第25話 昔みたいに呼んでくれ
アザマの軍は、リュディアの谷を埋め尽くすほどの数だった。
塔の上からだと、真っ黒の大軍でぞっとする。顔や表情がわからなくても、禍々しいのだ。恐ろしいのはそれだけではない。アザマの兵士の中にいる大きな角を持つ動物だ。
「馬ではないですよね…。あれは、なんですか?」
「アザマのヘラジカだ。エルクとも呼ぶ。アザマの旗印になっているくらいだから、固有の生息地なんだろう。エルクは警戒心が強い動物で、軍馬のように扱うのは不可能だと思われていたのだが…」
「大きい…。エルトサラにいた鹿が子供のようです…」
「ああ、そうだな。ヘラジカは、鹿の中では最大だ。だが…アザマのエルクは更に大きい」
多数の将兵の中、いるのは十数頭だろうか。それでも訓練された軍馬が近寄らないことを思えば、その大きさと角の脅威が良くわかる。
「ここ最近の戦は、アザマの兵士がエルクに乗って突撃してくる。あの角は硬くて矢じりを通さない。大きい物は片方の角だけで二メートル近くあるんだ。それが左右に二つあれば四メートル。力も強く、馬の陣形ではとても太刀打ちできない」
軍隊で騎馬が重要な役目をこなすように、エルクのあの大きさはアザマの戦力だろう。これ程のアザマの軍勢を、アルギルは本当に一掃できるのだろうか?
迎え撃つにはルーゼルの兵士が少なすぎる。
しかしアルギルは、ロゼリアの不安を笑って一瞥した。何か作戦があるのかもしれないが、だったら教えてくれないのかと、つい睨んでしまう。
「心配するな。地の利はこちらにある」
「…心配は、していませんが?」
「なら、いい」
「え?」
アルギルは、風で乱れたロゼリアの髪をすいて、名残惜しそうにまとめた髪をするりと撫でるのだ。
「アルギル王子?」
「…昔みたいに、呼んでくれ」
「昔みたいにって…アル?」
ふわりと嬉しそうに笑うアルギルが、何を考えているのか、まったくわからない。
ロゼリアは気恥ずかしさを隠して、前を見た。
不思議な感じがするのだ…。
落ち着き払ったアルギルと、振り返れば何も変わらない景色。砦のすぐ側には無惨に崩れた家々や、踏み荒らされた石畳が剥がれて赤土がむき出しになっているのに、この塔の騎士達から恐怖や怯えがまったく感じられないのである。
ロゼリアが戦慣れしていないせいなのだろうか…。
しっかりしなきゃ。今日、私の戦いは始まったばかりなんだから!
ロゼリアは、アルギルの視線に気が付かない。支えられる腕を払いもせず、ただ自分を奮い立たせて不安や悲しみに蓋をする。
寝不足で頭が痛い。胸もずっと苦しい。
それでも…、私にできることは、この手が血まみれになっても戦うこと。
すると、横に繋がるもう一つのタレットから声が聞こえた。
「兄さん? アルギル兄さん!」
まだあどけなさが残る身なりの良い少年が、嬉しそうにアルギルに駆け寄って来る。
背はロゼリアとたいして変わらない。アルギルより少し明るい栗色の髪を肩上で揃えて切りそろえてあるため、神童と呼ぶに相応しい…が、この少年がドラグ王子と聞いてロゼリアは驚いたのだ。
ドラグはミシェルの婚約者だと聞いている。彼女には不信感しかなく、国王の姉にあたるヴァンカルチア公爵夫人の娘婿となれば、もっと毒された王子を思い描いていた。それなのに、ドラグは十三歳らしい無邪気で明るい少年だ。
「わあ、あなたがエルトサラの王子様ですね。はじめまして。ドラグ=イグラーです。ルーゼルへよくおいで下さいました」
ペコリと頭を下げると、サラサラの短い髪が風に揺れる。見かけは神童のようなのに、とにかく良く喋るのだ。
「エルトサラのみなさまにも、心より感謝申しあげますっ。エルトサラは、僕の憧れの場所なんです!」
「…えーと、ありがとうございます。今は…何と言って良いかわかりませんが…、何もかも落ち着いたら、ぜひエルトサラにおいでください。その時は、ドラグさまの思い描くエルトサラに少しでも戻っていればいいですが…」
本当に、そうあればいいとロゼリアは思う。
びゅ…とタレットの上に強い風が枯葉と砂を舞い上げ渦巻いていた。
「僕…、考えなしに喋ってしまいました! ごめんなさいっ」
ロゼリアの様子に悲痛な顔で頭を下げたドラグに、ロゼリアは首を振る。
「いえ、かまいません。エルトサラを思って下さりありがとうございます」
「エルトサラの王子さま。僕に敬語はやめて下さい。僕のほうがずっと年下なんですから!」
「あ、はい。そうですね。わかりました。では、私のことも敬称は結構ですよ。三人も王子がいるとややこしいですしね」
そういえば…、アルギルもいつの間にか呼び捨てだ。昨日の昼間再会した時は、王子とついていたような気がするが。まあ、兄の名前で呼んでいることじたい、正しくはないのだが。
「あはっ! 本当ですね。じゃあ僕は、なんてお呼びすればいいですか?」
「ドラグが呼びやすいように呼んで下さればかまいませんが…。えーと、じゃあ…ロキとでも?」
「「だめだ!」」
深くは考えていないロゼリアは、自分がロキセルトをロキ兄さんと呼んでいたので、ドラグにもすすめてみただけだ。しかし、すぐさま、アルギルとマイロから駄目だしを受けたのである。
「へ? なんで?」
「あ、いや、年上相手に愛称で呼ぶのは…」
さっき、自分だってアルと呼べって言ったはずじゃなかったか? いったい何が違うというのかさっぱりわからない。
マイロに至っては、他国の王族に愛称で呼ばせるなどとありえないらしい。
「婚姻の約束でもしていればとにかく、考えてみろ? あのロキセルトとドラグ王子が婚姻関係って、想像できないだろ!?」
…なるほど。なるほど??
「じゃあ僕、ロセルさまって呼んでも?」
「ふふ。慣れるまで、変な感じがしますが、もちろん嬉しいですよ」
笑顔を作ったロゼリアは、幼かった自分とドラグを重ねていた。ロゼリアも、ロキセルトに甘えてばかりだった。城で過ごした日々が、はるか昔のようで国や家族は本当に逝ってしまったのかとさえ思うのだ。
だからといって、事実を受け入れていないとは違うのである。
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