第42話 キスしたい

 アルギルが部屋に戻ってきたのは、随分と遅くなってからだった。暖かな部屋で微睡みながら時間を過ごしていると、リンクスがジョナサンに呼ばれて部屋から出て行く。明日からの計画を立てるのだという。


「よろしければ、シャルネもお願いします。あなたにも聞いておいて欲しい」

 

 というジョナサンの言葉に、シャルネはロゼリアを一人で部屋に残すことをためらった。しかし、部屋の前には衛兵が警護していて、アルギルも側にいる。だから大丈夫だと約束したため、頷いてジョナサンについて行った。


「…少しは眠ったか?」


「はい…。おかげさまで、ゆっくりさせてもらっています。リンクスがいてくれたので、シャルネもさっきまで眠っていました」 


 すっかり慣れた平坦な声でロゼリアは答えた。


「…そうか」


「あなたの体調はどうですか? まだ熱があるのでしたら、私のことは気にせず休んで下さい。その間、私がジョナサンの所に行きますので」


「…俺といるのは、いやか?」


 なんとなく落ち着かないが、いやではない…。


「…近くにいなくては、守りきれない」


 …アルギルのその眼差しは、なぜだか心がフワフワ浮き立つような気分になるので困ってしまう。

 

「着替えは、問題なかったか?」


「え、ええ。…服を用意していただきありがとうございます」


「いや。新しい布で仕立てる時間はなかったからな。ありふれた服ですまない」


「いいえ。とても暖かいのに、凄く軽くて…。おかげで、着脱にも時間がかからず助かりました」


「着脱…? リンクスの前で…か?」


 ひくり…と、アルギルの眉間がつり上がった。


「え、あ、はい。ですがリンクスはそこの窓辺でずっと外を警戒してくれていましたよ?」


「…窓辺?」


 意識して落しているロゼリアの声がうわずる。

 聞き返すアルギルは、低く唸るような声。


 怒らせた…とは思うものの、なぜ怒らせたかがわからない。しかし、あきらかにアルギルの機嫌が悪い。


「…そこか?」


 まるで仇討ちにでも行くような顔で、リンクスが立っていた窓辺に近づいたアルギルが鋭く舌打ちを響かせた。


「ちっ。リンクスめっ」


 窓の外に、何かが…?


 さすがに不審に感じ、アルギルの後ろからロゼリアも窓を覗きこもうとする…が、振り返ったアルギルが、ぐいっと強い力でロゼリアの腕を引いたのである。


 え?


 勢いのまま倒れ込んだロゼリアは、すっぽりとアルギルの腕の中におさまっていた。


 なんで…また!?

 

 下の部屋で抱きしめられたような、強い力ではない。だが、アルギルがロゼリアの背中で両手を組んでいるので逃がれられないのだ。

 アルギルは、何も言わない。しかしロゼリアは、沈黙に耐えきれない。


「えーと、アルギル?」


「…まだ、礼を伝えていなかっただろ?」


「お礼? あの、服を用意してもらったお礼なら、さっき言ったのですが…」


「違う。俺の方だ。リュディアの谷でおまえが俺を助けてくれたのだろう?」


「あ」


「ジョナサンも、ミシェルもおまえが助けた。俺を、礼もしない薄情な男にさせるつもりか? 何か…礼をさせてくれ」


「いいえ。リュディアの谷では、たまたま持っていた薬草と、谷に自生していた果物があの毒を無毒化できただけで…」


 話している内容は、形式的なものだ。あくまで薬草の説明で、恋や愛を語っているわけではない。それなのに、ロゼリアの顎を持ち上げたアルギルがまっすぐ見つめてくるのだ。

 焦げ茶色の瞳に、甘さを感じるのは気のせいなのだろうか?


「…ロキセルト」


 あまりにも近くで、ゆっくりとアルギルの唇が動く。とたん、ボンとロゼリアの顔が熱くなった。


 …わ、わたしったら、薬草を飲ませるため、アルギルに口移しで…て!?  


