5

 非常用の救命ボート乗り場の場所へ向かうと、そこでは騒ぎが起きていた。

 なんの騒ぎだ、と私は勘ぐった。こういう場所では、自分が助かりたいからって他人を押しのける人間が横行するのが定石だろう。

 非常口と書かれた扉を、抜けた先にあるボート乗り場は、客に見せるには無骨で業務的な作りだった。鉄筋がむき出しだったり、明かりが少なかったり、あまり広い空間ではなかったりした。奥の両開きの大きな扉から船外へ出られるようになっており、ここには棚にいくつか空気で膨らませる救命ボートがあった。一つのボートにどれだけの人数が乗れるのかは、私には判断がつかない。

 ボートを担いで、奥の扉から出て、海の上にボートを投げて、そこへ備え付けの縄梯子を使って乗り込む段取りになっていた。なら、さっさとそうすれば良いっていうのに、この人だかりが進まないのは何故だろう。

 誰かが、邪魔をしている?

 扉の前で、誰かが話している。乗客の誰かだ。

「足りないって、本当?」

「ええ……」こっちはスタッフの一人。「おかしいな、もっとボートはあったはずなんだけど……」

「おいおい、じゃあ、私たち助からないの?」

 どよめき。

 犯人が、ボートを捨てた? その可能性しか考えられない。きっと、毒を持った乗客が病院にたどり着いて、ナノマシンを解析されるのが気に入らないのだろう。

 なら、このままここで船と一緒に沈むしか無いのか?

「まずいな……」医師は舌打ちをする。「犯人は予め、船が沈むことを知っていたのか……」

「いえ……」私は言う。「峰崎は、犯人も道連れにするって言ってましたから、話し合って決めたわけじゃではないと思うんですけど……」

「となると、アナウンスを聞いてすぐに捨てる判断をしたか……捨てきれていない可能性も十分にある。自分が逃げる分のボートも必要だ。まだどこかに残っているぞ。船の収容人数は、シーズン中は今の十倍にもなる。当然、そのくらい以上のボートは用意されているはずだ。ここにあるだけでは、その人数を賄えない」

「あの…………」精密女の背中で眠っていた岩名地が、苦しそうにしながら声を上げる。「私…………機能で、船全体を見渡したんです…………救命ボートは……この脱出口だけじゃなくて……底のほうと、もっと上のデッキにもあります……船の先から、後ろまで、脱出口はいくつかあるんです……」

「なるほどな。そこのボートが捨てられている可能性は?」

「多分……そんな時間はない、と思いますし…………空気で膨らませるタイプだけじゃなくて、ちゃんとした脱出艇も、用意されてますから…………まだ残ってると思います」

「一般客の脱出路は、ここになるから、先にここのボートだけを捨てて時間を稼いだということか……クソ……探すぞ、ボートを」

 医師はそのことを乗客説明する。乗客は誰も逆らわないで、医師の言うことに従った。乗客は散り散りになっていく。見つけた場合は医師の端末に連絡を入れろ、と頼んである。

 乗客を見て、私も動くか、と思っていたときだった。

 茅島さんが耳元で囁く。

「ねえ、彩佳……上よ……上に行って……」

「上?」私は尋ねる。「上にボートがあるって話ですから、向かいますけど」

「違うわ……どこだろ…………えっと……そう、甲板……いえ、違う。もっと上……プールサイドよ。プールサイドに行って」

「あそこって……脱出口あるんですか? 行きましたけど、なんかそういう感じじゃなかったような……」

「違うわ……犯人が、そこにいるみたい……」

 犯人。その言葉を聞いて、私は茅島さんを担いだまま、足に力を込めて駆けた。

「本当、なんですか?」

「多分…………あんなところにいるのは、普通の乗客じゃない……それに……」

「それに?」

「犯人が誰なのかは、もうわかってるから……」

 ああ、さすが、茅島さんは違うな。私は心の底から、それを実感する。

 とにかく急ごう。私は必死で走った。茅島さんは軽いけれど、それでも生きた人間ではあるし、一応耳が機械化されている分、きちんと体重はあるはずだった。振り回せるほど軽いというわけではない。足が重い。けれど、そんなことを意識の外にやった。

