第36話 「世界の守護者」
眼前で振り下ろされる、エノクの砂時計。
反射的に飛び退こうとしたアルルカを、時計から放たれた蒼黒の光が飲み込んだ。
……やがて、瞼を焼く光が和らいだのを感じて、目を開く。
すると、そこは……どこまでも続く、灰色の水平線だった。
あるのはどこまでも正確に一直線な平面と、その上に立つエノクとアルルカ。二人の靴の上まで届かない程度の深さの水。殺風景で、不吉ですらある。なのに同時に、アルルカは、どこか郷愁の念に駆られてもいた。
「此処も、随分汚れて仕舞ったね」
エノクは制服に前掛けの見慣れた司書姿から、黒白のドレスに装いを変えていた。
長短の二槍を両手に携えて、静かにアルルカの様子を見ている。
「……ここは?」
「母なる海。原風景。世界の根源。呼び名は
「ま、待ってよ。
「然うか。良い事だ。然し、此処で其方を見逃す理由には不足して居る。何時か全てを破壊するやも知れぬ爆弾の前で、其の火を消しただけで安息足り得るか?」
「それは……」
「アルルカ。其方には確かに分別が在り、良心が在る。恐らく、神聖属性精霊として生まれただけでは無いだろうね。きっと其方の魂は純真なのだ。──では、斯う思った事は? 自分一人の犠牲で世界の滅亡が少し先送りされるのなら、其れに殉ずるのも正義では?」
「……あるよ。あった。でも、それにはもう、答えをもらった」
アルルカは腰の剣を抜き、切っ先をエノクに向ける。
あの日、チセに差し出された手のあたたかさを思い出しながら。
「いまのワタシには夢があり、帰る場所がある。こんなところで勝手に死ねない」
「……では、対話の形式を変えようか」
踏み出されたエノクのヒールが、かつん、と一歩を刻むと、そこで右方向に駆け出したエノクと、左方向へ駆け出したエノク。『時間の分岐』によって、選択肢の結果が同時にこの世に現れる。次の一歩でさらに分岐。四人になったエノク、八振りの槍が、一斉にアルルカに襲い掛かってくる。
その上、エノク当人の技量が単純に高い。何のスキルでも魔法でもない、ただ極められた武の極致が、神速の歩法で距離を詰め、適切な優位の間合いから、寸分の狂いもない槍撃を繰り出してくる。
防ごうとしたところで、ひとつすら防げるはずがなかった。迎撃なんてもってのほか。アルルカは可能な限りダメージを軽減することを念頭に、全力で回避を試みる。
アルルカの頭、喉、心臓、腹部。的確に分担して急所を狙った四つの長槍のうち、喉を狙ったものは躱した。頭と心臓は、それぞれ頬と腕を抉るにとどめた。
しかし、四つめの攻撃は避けきれず、腹部に直撃。悲鳴を上げるよりも先に痛覚が焼き切れ、無理やり身を引き抜いて追撃を拒絶する。即死ではないならどうとでもなる。魔力を腹部に集めて……。
「……治らない……?」
手のひらで抑えた穴からは、ぼたぼたと血が流れるばかりで、一向に塞がる気配がない。沸き起こる焦りと同じだけ、身体からすうっと熱が消えていく。四肢の力が薄れ、アルルカの身体は赤みを溶いていく水面にべちゃりと倒れ伏した。
「此方は死神だぞ。其方の根本的な不滅性は兎も角、身体の不死は、此方の前では意味を為さない。……諦めるのなら、其れ以上苦しまずに済む」
すぐ頭上から降ってくる声。倒れ伏したまま動けないのだから、もはや形勢の有利不利を問うまでもない。エノクがその気になれば、今度こそアルルカの頭はかち割られるだろう。
「……苦しめるのは、意思力を削ぎ、封印の抵抗を緩和するため?」
「余り意地の悪い事は口にしたくは無かったが、そうだよ」
「なら、諦めない限り負けじゃないってことだ」
「然うかも知れぬ。しかし、負け無い事では状況は変わらない。此処には誰の助けも届かないのだから。其れとも、今此の場から、其方が勝てる未来が有るとでも?」
そう吐き捨てつつ、ひとりのエノクが、アルルカの両足に向けて槍を振り下ろす。
先ほどのような神速の突きではなく、じわじわと重みをかけ、肉を徐々に食い破っていくような。苦しめるためだけの攻撃だった。悲鳴を上げて、涙を流しながら、それでも思考は止めない。何かある。何もないなら終わってしまう。そして、苦悶にあえぐ口元に入ってきた海水と血の混ざりものが舌先に触れ、ふと気がつく。
「……。ここの水、には。魔力が通ってる」
「それで?」
「全ての精霊の生まれた場所、ということは……ここは、この星の『内側』だ。ワタシたちは、最初はただの概念に過ぎないのだから」
「…………成程。理解した」
「だから、これは星の『血液』だ」
振り下ろした槍が頭蓋を砕くより先に、アルルカの吸血が発動する。
魔法やスキルの対象は、使用者本人の認識に強く依存している。ある程度の根拠さえあれば、拡大解釈は可能だ。
発動、してしまった。
莫大な魔力の渦。莫大すぎる魔力の奔流。理ひとつぶんの質量が、アルルカの内側に流れ込んでくる。身が張り裂けんばかりの超過量の魔力に、アルルカは枯れた地平線の上を激しくのたうち回る。
「……理一つを、一つの魂に収めよう等と云うのは、浅慮だったね。幾ら理を書き換える外理浸食使いでも、理、其の物には成れ無い。入れ物に対して入れた物が多いのなら、其の果ては決まって居る。決壊。或いは」
ぱちん、と、これまでアルルカを繋ぎとめていた何かが外れる音がした。
……破裂。
耐えきれなかったアルルカの魂は拡散し、身体だけが力なくその場に転がった。
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