 慌てて両手を突っ張りアルギルから距離をとろうとするが、背中にあるアルギルの手がそれを許してくれない。


「これはっ、私がしたことへの意趣返しですか!?」


 声を取り繕う余裕などない。だが、そんなロゼリアに目を細めたアルギルは嬉しそうだ。


「…そう思うか?」


「だって、ほかになにがっ」 


「…おまえがそう思いたいのであれば、それでいい。だが礼はさせてもらうぞ? なにが欲しい?」


 そんなことを言われてもロゼリアは困る。べつに見返りが欲しくてアルギルを助けたわけではない。あの時のロゼリアは、その時できることをしただけなのだ。

 それに、こんな時にプレゼントを欲しがると本当に思っているのだろうか…。


 コーネル国王は亡くなった。ドラグは幽閉。今日の戦は勝利したが、すぐに北から大軍が押し寄せて来るのだろう。


「欲しい物なんて…ありません」


「なにも?」


「…はい。本当に思いつかなくて…すいません」


 心底がっかりしているアルギルに、戦時中であれば国の王子は何を求めるべきなのかと気になった。


「あなたは、なにか欲しいものがあるのですか?」


 一緒に戦う仲間とか、剣や武器…。騎士達の強い結束…という言葉を聞かされるかと思っていたロゼリアは、アルギルの言葉に目を見開いて驚く。


「…俺は、おまえにキスしたい」


「き、キス!?」


 わたしに? アルギルが…!?


 真意しんいがわからないロゼリアの顔は、もう真っ赤だ。覗き込んでくる焦げ茶色の瞳に、こんな時、目をつむるべきなのかな…などと、一瞬だけ思考が蕩けそうになったロゼリアは、余計に慌ててしまう。


 アルギルはロゼリアの慌てぶりを楽しんでいるように見えた。


「だめか? おまえに、キスしたい。やられっぱなしは、誰だっていやだろう?」


「いえ! あれは…その、き…す、というものではなくてですね、薬草を飲ませようとしただけなんですっ。それに、今はふざけているときではないでしょう!?」 


「…俺は、ふざけてない」


「ふざけてないって…」


 私、男装してるよね?

 ロキセルト兄さんのフリができてないの?


「こ、こんなところを…隊の騎士達に見られたら、結束にヒビが入ります…よね?」


「別に問題ない。それより俺は…おまえに昔みたいに呼べって言ったぞ?」


「うっ」


 まるでコーネル国王を相手にしているみたいだった。アルギルのその目も、コーネルと同じ、子供のイタズラを暴く楽しさを知っている目なのだ。

 そして、間違いなくアルギルは、ロゼリアの反応をとても楽しんでいる。


 もしかして、アルギルにも私が女だって気づかれているの?


 そう思った瞬間、ロゼリアは力いっぱい アルギルを突き飛ばしていた。だが、たいして離れてはいない。


 アルギルは驚いている。しかし、ロゼリアを宥めるように頬を撫で、砂埃を被った金色の髪をすくのだ。


 ルーゼルに来たばかりのロゼリアなら、アルギルの手を払っていただろう。それなのに、今は黙って見上げる。


 アルギル? 


 国を滅ぼされた王女に、権力などないだろう。地位もなければ名誉もない。女では、騎士としても、仲間としても必要とされなくなってしまう。


 私は…自分勝手でわがままだわ。


 自分の罪深さに耐えきれなくなったロゼリアが、すっ…と目をそむけた。先にあった暗い窓に目を向けたのは、現実から目を背けたかったわけではない。

 だが、窓に映る景色を見たロゼリアは、目を見開いて絶句してしまう。


 そこは、リンクスが後ろを向いて立っていた窓。外の様子は真っ暗で何も見えない。だが代わりに部屋の景色が全て映っているのだ。アルギルに抱きしめられているロゼリアの姿が。

 

 もしかして…さっき部屋を出て行ったリンクスが見ていたのは、わたし!?


 ようやく気がついたロゼリアは、もう、アルギルの不可解な行動を不思議がるどころではなかったのである。





 

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