 エレベータが空いていて助かった。乗り込んで、プールサイドのデッキを指定する。

 登っていく、内臓が上からちょっとだけ押しつぶされるような感覚。

 いるのか、犯人が。緊張する。だれか、呼んできた方が良かっただろうか。精密女とか……二條とかを。そうも思ったけれど、脱出艇を探す方が、今は優先される事項だった。

 それでも犯人がいるというプールサイドに向かうことは、間違っているとは思えなかった。

 外。出る。

 そこには、茅島さんの言った通りに、人がいる。

 でも、ひとりじゃない。

 五人。スタッフの畳家。不良シスターの高瀬。御部善区在住の大学生、浅坂。その友人でA毒にやられて寝そべっている長鋪。そして、片足が機能で、友人が毒で死んだ中静。

 どうしてこの五人が、こんなところに集まっているのか。

「あれ、加賀谷さんと」畳家が言う。「茅島さん、ですっけ。見てくださいよ、ほら、救命ボート。しっかりしたやつ」

 確かに、小型のボートがある。屋根まで付いた、しっかりとしたプラスチック製の丈夫そうなものだった。スワンボートに似ているが、色は全面オレンジ色だった。

「……どうしてこんなところに?」私は尋ねる。

「私たちでボートを見つけたんだけど」高瀬が説明する。「ここに一つしか無いから、先にこれで脱出できるものはしてくれって、医師さんが言ってたから、そうさせてもらうつもり。だったよね?」

 高瀬は他の四人の顔を見る。

「ええ、そうだって聞いてる」畳家は頷く。「私たち五人で探してたら、たまたまここにボートがあったから……さっき医師さんに電話をして、あんたらはそうしてくれって言われたんです」

「ええ……」浅坂は頷く。「五人で見つけました。こんなふざけたクソシスターと探すのは嫌でしたけど……」

「私もそうです、この人たちに……」中静も言う。「四階の脱出口まで行ったんですけど、そこが駄目だって言われたから」

 きっとこれは……

「彩佳……」茅島さんが言う。「犯人は、一人で逃げると怪しまれるから……他の四人を呼んだのよ……」

「ええ……私もそう思います」

「彩佳……下ろして……。もう、少しくらいなら、歩ける」

「え、でも……」

「これから、犯人に……言いつけてやるの、自分の所業を」

 地に足をつける茅島さん。

 ふらふらとしていた。肩を貸してあげた。そうしてしばらくすると安定したのか、自分の二本の足で立った。

 毅然とした態度、目つき。それでまっすぐに、犯人が含まれる五人を見つめた。

「どうしたの」高瀬が不思議そうに茅島さんを見る。「なにか言いたい? ボートには、後二人ぐらいは乗れるかな?」

「いえ、行かせません」

 倒れていたときとは違う、はっきりとした発音をまともな声量でひねり出して、茅島さんは告げた。

「犯人。あんたは逃さない」

「犯人!」浅坂が嬉しそうに茅島さんに詰め寄る。「あなた、わかったの! 犯人!」

「ええ……。わかってる。自分で名乗り出るなら、早いほうが良いと思うけど、従う気、ない?」

 その言葉に、倒れている長鋪以外の四人は、お互いの顔を見合わせる。

「え、まさか」高瀬が狼狽して見回す。「この中に!?」

「シスター! あなたでしょ!」浅坂は、距離を取って長鋪に寄り添った。「来ないで! ボートにも近寄るな!」

「落ち着いてください!」畳家が止める。「……茅島さん。変なこと言わないで。早く乗り込んで」

「あなたには言われたくないのよね、畳家さん」

 凍りつく。

 一言で、全員が理解をする。

 畳家は、よくわからないような顔をして、首を傾げて尋ねる。

「どういう意味? こんな時にくだらない事を言って、場を乱さないでって言ってるの」

「そう。まだ名乗り出ないのね……」茅島さんは、腕を組んで笑った。「私は……あなたが犯人だって言ってるのよ、畳家さん」

 畳家は、

 犯人だと指摘された畳家は、

 それでもまだ首を傾げて、茅島さんを睨んだ。

「誰が犯人ですって? 私が? なんで? バカなこと言ってると、置いて行きますよ」

「本当はそうしたいんでしょう? 犯人」

「ふざけないでよ!」畳家は叫ぶ。「犯人って? 私が船に穴を空けたって? どうやって? その理由は?」

「違うわよ。あれは乗り込んでいた殺し屋が勝手にやっただけ。同じ組織なんでしょ? 仲が悪いのね。そうじゃなくて……あなたが毒ナノマシンをばら撒いた張本人だって言ってるのよ」

