第23話 「時」

 エノクを見送ってから一呼吸おいたところで、チセがアルルカに話しかける。


「アルルカ。エノクさんのこと、怖がりすぎじゃない? 確かに独特な雰囲気のかたではあるけど」

「何でもない。たぶん気のせい、うん、気のせいだ。お茶もクッキーも美味しいし」


 アルルカはクッキーと一緒に、不安やら恐怖やら畏敬やらをまとめて嚥下した。


「んぐっ!? ゲホッゴホッ!」


 しかし大きすぎたのか、激しくむせる。


「何なの……?」

「え、ええと、アルルカさん。大丈夫なのですか? そう無理をされずともいいのですよ。苦手な人というのは、どうしてもいるものですから。難しければ、わたくしからお断りいたしましょうか?」

「いや、いい……ワタシはっ、ワタシは高貴にゃるっ……」


 噛んだ。また。


「重症ね」


 チセは額に手を当てて、椅子の背もたれに重みを預ける。


「あっ、そうだ。チセさん。エノクさんとはどういった経緯でお知り合いになられたのですか?」

「普通に図書館を利用しに来たときに知り合ったけど……」

「そ、そうでしたか。何かこう、心温まるエピソードなどは。優しいとおっしゃっていましたよね、どうしてどう思われたんですか?」

「え……物腰とか、優しいじゃない? それになんというか、あの落ち着いた声を聞いていると安心するというか」

「そうですけどぉ……アルルカさんの不安を和らげられるような……」


 すっかり空回ってしまったマリーの気遣いにようやく気がついたチセは、何かないかと眉間に手を当てて考えてみる。やがてチセは、渋い顔をしたまま口を開いた。


「…………アルルカ、ほら、エイクさん……白髪はくはつ仲間じゃない」

「だから何だよ……」


 だから何だよだった。

 やたら乾く唇を潤していたアルルカが、二人よりもだいぶ早く紅茶を干してしまったところで、エノクが三冊の本を手に戻ってくる。


「お待たせ。幾つか本を見繕って来た。此れが其方の知識に成れば良いが」

「あ、ありがとう」

「何、務めを全うしたまで


 アルルカは両手を本の横幅くらいに開いて受け取る態勢を示したが、エノクはそれを素通りして、円卓の傍で空いていた四つ目の椅子を引き、深く腰掛ける。


「然らば、此方に」


 そして軽く自分の膝を叩いてアルルカに視線を送ってきた。


「……へ?」

「此方の膝の上へ。ヒトの母子おやこは度々、此の様にして本を読み聞かせて居る」

「いや……その……うぅ、よろしく頼む……」


 何か言うのにもいちいち緊迫してしまい、アルルカは流されるままエノクの膝の上に腰を下ろした。エノクは気味が悪いほど体臭が薄く、服に染み付いた古い紙の匂い、紅茶の香り、そして髪から香るジャスミンの匂いだけが、別々に伝わってきた。

 と、突然エノクの腕が動き、アルルカの首元まで伸びてくる。

 わかりやすく肩を震わせたアルルカの耳先で、エノクの唇が動く。


「脈拍が乱れて居る様だ。呼吸を深く。心を落ち着け給え」


 とん、とん、とエノクの指先が、きっかり二秒間に三回のペースで、アルルカの首の根本を叩いていく。アルルカの鼓動はそれに引き寄せられるように急速に速度を落としていき、やがて殊更に意識することもなくなった。


「時は、誰にでも平等だ。逸る事は無い」

「っ、キミ、やっぱり……」


 思わずアルルカが振り返ると、首の動きに従ってなびいた横髪がエノクの顔を打った。二人の様子を見守っていたチセとマリーがぎょっと目を剥く。


「あ、ごめん……」

「支障無い。然し、其の知識は、其方の胸の内に留めて置いてれ給え」


 撫でつけるようにしてアルルカの髪を正し、エノクは机上の本を順番に指さした。


「……さて、此方の本は王国司法。此方の二冊は一般世俗について。後の不足は、此方の知識で補おう。……嗚呼、失念していたね。期限は何時迄だ?」

「一週間のうちに合格しろ、という話だったな」

「十分だ。一冊に一日として、三日も有れば無理なく済む。ゆっくりと進めよう。司法と世俗では、何方を知りたい?」

「世の中のことかな」

「為らば、其方から始めよう。『序章、王国の成り立ちについて』」


 アルルカの前で開いた本をめくろうとする手を、そっと押さえる。


「言いそびれたけど、音読しなくていいよ。自分で読めるから」

「……ふむ? 勤勉だね。では、斯うして居る意味も無いか」

「そうでもない。この格好ならあまり怖くないからね。所詮高貴なるワタシにかしずく椅子だと思えば!」

「おやおや。其の様な事を云われたのは、初めてだ。不明な点が有れば、此の椅子めに何時でも訊ねておくれ」

「うん、ありがとう」


 本のページをめくり始めたアルルカに視線をやりながら、チセはそっと訊ねた。


「あの、エノクさん、いいんですか?」

「構わない。アルルカは此方に任せて、其方も少々羽を伸ばして来ては如何かな」

「しかし、私は……」

「悪く思わぬ相手といえ、四六時中付き従うのは気苦労に為るだろう。仮に協会の人間に見咎められたなら、此方の名前を出せば良い。最も、彼方あなたの連中は、此の様な場所を訪れるいとまも無いだろうがね」

「……そうですね。じゃあ、お言葉に甘えて。マリーはどうする?」

「え、えっと。折角このような場所に来たのですから、何か本でも読みたい気持ちはあるのですが。アルルカさん、大丈夫ですか?」

「ああ、心配いらない。それなりに長くかかりそうだし、ここで待たせているほうが申し訳ないよ」

「然らば、司書を連れて行くと良い」


 エノクは再び握った手を机に振り下ろす。カツン、と硬質な音とともにやはり砂時計が現れ、それと同時、エノクとアルルカの傍らに、もうひとりのエノクが現れた。

 砂時計から現れたほうのエノクはマリーとチセに付き従って部屋を出ていき、部屋にはアルルカとエノクだけが残される。


「……あれってやっぱり、キミの権能?」

「種族スキル、と言うべきだね。権能ではまるで神の力だ」

「似たようなものだろ、『時間の分岐』なんて……」

「今、此方の血を啜れば同じ事が出来る様に成る力も、度合いでは然う変わるまい。……然し、其の貧弱な魔力量から察するに、其方は吸血を好まぬと見える。何故か訊ねても?」

「血を吸っていくと、次第に理性が薄れていくから。化け物にはならないって、約束したんだ。変かな、やっぱり」

「否。『血』の精霊である其方とて、『血』其れ自体では無かろうよ。誰しも精霊は、概念から析出せきしゅつする際に、幾らかの不純物を含む。其れがヒトでいう個性に生る。其方は良き心に恵まれた様で、微笑ましく思うよ」

「ん……」


 アルルカは照れ隠しに、顔を少し下げて手元の文字を追った。


「……最も、其方の場合、余りに珍しい不純物を含んでいるのが気に掛かるが。アルルカ、生まれは何処だ?」

「パテル神穴だけど」

「南西極地のダンジョンで在ったかな。後程、詳しく調べておこう」

「……何かわかるのか?」

「さて。調べる迄は、判るのかも判らぬ。其方は先ず試験を済ませる事だ」

「まあ、そうだね。ようし、三日間頑張ろう!」

「其の意気だ」


 エノクに見守られながら、アルルカは読書を進めた……。

 

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