第16話 最強災厄の吸血精霊

「アルルカ……?」


 朦朧とする視界の中、チセは白い髪が自分の横をすり抜けていくのを見た。

 人影……というより、魔力の塊。いままで出会ったどんな魔法使いでも、ここまで濃い魔力を有する者は。いや、たとえいままで出会ったすべての魔法使いを総計したとしても、ここまでの魔力量にはならないだろう。魔力がその足跡からゆらりと揮発していくほどに満ち溢れた魔力など、聞いた覚えもない。

 ソレはチセの言葉には振り返ることなく、ぼそぼそと口元だけで呟く。


「……黙したまま、この場を去れ。ワタシの認識に踏み入るな。少しばかりたがが外れれば、吾の牙は、オマエたちのその鮮やかな血潮を、残らず吸い付くしてしまうだろうよ」


 マリーもまた、戦慄を禁じ得なかった。

 言葉そのものが纏う、強烈な神聖の気。それはさながら神からの託宣であり、聖職者であるマリーにはことさら強い強制力を持って、心の奥へと響いていく。言葉通り逃げること以外には、身動きひとつ許されない。


 そして、アルルカはもはや二人に気を向けることはなく、ゆったりとした足取りで腐竜の眼前へと迫っていく。


「吾の相手は、貴様だ。貴様のせいで、吾は昔に逆戻りだ。横暴の対価は支払ってもらうぞ、腐り蜥蜴が」


 みしり、と空気が軋む。錯覚ではない。

 敵手を睨みつけるその一動作が、重圧の魔法として機能しているのだった。

 重力が何倍にもなったかのような圧力。畏怖。瞬く間に恐慌に駆られた竜は、遮二無二構わず瘴気を放出しながら、眼前の『何か』に噛みつきにかかった。

 巨体の繰り出す渾身の一撃を、アルルカは軽くその鼻先を指先で押さえて停止させる。が、同時、瘴気に触れた肌はじわりと溶け落ち、露わになった肉がぶくぶくと煮立っていた。


「……よりにもよって、瘴気耐性を取りこぼしたか。面倒な」


 吸血は、必ずしも飲んだ血の持ち主が有するすべてのスキルを得られるわけではない。獲得できるかできないかは、各スキルに対して半々くらいの確率だ。

 だから『アルルカ・ドルスの血』を吸血したいまのアルルカは、全盛期のアルルカの半分程度のスキルを持っている計算になる。

 それでも百や二百では利かないはずだが──その中に、かつて持っていたはずの【完全瘴気耐性】は含まれていないらしい。

 アレがあれば、腐竜の攻撃はほぼすべて無効化できたのだが。


「まあ、無い物を願っても致し方なし……そもそも、再生の手間があるだけの話だ。面倒だが、面倒以上の何かでもないな」


 言葉通り、アルルカの肌肉は腐り落ちる側から回復していく。その余裕の表情には、ダメージを受けていることなど欠片も思わせない。


「次は、こちらの番で良かろう? 人体神秘ネクロコスモス血槍ピルグリム


 アルルカが腐竜の鼻先を押さえつけたまま、魔法を発動させる。

 瞬間、竜の頭蓋から尻尾の先に至るまで、その総身から赤黒いとげが鱗を突き破って生えてきた。次いで魔法操作の解除と共に棘はただの血に戻り、竜の全身にくまなく空いた穴からはどぼどぼと血が溢れ出てくる。

