第34話 とても簡単なこと

「走らない!」

「アルルカさん!」

「髪をまとめる! タオルを浸けない!」

「アルルカさん!?」

「かけ湯をしてから入りなさい!」

「アルルカさーん!!」


 三度、流水を受けて吹き飛ばされたアルルカにマリーが声を上げる。

 水を滴らせながら立ち上がったアルルカは、湯船の前まで戻って、じとっと浴槽の中を見つめた。

 そこには腕を組みまなじりを吊り上げてアルルカの一挙一動を観測する清水精霊ウンディーネと、ついでに一足先に湯に浸かっているチセがいた。


「あの、キミ。どうしてワタシたちを放って先に入っているのか」

「身体が冷えそうだったから」

「ワタシも同じだよ!」

「じゃあ入りなさい。多分もう引っかかるところもないわよ」


 傍らにあった手桶でかけ湯をして、ウンディーネの様子を窺いつつ、おそるおそる水面に足をつける。そしてようやく、アルルカは肩まで湯に浸かり、ほうと息を吐いた。

 確かに、これはいい。身体の芯までじんわりと熱が広がっていく。

 ふと思い出し右手のにおいを確かめると、いつの間にかあの獣臭さは消えていた。

 清水精霊の生み出す水には浄化魔法もかくやという清浄作用があることは知っていたが、ここまでとは思わなかった。

 ちらりと風呂の中央に視線を向けると、ウンディーネはどこか満足そうにお湯の中で手足を伸ばしている。


「……で? ウンディーネ。キミはいったいどうしてこんなことをしてたんだ」

「ソルテラですわ。あなたがたは?」

「アルルカ。冒険者をしている。こっちはチセとマリー。ワタシの仲間だ」

「そう。冒険者。冒険者も、ずいぶん可愛らしいかたが多くなりましたのね」

「なんだその言い草は」

「失礼。私は長く人里を離れておりましたの。ざっと三百年ほどになるでしょうか」

「さ、三百年ですか?」

「精霊ですもの」

「精霊にしても長生きだよ。身体の寿命はなくとも、精神の寿命があるだろ」


 精霊の細胞分裂速度は人間のようには劣化しないので、老いるということがない。

 しかし、心は別だ。日々を生き、さまざまな情報に触れていく過程で、心は少しずつ病んでいく。そしてついに精神が破綻した精霊は、自然に還っていってしまったり、悪質に変異して人間に倒されたりする。それが、精霊の寿命だ。


「そうね。ほかにはエノクさんくらいしか知らないわ」

「あの司書様、まだ生きてますのね。……私たちのように変わらない精霊ものもありますが。三百年で、人の世は何もかも変わってしまいます。昔は、冒険者といえば、もっと屈強な方々ばかりでしたし。お風呂の作法も、誰しも当然にこなしておりましたのよ」


 そういう話か。アルルカは非難の視線を向ける。


「だからって武力制圧はよくないだろ、武力制圧は」

「悪し様に仰らないでくださいまし。先ほどまでのあなたのように、少し指導しただけですわ」

「いや、アレはほぼ武力制圧だよ。そもそも、お風呂で水流を生み出すのは、マナー的にどうなんだ?」

「私は清水精霊。水の化身。すなわち、水の代弁者。水場では私がことわりです」

「えぇ……」


 得意げに胸を張るソルテラに待ったをかけたのは、マリーだった。


「しかし、ソルテラ様。ソルテラ様も、正しくお風呂に入っていただきたいだけなのですよね? このように、ソルテラ様が恐れられて人が寄り付かなくなってしまうのは、こちらのお風呂も、望んではいらっしゃらないのではないでしょうか」

「……ええ。そうですわね。私も、ここまでになるとは思いませんでしたのよ。久しく触れていないうちに、人間の軟弱さを少し甘く見ていました」


 そこでソルテラは、わずかに憂いを帯びた表情で、水面に視線を落とす。


「それに、私のことを知っている方がいれば……いえ。何でもありませんわ。時の流れは、残酷ですわね」

「うん?」

「なんでもありませんわ。ねえ、ところで。マリーだったかしら。あなた、最初の服装からして、シスターでしょう。宗派は存じませんが」

「はい。聖石教の者です」


 ソルテラは少しだけその単語を脳内の記憶にあたる素振りを見せたが、すぐに諦めたらしい。


「祈っていただけませんか。やり方はお任せしますから。それで……おそらく、鎮まるはずですわ」

「こ、この格好で、ですか?」

「あら、生命として純粋な形じゃありませんの。恥ずかしがることなどありません。鎮魂ですとか、葬送ですとか……そういう類いの祈りを、是非」

「ソルテラ様。もしや……」

「祈りを。お願いいたしますわ」


 有無を言わさぬ力強い口調に、マリーは屈するのではなく、憐れむような視線を返した。やがてそっと胸の前で手を固く組み合わせ、マリーは穏やかな声で奏上する。


「──。子らはみな、いずれ石の永劫に抱かれ、無辺の安らぎを得るだろう。すべての苦しみから解き放たれ、もはや何者にも侵されることはない。安息あれ。安息あれ。安息あれ。永劫の世界にて、子らは再び巡り会おう。故に、いまはただ。その魂に、安息あれ」


 マリーが伏せていた眼を開けると、ソルテラの身体がどろどろと溶けていく。

 いや、溶けているのではなく、水に変わっているのだ。


「……三百年、生きてたわけじゃなかったんだね。キミはとっくに自然に……水に還ってしまっている。それが、何かのはずみで、精霊に戻りかけただけなのか」

「そのようですわね。……そう、そのはずみの件ですが。心当たりがありますの。でも、それを説明するには、少々時間が足りませんわね」

「なんだそれは。そのくらい踏みとどまってよ」

「司書エノクに訊ねなさい。事の次第を話せば、あの方は察してくれるはず。……それでは、さようなら。周りの方々には、申し訳ないとお伝えくださるかしら」

「……わかった。じゃあね。ソルテラ」

「安らかに、お眠りください。ソルテラ様」


 ぱしゃん、と小さな水の冠を残して、ソルテラの身体は水に紛れて見えなくなった。


「……あなたたちも、気を付けて──」


 その声を最後に、ソルテラが存在していたことを示すものは何もなくなる。

 アルルカたちはたっぷりと身体を暖めてから、風呂を上がった。

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