 畳家は絶句する。

 その彼女を見て、浅坂は長鋪の手を握りながら、畳家を軽蔑するような目で見た。

 中静はよくわからないとでも言いたげだった。

 高瀬が口を挟んだ。

「……畳家さんが? 本当?」高瀬は茅島さんに訊いて、畳家から離れるように、私たちの側に立った。「どうして? この人が、どうやってナノマシンなんか」

「大した手段じゃないですね」茅島さんは断言する。「邪魔な要素が多かったから、ここまで見つけられなかっただけで、大掛かりに豪華客船を現場に選んだ割には、大した方法ではありません。推理も推察もクソも無いです」

「じゃあ……」畳家は言う。「なんで私が犯人だって言うのよ」

「方法よ、ナノマシンを私たちの体内に入れた。その方法が、他に思いつかないから、あなたしかいないの」

 海風がキツい。茅島さんの声が、聞き取りづらいくらいに。おまけに、寒い。波の音も聞こえる。

 それでも茅島さんは、風に揺らされる長い髪を、邪魔だとも思わないで、そのまま話を続けた。

「断言するけど、あなたの方法は単純。彩佳の言うように、プラネタリウムじゃないし、それに類する施設でもない。そこまで全員が揃った催しが、パーティ以外に無いから。パーティ会場の料理かなにかにナノマシンを入れたとすると、毒の被害者が、こうして綺麗に半数に別れている理由が説明できない。もっと多くなるわよ。じゃあそこで疑問。どうして半数なの? そこに答えがあるわけ」

 茅島さんは、腕を組んで畳家をじっと見据える。

「この船、今回のクルーズは、ほとんど全員二人部屋。そうでしょ?」

「そうだけど、そんなの始めに説明されるでしょ」

「毒にやられたのは、二人部屋の内片方の人だけ。部屋の二人ともが倒れてしまった、なんてケースは確認されていない。彩佳、そうでしょ?」

「え? えーっと」考える。医師たちと、部屋を回った時のこと。「確かに……そうですね。私が見た限りでは……」

「ここに考えるポイントがあるのよ。どうして片方だけなのか。その理由は、きっと乗客全員を毒にした場合、毒になっていない自分が目立つから、っていうものでしょうけど。これはその方法にも直結してるの。ねえ彩佳。夜に部屋にいて、することって何?」

 また頭を捻って考える。なんだ? 睡眠? 着替え? 夜食? 晩酌? 映画を観る? 読書? 性行為? 借りたゲーム? なんだかどれも、茅島さんが言いたい結論とは違う気がする。

 他に何かあっただろうか。毒を仕込むのに、都合が良いこと。畳家が行えるもの。

 畳家はスタッフだから清掃で、各部屋の出入りはそう不審でも無い。向坊や他のスタッフとの役割分担はあるだろうが、この程度の乗客、おそらく全部自分一人で回れない分量でも無い。

 スタッフの仕事。

 清掃。

 部屋の物を取り替える。

 基本的に、夜使用するもの。

 都合が良い物。

 ああ、

 なるほど。

「歯ブラシだ……」

「そうよ、彩佳」茅島さんは手を叩く。「聞いた? 畳家さん。歯ブラシにナノマシンを仕込んだって私は思ってるんだけど」

「歯ブラシって……」畳家は鼻で笑った。「そんなの、朝使ったり夜使ったりでまちまちじゃないの」

「昼間に取り替えれば使うのはその日の夜でしょ。あなたは、二人部屋の片方だけ歯ブラシに素早くナノマシンを仕込んだのよ。コップに差してあって、そこに名前なんて書いてないから、ナノマシンを仕込む人は判別できないけど、あなたにはどうでも良いでしょ。あなたは、天岸さんだけ狙いたかったんでしょう?」

