さよなら、私の最後の初日

古井論理

本編

 再開した部活の初日、部員が私一人だけのはずの漫画研究会が使う部室に入室すると、そこで不思議な風体の男が待っていた。私はなんとなく彼の一つ後ろの席に座る。彼は机を回すとこちらを見て話を始めた。

「あなたは確か……失礼、私のことは何一つご存知ないのでしたね。私はあなたの一つ上、つまり三年生です。旧决と申します。旧に決定の決と書いて『ふるきま』と読みます。珍しい名前ですが……と、話がそれましたね。私はあなたのことをよく存じ上げております。あなたが私を探しておいでであることも、です。しかし、一つだけ存じ上げないことがあります」

 彼は、旧决と名乗った男はそこで口を一度つぐんだ。彼の風体は私と同じ「高校生」と形容するにはあまりに異質で、あまりに不思議で、どことなく落ち着いているもののなぜか慌ただしい。老けた見た目に不釣り合いなほど幼さを秘めた目を眼鏡の奥に光らせていた。手元には大学ノートと銀色のシャープペンシルを置き、静かにそれを手で弄んでいる。

「……」

 疑問符が私の脳内を埋めた。全く何を言っているかわからない。それを察してか、旧决先輩はまるで答え合わせをする先生のように、ゆっくりと疑問を口にした。

「あなたは、なぜ私を探していたのですか?」

 私は少し言葉に詰まりながら何かを言おうとして、言えなかった。今や私の口から出そうな言葉は意味のない「あー」とか「えーと」とか「その……」といった独立語程度である。

「わかりました。まずは私から説明させて頂きましょう。私はあなたの部活における先輩です。そこまではよろしいですね?」

 私は思わず声を上げた。

「よろしくありません」

「と、いいますと?」

 旧决先輩はずり落ちかけていた眼鏡を鼻の上に戻し、注意深く大学ノートの上のペンを握った。

「私は帰宅部です。それに、あなたを探していた理由は私にはわからないんです」

「……なるほど」

 旧决先輩は何か納得したような表情をして、手元のノートに何やら忙しく図表とグラフのようなものを描き始めた。私はそのペンが動くのを見ているうちに眠くなってきて、重いまぶたを押し上げようという抵抗を始めた。

「現実としか思えない夢を見たことはありますか?」

「……はい」

「そうですか。あなたはその夢の中に取り込まれたのでしょうね」



 不意に、額を何かで叩かれたような感覚が走った。

「あの……話を聞きながら寝ると凍死しますよ」

 旧决先輩はそう言いながら私の肩を揺さぶる。

「吉田さん、吉田さん!?起きてください」

「吉田……?私の名前は吉田……」

「愛理さん?愛理さん」

 私の意識に暗幕が垂れる。その暗幕から漏れる光の最後の一筋が消えようというとき、目の前に何かがいるのに気がついた。

「初めまして、愛理ちゃん」

 そこには、見たこともない女子高生が立っていた。私は何が何だかわからず混乱した声を上げる。

「あー……えっと、あの。その……」

「心配しなくて良いよ、私はあなたの味方」

 その瞬間、私の中で何かが音を立てて組み立てられたような感覚があった。

「あなたは……私の味方」

「そう、私はあなたの味方」



 沈黙のあと、不意に拡声器を通したような声が響いた。

「愛理さん……いえ吉田凜花さん、死にたくなかったら『彼女』を信じないでください。『彼女』は夢です。永遠の眠りに誘うあなたの敵です。凛花さん、夢の中から出てきてください。あなたは一体どうしたというのですか?誰より現実を見ていたはずのあなたが、どうして」

 私は何のことやらわからず目の前の女子高生の手をとる。

「これが最後のチャンスです。あなたの夢が叶い、あなたが救われる最後のチャンスなのです。死んでしまっては何にもならない。目を開けてくださ。こ。あ……は。ここに」

 声はだんだんと支離滅裂になっていく。まるでノイズだらけのラジオのように、掠れていく。それが旧决先輩の声だとわかったのは、突然はっきりと聞こえた言葉からだった。

「生きてください。あなたは、凜花さん、私と同じ世界に実体を持つ私の大切な後輩です」

 私の中に、ふわりと光が照らす。私がすっと目を開けたとき、そこには心配そうな顔の旧决先輩がいた。

「ここは」

「とりあえず大丈夫です、凜花さん。おそらく……いや確実に、ここは現実です。私を探していた目的は思い出しましたか?」

「はい」

「よろしければ教えてください。何ですか?」

「旧决先輩にお礼を言うためです。ありがとうございました」

「突然どうしたんですか」

「私、先輩に色々教えてもらいました。なのに、それを全部忘れてしまっていました。もう大丈夫です。ありがとうございました」

「教えたこと……部活の色々くらいですけれど」

「いえ、生き方やそのほか全てです」

「そうでしょうか」

 旧决先輩はノートを閉じて鞄にしまうと、別のノートを取り出した。今度は分厚い日記のようなノートだ。

「これは、私の日記帳です」

 旧决先輩はそのノートをパラパラとめくると、とあるページを探し当てた。

「二年前のページです。ここに、私の初日と書いてあるでしょう」

「はい」

 旧决先輩は一年分のページをめくる。

「ここにも、私の初日と書いてあります。そして、ここ」

 旧决先輩がめくった今日のページにも、やはり『私の初日』と書かれた一行があった。

「これは一体、どういうわけなんでしょうね」

 旧决先輩はそう言って首をかしげた。私は何のことやらわからず、旧决先輩とノートを交互に見ていく。

「ループしているみたいですね」

 私が言うと、旧决先輩は少し困った表情を浮かべた。

「それだけなら良いのですが……」

「どういうことですか?」

「前の初日の記述には気になるところがあるんです。ループを確証すればループは終わるかもしれない、と」

「なるほど?」

「人間の関知する範囲内では、物事は法則通りに進みます。しかし、人間が知らない範囲では果たして同じでしょうか」

「……?」

「『バレなきゃ犯罪じゃない』という言葉を知っていますか?」

「はい」

「それと同じです。人間が知らなければ、法則なんてどうでもいい、というわけです」

「ほう」

「ですから、ループしていると気づけばいい。そして、この日記はその確証になり得ます。ですから、今日は私の最後の初日です」

「よかったじゃないですか」

「そうはいきませんよ、これからは全てが新しいわけですからね」

「……?」

「愛理さん、あなたがもう迷わないことを期待します。それでは」

 旧决先輩はいつの間にかまとめていた荷物を背負って、日記帳を手に持ち教室を出て行く。私は立ち上がって旧决先輩を追いかけた。

「待ってください」

「時間は待ってくれません」

「そんなことより、ちょっと待ってくださいよ」

「え」

「私も帰るんです。一緒に帰りましょうよ」

「わかりました。では五分以内に荷物をまとめてくださいね」

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さよなら、私の最後の初日 古井論理 @Robot10ShoHei

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