第89話 俺を嫉妬で狂わせたい?

 男爵家の警護兵がアルギルの馬に驚いたのは、四、五日後と思われていたアルギルの到着が、もっと早かったからだ。


 正確にはロゼリアが目覚めたあの日から数えて三日後。それも、月がすっかりと真上に登り、だれもが深い眠りに入った夜半の訪問だったのである。


 ギシ…と、ベッドがきしんだ事で目を覚ましたロゼリアは、目の前にいた人影に心臓が飛び跳ねた。慌てて剣を取ろうと手を伸ばすが、その手をぐいっと掴まれ、身体は相手の胸へと抱き寄せられてしまう。


「だれっ」


 ぐっと腰に回る力強い腕。もう片方の手は宥めるようにロゼリアの背中をさすり、肩には浅い息づかいを感じた。 

 耳の横で「…静かに」と言う落とされた声に驚く。


「え、アルギル?」


 返事はない。

 だが、屋敷を守っているのは、ルーゼルの精鋭部隊と部隊長のジョナサンだ。彼らが騒ぐ事なくロゼリアの部屋まで入って来れる人物は、この国ではただ一人。アルギル以外ありえないのだ。


 昼間は春の兆しを感じても、夜はまだ寒い。それなのに、アルギルの身体はしっとりと汗ばんでいた。


「あの、大丈夫ですか?」


「…それは、俺のセリフだぞ?」


「えーと、はい。私は大丈夫です」


「じゃあ、しばらくこのまま…じっとしとけ」

 

 じっとしとけ…と言われても、実際すっぽりとアルギルの腕におさまっているロゼリアは動けない。


 真っ暗でお互いの表情がわかりにくいのはありがたかった。ロゼリアは自分でもわかるくらい真っ赤になっている。それでもロゼリアは、浅く深呼吸を繰り返したあと、意識して力を抜いた。 


 腕に柔らかな重みを得たアルギルは、少しだけ驚く。


 アザマ城の出来事を思い出すだけで、今も背中に冷たい汗が流れる。極限までの緊張と虚勢。繰り返された恐怖。あの城を出てからも、何度ロゼリアの名を叫んで夜中に飛び起きたことか…。


「…痩せたな」


「え、そうでしょうか?」 


 自分の事には無頓着なロゼリアらしい答え。

 本当は、離れていた間の一部始終を聞き出したい。だがアルギルは、ため息をついてそれ以上の詮索を諦める。


 よくこんな細い腕で、幾多も重なった乱闘をくぐり抜けてこれたな…。


 自分の腕に戻って来た。今はそれだけで充分だった。


 ロゼリアだって、アルギルの腕が恋しいと感じた日が確かにあった。

 だからといってアルギルの背中に腕を回す勇気はない。ただ自分の心臓がうるさくて、こんなに密着していてはアルギルに聞こえてしまうのではないかと、そればかりが気になってしまう。


 何か話をしていればまだ良い。だが、まるで離れていた時間を取り戻すように、じっとロゼリアを抱きしめているアルギルに、何を話せば良いかわからない。


 背中を撫でられ、髪を梳かれ、まるで生きていることを確かめるように首筋にアルギルの唇が寄せられる。


 柔らかく濡れた感触…。ビクリとさせたロゼリアに、腕の力を強めたアルギルは離すまいとばかりにロゼリアの頭を引き寄せ、髪をかき上げた。白いうなじを闇にさらすと、ヒヤリとしたのは一瞬のこと、再び顔をうずめたアルギルが大きく息を吸いこんだのがわかり、もう、どうしたら良いのかわからない。


「あの、アルギルっ」


「…なんだ?」


「何って、ニオイを嗅ぐのはやめて下さいっ」


「なんでだ?」


「いえ…あの、恥ずかしいですっ。今日は香油もつけていませんし、その…いい香りはしないのではないかと思いますっ」


「今日は? …聞き逃すわけには行かない言いわけだな。まさか香油を香らせ、男に色目を向けたことがあるのか?」


「なっ、あるわけないでしょ!」


「じゃあ、どんな時に香油をつけた?」


「え、それはアザマ城に行く朝、エレナが…」

 

 何と説明すれば良いのか焦るロゼリアの耳に、アルギルの「くっ」とくぐもった声が聞こえた。


「…ク?」


 アルギルの頭が微かに揺れている。笑っているのだとわかると、からかわれているのだとわかり、とたん負けん気のロゼリアが声をあげた。


「もう、なんでここで笑うのっ」


「ふ、いや、おまえからはいい匂いしかしないぞ?」


「ソウデスカ。それは、ありがとうございますっ」


 面と向かって言われると、面映おもはゆくて、つい怒ったように返してしまう。


「確かあの時、コーエンにも同じように言われました」


「コーエン?」


 あの時、コーエンは馬の上にいながら、今のアルギルのようにロゼリアの髪をすくって笑って言ったのだ。『いい匂いがする』と…。


 ヒクリとアルギルの眉間がひきつったが、ロゼリアは気づかない。

 ロゼリアの肩に顔をうずめていたままのアルギルが、くぐもった声で呻く。


「…おまえをアザマの城で見た時、心臓が止まるかと思った」


「あの、心配を…させましたか?」


「…おまえ、俺が心配していなかったとでも思っているのか?」


「い、いいえ!」


 心配してくれているとわかっていた。だが、それを直接聞くと嬉しいのに照れくさい。

 わかってやっているのか、アルギルはロゼリアの耳に吹き込むように続ける。


「生きたおまえに会えて…本当に良かった。それに、久しぶりに会ったおまえがあまりにもキレイで…おかしくなりそうだった」


「き、キレイ? あ、あの時は、とてもそんなふうには見えませんでしたが?」


「ああ。だが、あのむさ苦しい男達の中でただ一人、ドレス姿で立っていたおまえは眩しかった」


「あ、ドレス…。そう、ですよね。ええ、あれはコーエンの見立てでして…彼のセンスはとても良いようですね」 


 我ながら子供みたいな言い方をしてしまったと思ったロゼリアだったが、鼻先まで近づいたアルギルの顔にゾッとした。


 …もしかして、怒ってる?


「いいかげんにしろ、ロゼ…。俺を嫉妬で狂わせたいのか?」


「い? いいえ!!」


 アルギルの本気の怒りを肌で感じ、慌てて首を振る。 


 でも、嫉妬って…アルギルが?


 とたん頬が緩むのを止められないロゼリアは、急いで顔を押さえたのだった。





次回『生きてるって、俺に教えてみろ』

どうぞよろしくお願いします。


 

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