「なんでそう思う?」

「だって、そんな特殊な機能を用意して、その開発者が偶然居合わせるなんておかしいわよ。あなたは、明確な意図で、その機能を使って、天岸さんを狙った。天岸さんだけB毒だった理由は、私にはわからないわ。単なる嫌がらせか……そもそも、あなたは自分の機能のことを知らず、偶然そうなったのか。そこのところは、ずっと倒れてた私なんかにはわからないわ。でもこれだけは言える。歯ブラシにナノマシンを使う以上、犯行が可能なのはあなただけ」

「はあ? おかしいでしょ! 清掃スタッフは、他にも向坊だっているでしょ。それに部屋のふたりともが健康な人だっているじゃないの。その人は、歯を磨いてないってこと? そんな人、ほとんどいないでしょ。あなたの考えは、甘いわ」

「向坊さんは、タバコアレルギーだった。知ってるわよね?」

「……ええ。なんか、検知器をずっと持ってて、馬鹿みたいだって思ってた」

「知ってる? うちの上司の部屋。あいつら、頭おかしいんじゃないかってくらいタバコを吸っててね、部屋に入っただけで煙たいくらいなのよね。で、その部屋の住人の一人が、毒にやられて倒れてる。向坊さんが毒を盛るとするなら、あの部屋に入らないといけないんだけど、重度のタバコアレルギーの彼女に、そんなこと出来るかしら? 毒の前に、自分の体調が酷いことになるんじゃないの? でも、そんな様子、あった? 一緒に働いている、あなたならわかると思うけど。乗客に訊いてもいいわよ。彩佳も、なにか知ってると思うし」

「…………」

「それに、うちの精密女」茅島さんは笑った。「あの女、死ぬほどズボラでね、旅行先なんかでは歯なんか磨かないのよ。歯磨きガムで代用してるわ。もしかしたら、今回みたいに、なにか混入している場合のことを考えていたのかもしれないけど、それが功を奏したわけ。あなたはあの部屋にもナノマシンを仕込んだ。けれど、あの部屋の二人は、誰も毒に倒れていない。その理由は、精密女の方の歯ブラシに、あなたはナノマシンを仕込んだのだけれど、あの女が歯ブラシなんか使っていなかったから。あ、そうだ。なんなら持ってこさせましょう。精密女にあてがわれた歯ブラシを。そこに証拠のナノマシンが潜んでいたら良いのよね? そうしましょう。彩佳、精密女に電話」

「あ、はい……」

「待って!」

 鋭く叫んだのは、

 畳家。

 そして、げらげらと笑って、ひとしきり笑ったあとに、

 頭を抱えて悲しんだ。

「ああ…………おかしい」畳家は、ひねり出す。「…………これでも、考えたのよ。一生懸命……組織の人間の手も借りないでさ、考えたのよ。でも、やっぱり駄目ね。向いてないみたい。私は……結局、しがない清掃スタッフで一生を終えるのが、一番適してたのよ、きっと……でも、そのわりには、あなたたちだって、時間がかかったわよね」

「調子が万全だったら、もっと早かったわよ……でも、単純な仕組みを毒を使って盛大に誤魔化した点は、評価してあげる」茅島さんは一息をついて続けた。「それで、私の疑問に答えてくれる?」

 畳家を見る高瀬の目が変わる。中静も、警戒を強める。浅坂は、さっきから変わらない。

 船が、もう何処となく傾いているような気がする。明らかに、私の立っている場所は、水平ではなかった。

 けれど、畳家が、何を話すのかは、気になる。

「何が聞きたいわけ?」畳家は諦めたように両手を上げる。「答えられる範囲なら」

「天岸さんを何故B毒に?」

「あんたの言った通りよ。知らなかったの、この機能について。だって、買ったばかりだったんだもん。犯罪組織にだって、まだそんなに長くいるわけじゃないわ。右手と左手で、ナノマシンの性質が違うだなんて、当然誰も教えてくれないもの。天岸だけがB毒だった理由は……きっと、恨み。憎しみを込めすぎたの。いつもだったら、左手で歯ブラシを握って、右手で毒を仕込むだけだったんだけど、天岸の歯ブラシを持った瞬間に、この女に対する恨みが湧いてきてさ。思わず利き手の方で握っちゃったわけ。そうすると、左手で毒を打ち込むことになるわよね。あーあ、失敗だったな。どう考えても、全員同じ毒にしてる方が良かったわよ。天岸が、あんなに動けるなんて。それに、あなたたちが治療できる分のナノマシンも、確保されちゃったしさ。まずったな……」

