第66話 コーエンの屋敷

「…ひめ…ひめぎ…姫君!」  


「え?」


 はっとして顔を上げたロゼリアは、やっと自分が食事中だったこと思い出す。


「大丈夫ですか?」


「え、ええ。すいません。少し考え事をしていて…」


「…お口に合わないようでしたら、違う物を用意いさせます」


 品の良いお仕着せに身を包んだ女が心配そうにロゼリアの顔を覗き込んだ。彼女はこの屋敷に入ってからというもの、ずっとロゼリアの世話をしてくれている侍女だ。


「いいえ。大丈夫です。食べます。エレナさん、気を使わせてしまいすいません」


 慌てて首を振ったロゼリアは、エレナに気づかれないように、そっとため息をついた。


 …そうだった。ここは、コーエンの屋敷。今は彼と食事中だったのよね。


 目の前にならべられた料理の数々。綺麗に盛り付けられたひと品ひと品。ロゼリアのための料理ではない。屋敷の主人が戻り、無事に帰った主人のためにと、料理人が毎日腕をふるっているのだろう。

 しかし、ロゼリアがちゃんとした食事を口にしたのは、ルーゼル城を出てから何度あったか。


 ルーゼルの国境でジョナサンの声が聞こえた。あのまま、ルーゼルにとどまればアルギルのいる城へ帰れただろうか…。


 だが、ロゼリアはルーゼルの警備隊の追跡を振り切り国境を抜け、コーエンとアザマに行くことを選んだのだ。


 他に方法が、あったかもしれない…。


 だが、そんなことを考えても今更だった。もし、リンクスやシャルネと一緒にあの橋で落とされる道を選んでいたら…。三人でまたエアロに向かう旅を続けていれたのかもしれない…。


 しかし、気がつけばロゼリアは馬に飛び乗っていたのである。自分の命を惜しんだのか…馬の命を惜しんだのか…。今となっては何が正解だったかさえ分からなかった。


 だが、過酷な旅は続いたのだ。アザマに入ってからの移動中も、温かいスープが飲めればまだ良い方だった。


 山岳の温度差は大きく、山の谷特有の風が疲弊していくロゼリアの身体から、体力だけでなく気力をも奪っていく。天気の変化は、エルトサラや、ルーゼルとは比べものにならないくらい激しい。


 たった今まで太陽が出ていたと思っていても、急に強雨に見舞われることもしばしばだ。

 山の高さによって変わる気温の変化や、斜面の複雑な地形も、ロゼリアの疲労に追い打ちをかける。


 さらには吹きすさぶ谷風や雪混じりの強風。吹雪の中、どう移動したのかさえ覚えていない日もあった。


 そんな日は、決まってどこかの宿のベットで目を覚ます。雪山に慣れていないとはいえ、コーエンや彼の騎馬隊の足枷になっていると自覚して申し訳無い。

 コーエンにとってロゼリアは、足手まといにしかならなかっただろう。自分の国に連れてきたことを、後悔しているのではないかとも思った。


 しかし、彼がそうまでして、ロゼリアをアザマ城へ連れて行きたい理由も分からなかったのである。

 

 やっとコーエンの屋敷についた頃には、ロゼリアは声を出す事さえできないほど、疲れきっていた。 

 歩くことさえおぼつかなくなったロゼリアを、コーエンは横抱きに抱いて屋敷に運んだのだ。ロゼリアをエレナに預け、丁重に世話をするよう指示するだけで、自分はほとんど顔を出さなかった。


 数日ぶりに声を聞いたかと思ったら、今日、夕食を共にする…と言われて、驚いたくらいだ。コーエンの顔を見たのも久し振りのような気がする。


「明日、陛下に会いに城に行く」


 正面で食事をしていたコーエンは、相変わらず無表情でロゼリアに告げた。何を考えているかわからない。それでもロゼリアは、コーエンの無関心な態度のすみに、ほんの少し思いやりを感じられるようにはなっていた。


「…明日ですね。わかりました」


 今更、逃げ出そうとは思わなかった。むしろ、ここまで長かった…と思う。


 やっと、アザマの国王に会える。 


 私を連れて来るよう、コーエンに命じたのが、アザマ王。どんな人なのかしらね…。


 コーエンの屋敷に来たばかりで直ぐに城に連れて行かれていたら、話は愚か、何をされても抵抗できないでいただろう。

 なぜ、そうしなかったのか…と、コーエンに聞いてみたい。それでも…。 


『わからないのか?』


 と、また言われる気がする。


『本当に、わからないのか?』


 と…。 


 わからないわ…。


 それでもコーエンが『ただ、国王の都合がつかなかっただけだ』と言われたとしても、それが本当ではないと思いたい自分がいて、ロゼリアの気持ちが落ち着かない。


 山岳地帯に入ってからの移動中、背中に感じるコーエンの体温に助けられているのだと、何度も感じたのだ。


 コーエンは、敵国の老騎士隊。

 残虐で…残酷で…。数多の戦争を経験して国を滅ぼし、人を殺し、今の今まで自分の命を繋いできた男だ。


 信用しているわけではないわ…。


 それでも、こうしてコーエンの青い瞳を見ていると、暗い陰りが彼の中に見える気がする。それが後悔や悲しみであるとロゼリアは思いたい。


 この屋敷の執事や侍女達が、みんな、ロゼリアを優しく迎えてくれたから。 


 コーエンの屋敷は思っていた以上に穏やかだった。まったく不満はなく、それよりも、あまりに大切に扱われて逆にロゼリアとしては、居心地が悪かったくらいだ。しかし、おかげで身体の疲れはずいぶんとれた。


 精神的な疲労は蓄積されたままだが、リンクスやシャルネに再会しないかぎり、これだけは仕方がないのである。睡眠不足も、今はかえって頭が冴えてちょうど良い。


 明日、私はアザマの王に会う。会ってどうするのか…は、その時がこれば分かるはずね。




次回は『妻のような溺愛ぶり?』です。

どうぞよろしくお願いします!

 

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