第71話 決意の朝

 翌朝、キン…と冷たい空気が庭の木々や花を凍らせていた。夜が明ける前にやんだ雪は、低い太陽の光を浴びてキラキラと反射している。

 

 窓を開け、ひんやりとした空気で頭のモヤをとばし、大きく息を吸って身体の疲れと一緒に、ほう…と吐き出したロゼリアの息は、冷たい空気に触れて白くなった。


「今日、この屋敷を出たら…二度とここには戻ってこれないかもしれないわ」


 ここに戻れないということは、シャルネや リンクスに会うことも、アルギルのいるルーゼルの城に帰ることもない。


 『必ず戻ります』そう言ってルーゼルの城を出たはずだった。


「…心配をしてくれているのでしょうね」


 ルーゼルも本格的な冬に入っただろう。今思えば、少し高台にあるルーゼル城から見た城都の景色を、もっと堪能しておけば良かったと思う。


 城都の石畳に雪がつもった景色を想像する。店ごとに並ぶ果物も、きっとロゼリアが見た品々と違うものが並べられているだろう。

 どこもかしこも雪景色。もふもふの服を身にまとい、人々が行き交う。わくわくとドキドキと、ほんの少し恥じらいながら手をつなぐ者もいて、店の主人は寒さに負けない熱気で客を呼び込む。


 ロゼリアが、ルーゼルに初めて来た日と何も変わらずに…。


 懐かしい…と感じるには、それほど時は過ぎていないのだ。

 ルーゼルで過した時間はあまりにも短い。それでも、命とは何かと思い知らされ、まさに魂が揺さぶられた鮮明な日々だった。


 エルトサラを思い出すと、温かい気持ちに包まれて心が穏やかになる。

 そしてルーゼルを思い出せば、同じように温かい安心感を感じるのに、ロゼリアの心は浮き立つようなときめきが身体を満たして落ち着かない。


 もっと、アルギルと話をすればよかった。 

 

「たとえ離れていても、私の心はみんなと一緒よね。だから…」


 ベットに置いてあった剣を、ゆっくりと手に取る。


「努力するわ。私にできる努力で…」


 すっと鞘から剣をぬけば、光を得た刃がお世辞でも顔色がいいとは言えないロゼリアの顔を映した。


「王に会って…身を砕くほどの怒りで目の前が真っ暗になっても、冷静でいれるように努力するわ」


 それでも、剣を抜いてしまったら…その時は…。


「最後の最後まで、私は、剣をふり続ける約束をするわね」


 たとえ…身体中から血が流れて、足が動かなくなっても。地べたを這いずりながら、最後の命の炎が消える一瞬まで…。


 静かな部屋でロゼリアの誓いを受け止めた剣が鈍く光る。


 『そんな約束は、いらねぇよ!』というリンクスの声が聞こえる気がする。おそらく、マイロやシャルネがここにいても、ただ『今すぐ逃げろ!』と言うだろう。


「アルギルだったら、なんて言うのかしら…。そう言えば、この戦が終わったら覚悟しておけって言われたわ。あれもわからないままで…なんだか悔しい気がするわね」


 ふ…と笑ったつもりのロゼリアの顔が、今にも泣き出しそうな顔だったのだと、本人は気づいていない。

 暖炉の燻っていた火は、ロゼリアが自問している間も、じわりじわりと部屋を温めていた。


 ドアの手前で涙を拭ったエレナが、そっと部屋から離れる。しん…と静まり返っている屋敷は、嵐の前のような張り詰めた緊張感が漂っていた。



 出発の準備が整ったのは、雪解けが進んだ昼過ぎだった。

 コーエンの屋敷に彼の騎馬隊が到着し、ロゼリアが城に入るまでの道中を護衛してくれるらしい。


 軍馬の他に、アザマの旗印になっている大きなエルクが一頭、庭先でコーエンを待っていた。馬よりずっと大きい。

 アザマの騎士の、だれもがエルクの背に乗れるわけではない。国への忠誠心と、国王の信頼。そして、軍用として訓練される数も少ないエルクを、警戒心を与えず近づける者。

 やはりコーエンは、国王に近い地位があるのだろう。


 ルーゼルでコーエンが乗っていたエルクの角は、シャルネが切り落としてしまったが、このエルクには、立派な大きな角があった。


 ルーゼルで見た時より、怖い…とは感じなかったロゼリアは、エルクの視界を遮らないようにゆっくりと近づく。


 まさに鹿の王…。


 ロゼリアの故郷である豊かな大地にはいない。水と緑が生い茂る土地より、寒さの厳しい峻嶮しゅんけんな山岳を自ら選び、生きる。とても不思議な生き物だ。


 なぜ、これ程までに大きく立派な角を持つのだろう。


 茶色だと思っていた毛は、実際近づくともっと黒い。触れてみたいという好奇心に、思わず手を伸ばして良いかとコーエンを振り返る。


 コーエンは青い目を細めて頷いた。軍用として人と関わりがあるエルクは、コーエンがいれば無体を強いることはないと言われ、そっと触れてみる。


 硬いわ…。

 

 始めこそ首を振って警戒を見せたエルクは、怯えがないロゼリアの手を受け入れる。澄んだ黒い目はロゼリアから見ても、落ち着いていた。


「…気に入られたらしいな」


「そうなのですか?」


「ああ。エルクは気性が荒い。持って生まれた性質だ。馬より闘争心も強く、戦場では心強いが、勢いがありすぎ乱暴でもある。人を信頼していないしな。それでも、相手を選んで甘えてもくる」


 頭を下げたエルクの大きな角が、コーエンの身体にすり寄って甘える。


 あまりにも大きいので、まるで大木がすり寄っている感じだ。


「ふむ。大丈夫そうだな…」


 コーエンがエルクの手綱を引いて、ぐいと力を込める。慣れた手つきでエルクの背に跨り、ニヤリと傷のある頬を吊り上げた。


「こい!」


 コーエンが、エルクの背からロゼリアに手を伸ばす。

 差し出されたその太い腕を、ロゼリアも意を決して握ったのだった。

 




次回『山岳の都』

どうぞよろしくお願いします。

 


 


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