 まるで、定期テストでミスをした程度の扱いにしか思っていない風に、畳家はそう話す。

「天岸さんの機能のことは知っていたの?」

「御部善区のこと? それは知らなかったな。知ってても、別に躊躇うことはなかったけど。どうでもいいもん。御部善の人の命より、私の復讐のほうが大事。天岸が、人体実験で人を犠牲にしたっていうのは、当然知ってた。この毒ナノマシン機能の開発者で、持ち主だっていうのも知ってる。知ってないと、こんなことやらないでしょ。私の友人がね、死んだの。その子はES30ワードにいたんだけど、天岸を含むイエシマの実験に巻き込まれて、死んだ。その恨みよ。天岸に、その子のことを訊いたんだけど、全く覚えてなかったから、もう殺すことに何の抵抗も感じなくなったの」

「その機能は、何処で?」

「天岸が、実験に使ったのと同じ機能を、市場に売りさばいてるっていうのは、組織の情報網から知った。私が犯罪組織に拾われたのは、まあ大した理由じゃない。給料が、清掃スタッフだけでは物足りなかったから、ちょっと応募してみたってだけ。組織も、私のような末端の人間に、命の危険がある仕事をやらせることもないし、賃金も良かった。そりゃあ、街で犯罪が横行するわね、って思ったの。それで、天岸の機能が売りに出されてるって聞いて、私は迷わずにそれを買った。もともと、機械化能力者だったから、パーツを換装するだけで自分に装着することが出来た。この毒で……天岸を殺してやろうって、そう誓った。それだけの話よ」

 平然と、畳家は両手をプラプラと振る。そこに、あの憎いナノマシンが潤沢に含まれていると考えると、恐ろしい気分になる。

「それで? もう訊きたいことはない?」畳家は茅島さんを見つめて、話す。「えっと、こういうのってフーダニット、ホワイダニット、ハウダニット? とか言うんだっけ。誰、何故、どうやって。ほら、もう全部話したわよ。もう良いわね。早くしないと、船が沈んじゃうんだから」

「まだよ。峰崎との関係は?」

「組織の同僚って言うだけ。別に、仲が良いわけでもない。私が今回のことを計画しているのを知って、なんかあんたたちの厄介な施設の人間を、上手く殺すために便乗させてほしいって、そう言ってきたの。嫌だったけど、邪魔しないなら良いし、なんなら、施設の人間に毒を盛ってあげるって言うと、馬鹿みたいに喜んでた。代わりにお金ちょうだいって言ったら、払ってくれたわよ。でも、まさかこんな、船に穴を空けるなんて愚行に出るなんて……あんな奴、呼ばなきゃ良かった。いなかったら、あなたも来なかったから、私の犯罪も、明るみに出ることは無かったのにね」

 畳家は、救命ボートを叩く。

「船長に進言して、プールサイドには乗客の人数の関係で、救命ボートが用意されてなかったんだけど、ここにも必要あるですって言って、取り付けてもらったの。本当は、向こうに着く直前か、救援のヘリコプターとか船が来る前に、このボートで逃げようって計画だったの。組織に連絡すれば、回収して貰える手筈になってるわ。まさか、沈む船から逃げることに使うとは思わなかったけど」

 畳家は私たちを睨む。

「まだこのボートに乗せて貰える、なんて思ってる人はいないわよね。これは米国か日本化の安全な場所に行くんじゃないの。私の組織に直行するだけのボートよ。ほら、わかったら散って。救命ボートは、いくつか捨てたけど、他にもまだあるわ。さっさと探した方が良いわよ」