 腐竜はのたうち回りながら大地に倒れ、激しい振動が洞窟を揺らした。

 アルルカは軽いステップを踏みつつ地に伏す竜に近寄り、その閉ざされた目蓋をぺちぺちと叩く。


「……死んだか? ん?」

「ギャァァアオオオ!!」


 刹那、熱線が閃いた。一瞬とはいえ、アルルカはほとんど全身を超高熱の炎に飲み込まれたが、しかし白光が消えた後にはまったくの無傷の姿が残る。


「ハハハハハ! 火炎耐性は残っていたようだな。しかし、蜥蜴にしてはしぶとい。然らばここらで、取っておきをくれてやろう……!」


 実のところ、先の熱線は竜の断末魔にも等しいものであり、もはや腐竜は虫の息だ。いまにも魔石となって消滅しかかっている。

 それはアルルカとて察していたが、しかし、知ったことではない。

 すべては気の赴くまま。世界を滅ぼす災厄の精霊が、己の神髄を奏上する。


「 大地に根差し、空を望んだ無垢の日々

  積み上げるかばねの山、吸い干した血の潤い 」


「 それでも届かぬ空だと云うなら、

       オマエの方が落ちてこい 」


「 然り、これ此処ここに起こるは、

          天地覆す外法のわざ

  吸血逆流、屍山血河の大氾濫

  ワタシこそが命の理、息吹き与える神と知れ 」


「  外理侵食ワールドエンド  天理翻す吸血輝ブラッドコーゼイション  」


 それは、世界を滅ぼす災厄の証。自然を否定し、世界の理を踏み砕く愚行。

 生死の因果は天理より切り離され、アルルカにこそかしずいていた。

 アルルカの足元から赤黒い流体がぬらありと起き上がり、次々に明確な形を取っていく。狼。熊。屍人。巨大な兎に、鎌を持つ外套。鋭角携える馬、翼持つ蛇竜。そして、アルルカ・ドルスまで。

 アルルカがこれまで啜ってきた血の持ち主が、血によって構築され、甦っていく。


「食らい尽くせ、獣ども!」


 号令を発するやいなや、赤黒い獣たちが腐竜のからだに群がり、その血肉を貪り食らっていく。瘴気も通じず、鱗の鎧も意味を為さない。ただただ竜は、解体され、喰らわれていく。屍に群がる蟻のように、どこまでも無情に、効率的に。


「ハハハ……アハハハハ!!」


 やがて、怪物の群れは失せる。目の前に残ったぎらりと輝く巨大な魔石を蹴り飛ばし、アルルカは、力強く哄笑した。


「イヒヒ、フフ、ククク……あぁ。足りないな。クソ、クソ、クソッ……半分! 半分も血を失った! これではあの破壊神気取りの魔王に届かない! 忌々しいあの人間にも! チカラ! 吾が集めてきたチカラだぞ!」


 そこで、ぐるうり、と梟のように首を回して、ヴァンパイアは二人の人間を視界に捉える。


「オマエたちなら、少し足しになるか。マリー、愛しきマリー! お前は人間だてらに加護を三つも持っていたな。まさしく神の使い! 吾の中で共に生きよう。そのほうが、弱いオマエも幸せだろう」

「アルルカ……さん?」

「そしてチセも、一級冒険者ともなれば、さぞスキルを溜め込んでいることだろうな! 何より、何よりも、二人とも、清純な乙女の血だ。その美味を口にすれば、この怒りも少しは晴れる。そうに違いない! フフフ、ク、ハハハハハ!」


 へたり込むマリーの隣で、チセはよろめきながらも立ち上がり、霊弓を顕現させる。


「……吸血精霊は……流血すれば、力を失っていくはず」

「ハァ? ああ、ああ、そうだとも。血を失えば力も失う。で? だから何だ。オマエ如きが相手になるわけないだろう」


 半ば瞬間移動のように、アルルカは瞬時に彼我の距離を詰め、抱きかかえるようにしてチセと肉薄し、その首筋に舌を這わせる。


「速……っ!」

「……う、ぐ……」


 アルルカの口内に、血の味が広がった。

 鉄錆風味の、甘美なる味わい。嫌悪感はちょっとしたスパイスだ。


「う、ううぅぅ……!」


 アルルカは大粒の涙を流しながら、口の中にある生肉を噛み砕いていく。

 すなわち、アルルカ自身の腕を。


「……肝を冷やしたわ。本当に」

「うるひゃい……ワタシの首に、ペンダントがかかってる……それを、ワタシの傷口に当ててくれ」

「これかしら?」


 チセがアルルカの首のチェーンを手繰り寄せ、小さな銀の鞠を、すでに再生し始めているアルルカの腕へと押し付けた。


「……類聚の匤よ。精霊の血を収納しろ──ガ、ぐっ!?」


 唱えた途端、アルルカの血が、傷口から猛烈な勢いで吸い出されていく。

 全身をぎゅっと絞られているような喪失感。アルルカは間もなく貧血で意識を失い、同時に、術者の魔力が途絶えたことで、収納魔法も終了した。

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