憂いた通りの、時間制限だよ。──
何の躊躇もなく、魔神は己の小指を引きちぎると、溢れ出た血に禁忌の魔法をかける。滴る血液はごぽごぽと泡立ち、泡の爆ぜたあとに現れた深紅の獣たちが、魔神の周りを取り囲んでいく。
同時に、ぎちぎちと、どこからか軋みの音。それがこの洞窟そのもの、もしくは、それ以上大きな場所で起こっている悲鳴であることまでを推測してから、アルルカは目の前の敵に視線を戻した。
「ていうか、それ、キミの魔法じゃないだろ! ワタシの魔法! 不本意ながら!」
「いまは吾の魔法だ。そら、地獄の蓋が開いた。理を侵食し、世界を凌辱する魔法を前に、お主の精神世界はいったいどの程度もつのだろうな?」
きっと、限界がいつかを考えている時間も惜しいくらいだ。
アルルカはそれを考える代わりに、隣に話を振った。
「神様。本当にこれ、どうにもできないの?」
「……できませんよ。いまのあなたには」
「意地が悪いな。教えてやればいいじゃないか。実際のところ、外理浸食には、そのカウンターとなる概念が存在する」
「は!?」
思わぬ方向から飛んできた答えに、すっとんきょうな声が漏れる。
魔神はいつも通り、諭すように続けた。
「
「これ以上なく解決策じゃないか。なんだよ、ベルガトリオもエノクも、まるでないみたいな感じだったのに」
「ないに、等しいのです。新たな理を創り出すのは、理を書き換える万倍難しい」
「万倍って……」
「比喩ではありません。最大限の希望的観測で、万倍です」
押し黙るしかなかった。アルルカは当然として、神や魔神。エノクにベルガトリオ。それは、この世に存在する誰だとしても、想像もしえない場所だろう。
「世界新説の獲得に必要な条件は、肉体と精神という外装を有する魂が、その存在規格のまま、一つの理を持つに至ること。迂闊にそれを再現しようとすればどうなるかは、すでに、ご存知ですね」
「それは……ううん……」
自我が弾け飛ぶ感覚を思い出してしまい、アルルカの額に冷や汗が浮いてくる。
「無理でしょう?」
「無理に屈するのなら、所詮はその程度。この場で出来ねばどの道死ぬぞ。さあ、選択せよ。挑まずに死ぬのか。挑んで死ぬのか。或いは吾に勝るのか。吾は、そのどれもを肯定しよう」
「──挑むさ。ワタシは、こんなところで死んでいられないんだ」
「ならば、力を示せ」
血の怪物たちを伴って、魔神が槍を手に駆ける。
アルルカはその先頭のゲル状の生物に触れ、吸血を発動した。いくつかの怪物が連なってアルルカの口元に吸い込まれ、魔力に変換されていく。
しかし魔神の槍が横薙ぎにその連鎖を断ち、衝撃でアルルカの身体まで吹き飛ばされた。口元に残った血をぬぐいながら、アルルカは構えを取り直す。
「……フ、クハハ! そうか、そうか。化け物は化け物でも、所詮は血の化け物か。これは一本取られたな。だが……魔法の産物に対処したところで、元の魔法に対処できねば何の意味もないぞ」
「うえ……、なんだ、この血……超マズイ」
正確には、不味いというのは少し違う。妙にすっぱくて粘り気があった。魔力に変換されたあともその感覚は変わらない。アルルカの身体の中でうまく熱になりきれず、ねっとりと胸の奥をさまよっているような気配がある。
「では、こうしよう」
魔神が指を鳴らす。すると、ぞぞ、と怪物たちがひとつの流れとして溶け合いながら、魔神の持つ槍の周りを渦巻く奔流に姿を変えた。
「なんだよ、それ」
「我らが王の真似事だ。彼は『束ねる』事が得意でな。一度は彼の力で彼や他の龍らと合一となった我が身ならば、多少はその片鱗を振るえるらしい。……能書きはさておき、これで吸血は通らない。そのまま頭蓋をかち割られる覚悟なら別だがな」
「いいえ、アルルカ。あの槍は絶対に避けてください。命の因果を書き換える魔法で傷を負わされたとき、どうなるのかはまだ未知数ですが……おそらく、ロクなことになりませんよ」
「はぁ!? 簡単に言ってくれるなよ!」
「くくく、試してみればいいじゃないか。案外、生者には効果がないというオチかもしれないぞ?」
「その余裕からして違うんだろ、ちくしょう!」
繰り出される連撃をいなそうと、その穂先にアルルカが剣を合わせたとき、赤黒い閃光が彼我の間に迸った。そればかりか、おどろおどろしい魔力はアルルカの剣を包み込み、ぴしりとひびを入れる。
「ああっ、剣でも駄目なの!?」
「……いや。駄目は駄目だったらしいが、これは……」
魔神の怪訝な声をかき消して、熱を感じるほどの光が、辺り一面を眩く照らす。
真っ白な視界の中、アルルカの舌は脳裏に浮かんできた言葉を、うわごとのように呟いていた。
「
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