 そう言って、ボートの準備をする畳家。

 さっきよりも、船の傾きが酷くなっている気がする。私の思うよりも、ずっと早くこの船は沈むのかも知れない。

 時間はない。残念だけど、真相を聞けただけである程度は満たされている。この女を逃してしまうが、こんな所で死ぬのはいささか私の理想とは違う。

 逃げようと茅島さんに呼びかけようとすると、近くにいた高瀬が動いた。

 手には、短刀。

「そっか……あんたが、イエシマの人たちを苦しめたんだ。へえ。イエシマに文句があるの? あんたも御部善区の人間と同じ?」

「はあ? イエシマとかそういうのは興味無いわよ。御部善も気の毒だと思うけど、実際どうでも良いわ。天岸が死ぬことの方が嬉しいもの」

「でもこの船を沈めるような人間と同類でしょ? 気に入らないな、私は」

 見ていた浅坂は言う。

「そいつを許しちゃダメ! シスター! 刺して! そいつは、伊久美をこんな目に遭わせたクズよ! 刺して!」

「御部善の人間に指図されたくないから黙って」高瀬は一蹴する。「でもこいつを逃すのは間違ってる。イエシマを愚弄してる犯罪組織の人間は、ここで殺しておかないと」

「彩佳……」茅島さんが、私を呼んだ。近寄ると、倒れるような姿勢で、私にしがみついた。「無理に立って、疲れたわ……」

「……ありがとうございます」私はまた彼女を背負った。「逃げますか?」

「……いえ、精密女を呼びましょう」

 私は頷いて電話を掛ける。横目で、高瀬と畳家の様子を見守る。

 二人を見ていた中静が、近づきながら言う。

「私も……この女、許せない……あなたのせいで……あの子が死んだの! あなたのせいよ! 殺す! 絶対この手で殺してやる!」

 片足に手を掛ける。何をするつもりなのかはわからなかった。

「あなたたちさ、お客様。大人しくしてくださいよ。非常事態です」畳家が呆れたような顔をした。「私を取り押さえるのは、素人には無理よ。これでも犯罪組織で働いてるサイボーグなんだから、その危険性はわかる? もう何人も殺してる。あなたたちをその殺害数に増やしたって誤差みたいなものよ」

 そう言っている間に、

 高瀬は畳家に突進する。

 短刀。

 それを何処に突き刺すのか。

 畳家は不意を突かれたのか驚いた顔を浮かべていたが、

 短刀を片手で受けようとする。

 しかし、刃先は畳家の掌を抜ける。

 高瀬は身体を捻る。

 渾身。

 短刀を思い切り突き刺した場所は、

 畳家の右腕、

 その関節部分。

「…………」

 畳家は、自分の腕に突き刺さった短刀を眺める。

 血は流れない。ナノマシンが、大量に詰まっているだけの、機械の腕だ。

「これが、機械化能力者に対する術だよ」高瀬が言う。「機械といっても、関節はどうしようもないでしょ」

 しかし畳家は、左腕を伸ばす。

 高瀬の胸ぐら。

「左手が残っていれば十分よ」

 そうして思い切り、

 高瀬を投げ飛ばす。

 玩具みたいに、高瀬は宙を舞った。

 シスターみたいな服が、風に吹かれているのがよく見えた。

 彼女の身体は、そのまま船の外へ。

 海原。

 海に吸い込まれていった。

「きゃああああ!」浅坂が叫んだ。「ひ……人殺し!」

 この冬の海だ……。

 ほぼ確実とも言える確率で、凍死する。

 高瀬……死んだのか……?

「あのね、人殺しって……今更よ、それ」畳家が腕の短刀を引き抜いて、捨てた。関節は破壊されたのか、動いていない「邪魔しなければ、別に危害なんて加えないわよ。私だってこんな所で凍死なんかしたくないし。あなたたちも、早く逃げた方が良いわよって、さっきから言ってるじゃないの」

「ダメ……」臆することもなく、中静が近寄る。「あなたは、死ななきゃいけない……」

「殺されたいようね、あなた。海に投げ込んであげるわ。来なさい」

 中静は脚を取り外して振りかぶる。脚に斧が仕込まれている非合理な機能。

 けれど、威力は侮れないだろう。

 畳家はそれを、一歩下がって避ける。

 斧は傾いている床に穴を開けただけだった。

「なんて無駄な機能。そのために脚を?」

「黙れ……」中静は勢い余って倒れ込んでいる。

「私だって、殺したくて殺してるわけじゃない。あなたはそこで大人しくしてて。あなたじゃ私を殺すなんて無理でしょ。わかるわよね。殺さないであげるから、じっとしてろって言ってるの」

 そう告げられて、中静は悔しそうに唸る。

 どうする。畳家を、このまま逃した方が良いのか?

 精密女は、電話に出ない。どうした。忙しいのか。こんな時に……。

「で、さっきの女」畳家。「茅島ふくみ。あなたはまだ私を捕まえようっていうの? 諦めてくれるわよね? 変に勘は鋭いみたいだけど、そんな体調じゃ無理よ」

 茅島さんは、私の背中からじっと畳家を睨んでいた。無理をしたせいか、反論する気力も無いようだった。

 畳家は私たちを無視して、操作盤を触って、救命ボートを海へ下ろし始める。

 もう甲板の傾きが酷くなっている。乗客は、ボートを発見できているだろうか……。

 電話。

 応答。

『彩佳さん、今どちらに?』精密女。

「精密さん、甲板! 犯人が逃げます!」

『……彩佳さん』間があってから、精密女の声。『船の状態は、知っているでしょう。もう時間がありません。犯人は、残念ですが、放置する他ありません。犯人が誰なのかは、わかってるんですね?』

「はい。茅島さんが、説明してくれました」

『なら、後でなんとでもなります。今は、脱出を最優先に。第六デッキに来てください。つまり六階です。その後部側に、救命ボートがいくつか残っているので、それと他の場所を合わせると、乗客の分は足ります。急いで』

「はい……」電話を切る。「茅島さん……」

「見逃せって?」

「そうです、残念ですけど……」

「まあ……このままじゃ、せっかくナノマシンから助かったっていうのに、死んじゃうだけだものね……」

 私は中静と浅坂に声をかける。

「ねえ、浅坂さんと、中静さん! 第六デッキです! そこに、救命ボートが」

「…………行かない」浅坂の返事。「伊久美を置いてなんて、行けない」

 長鋪は、ずっと静かだった。

 もしかすれば、もう……

「……なら、止めません。あなたを、尊重します」

 私は言いながら、天岸のことを思い出していた。浅坂にとって、正しいことは、ここで長鋪と死ぬことなのかもしれない。その気持を、私は汲める。

 中静に声をかけて、彼女を連れ出そうとしていた時のことだった。

 こんな土壇場で、プールサイドに現れる人物がいるなんて、私は予想できなかった。

「先輩」

 その声は、酷く冷めきっていた。もしかすると、冬の海よりも冷たいのかもしれないと思った。

「逃げるんですか、先輩」

 片方の腕が光っている。機械化能力者だったことを、誰かに聞いただろうか。

 今まで何処にいたのか。吹っ切れたような表情すら浮かべていた、その女。一歩一歩、これから成すことに、覚悟すら決めているような佇まいがある。

「向坊さん……」畳家は作業をしながら名前を呼んだ。ボートは着水し、あとは縄梯子を下ろして乗り込むだけだった。

「さっきの、茅島さんがしていた話は、聞いてたんですよ」現れた女、向坊は言う。「やっぱり、私がこの船を仕切るべきだったんだ。これじゃ……こんなクソみたいな裏切り者がいたんじゃ、船長も浮かばれないよ。可哀想」

 向坊は続いて、呆然としている私たちに言う。

「さ、行ってください。救命ボートは六階です。中静さん、浅坂さんを無理やり連れて行ってください。長鋪さんは、もう手遅れです」

「向坊さん、あなた……」中静が、向坊の腕を眺めて、呟く。

「私は、この船のスタッフです。最大限、乗客を守る義務があります」

 畳家と、向かい合う。

 仁王立ち。

「こんなバカみたいなクソ先輩と違って、私はちゃんとしたスタッフなんですよ」

「言うわね、向坊さん」畳家が不満そうな表情を浮かべる。「でも、私だって、犯罪組織に属してるけど、きちんと船の仕事はしてきたわよ」

「じゃあ犯罪組織の仕事なんて……天岸さんへの復讐なんて、船に持ち込んで来て、乗客の皆さんを巻き込むべきじゃなかったんだよ。それがわからなかった時点で、あんたをもう先輩だなんて呼ぶ必要すらないね」

 右腕を、構えた。

「あんたを殴り伏せて、施設の人に渡すよ。そして、警察に引き渡して、それなりの裁きを受けてもらう。それが普通でしょ。これだけ殺しておいて、逃げるなんてナシだよ」

「悪いけどね、向坊さん。あなたに付き合ってられないの」畳家は呆れる。「危ないから、避難しなさい。先輩の命令よ」

「あんたという巨悪を処理して、私は船長を継ぐよ」

 向坊は、殴りかかった。

 畳家も応戦した。

 向坊の腕は、異常な強度を誇るらしく、畳家の腕を跳ね飛ばした。

「あ……あなたねえ!」畳家。「この状況をわかってないの!? 沈むのよ、船が!」

「なら、一緒に乗ろうよ、救命ボート。私が責任を持って、警察まで連れて行ってあげるよ」

「誰が乗せるか!」

 そのまま見ていたい気もした。

 けれど、船の傾きが深刻だった。

「彩佳」茅島さんが言う。「行きましょう……。向坊さんに、任せましょう」

 頷いて、私たちは中静、そして嫌がる浅坂と共に、船内へ戻る。浅坂がまだ騒がしかったが、どうでも良かった。

 六階だ。ボート乗り場なんか、どこにも無いじゃないか。客室ばかりが並んでいる。

「彩佳さん!」

 精密女。部屋の中から手招きをしている。

 入る。部屋の等級の高く、広い。

 医師、美雪、二條、戸ノ内、臨床、岩名地。施設の面々が揃っている。

「ここのバルコニーにな」医師が説明する。「救命ボートが備え付けてあるんだ。この人数だと、半数で別れたら、ふたつで十分に乗れるだろう。急げ」

 バルコニーの手摺、その真下に救命ボートがあり、近くには梯子。海までの高さはそれなりにあったが、降りることが不可能な高さでもない。むしろ傾いている分、海が近い。

 私たちは、そうして、なんとか海に浮かべた救命ボートに乗り込んだ。

 ボートの中は狭かったが、いろいろと非常時に備えての食料や救急キットが置いてあった。屋根もある。トイレもあって、狭いながら椅子もあってシートベルトが付属していた。意外と居心地は良かった。

 ふたつのうち、こっちのボートには、医師、美雪、臨床、そして私と茅島さんと浅坂が乗った。必然的に、もう片方のボートには、精密女、二條、戸ノ内、岩名地、そして中静となる。

 茅島さんは、私の隣で眠ってしまった。あの体調で、眠ることもなくずっと起きて耳を使っていたのだから、その胆力は尋常ではないと感じた。しかし眠ってしまったせいで、医師に真相を説明するのが、私の役目になってしまった。

 高瀬は、おそらく死んだ。海に落ちたことを確認できなかったが、落ちれば無事では済まない。

 向坊も、畳家を止められたかどうかは知らない。本当に、同じボートに乗って、畳家の犯罪組織に拾われてしまうかもしれないが、向坊なら、何故か大丈夫な気がした。

「…………最悪だな」

 医師は、小窓から、外を覗き込みながら呟く。

 そこから見える物なんて、沈みゆく豪華客船しかない。

「いや、私たちが生きているだけで、マシなのか……」

 私も窓を覗く。

 あの豪華客船が傾きながら沈もうとしている。想像通りの光景だった。ある種の感動はあったが、別の感動はなかった。

 他の乗客を乗せたボートは、海上の何処かを漂っているのか。

 その中には、毒に罹った人間もいる。

 海の上で、ボートの中で、息を引き取る人間だっている。

 その人間の生とは。

 生きていた意味とは。

 死んだ天岸の意味。

 犯人の行いの意味。

 それらの、是非。

 寒い。

 こんなボートに、暖房設備なんかない。この寒さは、命のありがたみだって、押し付けられているみたいだった。

 それが無性に気に入らなくて、私は隣の茅島さんを抱きしめて、眠った。

 私に必要なものは、これだけだった。

 これが私にとって、一番正しい暖の取り方なんだよ、天岸。

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