4
天岸の死体。
あれほど渇望した天岸の死。
実際に訪れてみれば、ただただ虚しいだけだった。私は、この女に生きてほしかったわけでもないのに、いざ死んでみれば、いい気分がするものではない。
仰向けに、腹を押さえて、なんだか幸せそうな笑顔を浮かべたままの死体を見下ろして、私は二條に話す。
「医師に連絡してください。天岸さんが死んだって。それから、ナノマシンは、施設の人にのみ使って、他は見捨てるように天岸さんが言っていたことも」
「……あなた」二條は私を軽蔑するように睨む。「なんでそんなに冷静?」
「あなたを助ける前に、天岸さんから話は聞いてたからです」
「そんなことは知ってる。私は、倫理の問題を話してる」二條は舌打ちを漏らす。なんなんだこの女。「私は、人が死ぬことが正しいなんて思えない。この人を犠牲にして施設の人間を助けるのは間違ってる……御部善区も、毒に侵された乗客も見殺しにするなんて、絶対おかしい」
「じゃあ今からなにかできますか?」
「犯人を探す。それで全部丸く収まる」
「それでも、天岸さんが死んだことには変わりません。御部善区は既に救えません」
「御部善の区役所に電話して、退避させる。無理なら、イエシマに言って……」
「もう機能は、きっと作動しています」
天岸の腕を見る。手の甲の中央に一センチほどの楕円形のランプのようなものが、彼女が死んでから青く発光していた。きっと、機能が動作している証拠だろう。
それに退避なんて、あそこの住人はやらないんだろうな、なんて天岸とか高瀬の話を聞くと、何となくそう思う。
もう遅い。
何をしても救えないものがあるって、どうしてこの女は頑固なまでに理解しないんだ。その頭の硬さで、施設では茅島さんと同じような扱いだなんて、まったくもって不可思議だった。
「死んでしまった彼女の遺志を無駄にするのは、どう考えたっておかしいです」私は端末を起動させる。「もういいです。私が医師に電話します……」
「……いい。私がする」彼女は残った右手一本で、私を静止した。「……あなたには、重い」
二條は医師に電話をかける。天岸が死んだことと、峰崎をようやく気絶させたことを話す。
本当に峰崎は気を失っているのか、私は峰崎に近づいて顔を叩いてみた。
「……なにすんだ」
「……意識、あったんだ」
返事をした峰崎に、私は驚くまでもなくそう言い返した。
けれど峰崎は襲ってくる様子もなく、全てを諦めているようだった。諦念、という単語がこれほど似合う人間は、現時点ではきっと、峰崎しか存在しない。
「残念だけど……」峰崎は目を瞑りながら言う。「私を拷問したって、犯人のことは吐かないよ。いざとなれば、体内に酸を逆流させて、死ねるようにしてるんだから。それに、あいつのことも、よく知らない。本名だってね。私を捕まえたって、意味ないよ」
「あんた」二條がいつの間にか覗き込んでいた。電話は終わったのか。「そうやって、穏便に米国まで逃げようっていうの? それは許さない。捕まえる」
「はは……米国なんて、たどり着けると思う?」
「その怪我じゃ、まだ死なない。ここで寝そべっていれば、気づいたら米国」
「そうじゃなくて……私がなんの策も講じてないと思う?」
「……何が言いたい?」
峰崎は、何を言おうとしているのか。
小さく笑いながら、言う。
「私は……あの女の計画に便乗しただけ……別に、仲間でもなんでもない……異分子なんだよ、私も、私を追ってきたあんたたちも……」
「だから何?」
「私は、あの女に片腕を潰されてから……もう死ぬと思ってた。だから最後に……みんなを道連れにすることにして、あんたたちに手を出す直前まで、作業をしてた」
「はっきり言ってって言ってるでしょ」
二條はそう言うが、私には、なんとなくその先の言葉がわかってしまった。
「酸で船底に穴を開けるなんてやったことなかった。だから、実験したんだよ、民間船で。あれに何が積んであったかは知らないけど、上手くいって良かった。今度はこの船……構造がややこしくて、材質も違ったから、時間をかけたのにあんまり穴は空かなくて困ったよ。数箇所空けるだけでも苦労した。でも、それだけでも船を沈めるのは十分でしょ」
「お前!」二條は峰崎の髪の毛を掴んだ。「何処!? 穴は!」
「言うわけないでしょ……私は、機能でいつでも死ねる……拷問は無駄だし、そんな時間も無いよ」
「クソ!」
二條は峰崎を殴った。峰崎は痛がりながらまだ笑っていた。
「だから私のことなんか……気にしないで早く逃げた方が良いよ。こんなデカい船って言っても、穴を空ければ一発でしょ……」
「ふざけるな……なんでこんなことを。イタズラに乗客を巻き込むな」
「言ったでしょ。私はもう死ぬ……。組織は、あんたたちを私に殺すように依頼したけど、これで失敗すれば二度目だ。消されるよ。米国にたどり着いた瞬間、頭を撃ち抜かれる。こっそり逃げようにも、こんな状態じゃね。だったら、皆殺しにしようかなって」
「…………クズ」
「なんとでも言いなさい」峰崎は、何処か悔しそうに口にする。「私にとって……これしか方法がなかったの。こうやって生きるしかなかった。何か間違ってる? っていうか、間違ってるだなんて言える? じゃあどうしろっていうの? 私には、これしかないんだよ。これしか……人を殺して生計を立てるしか、犯罪組織に属することしか……駄目だったら、どんな手も使うしか……私にはなかった。普通の人生に戻れるとしても、きっと私には無理。お前には、わからないでしょ」
「私は自分のやり口が、客観的に見ても正しいって信じてるんだよ、一緒にしないで」
「言ってもわからない女ね……。私は、それも同じだって言ってるんだよ。でも、こうなっちゃったんだから……結局、私はどうすればよかったんだろうってね。お前に言っても無駄か」
二條はまるで理解を示さなかったが、私にはどことなく、峰崎の気持ちがわかった。
天岸だって、峰崎だって……そういう二條だって、私だって……自分の絶対的な判断基準に、縋って生活しているに過ぎない。例えば私は、茅島さんと一緒に死にたいし、そのためならなんだってするし……でもそれが間違っていると言われたら、どうすれば良いんだろう。
峰崎や、天岸はきっと、間違っていると言われる側だった。なにか正解に導いてくれるようなレールがあるわけでもなく、砂漠に放り出されるみたいな気分になったとしたら……。
二條は医師にまた電話をかける。船が沈みかけているだとか、傾いているのかどうかを確認するためだった。
電話をしながら医師は、船長室の近くにいる施設の人間に、機器の様子を見てくるように頼んだ。あそこには、船長が死んで以来誰も近寄っていない。なにか異常が通知されていたとしても、それを確認はしていなかった。
船長室の近くにいたのは、精密女だった。この女に機械の事がわかるのかは知らなかったが、船の機器からアラート音が鳴っているという。精密女は畳家に確認を取って、その意味を尋ねた。すると、返ってきた答えは、想像通りのものだった。
船体が沈んでいる。
その事実が二條にも告げられたとき、聞いていた峰崎は「だから言ったじゃん」なんて、私たちをバカにするように言った。
「優先事項……」二條は電話をしながらつぶやく。「何を優先すれば……乗客の避難? それとも……犯人確保?」
『ちあき。とりあえず、天岸さんの死体を、私の部屋まで運んでくれ。りたの腕の準備をしていて良かった。天岸さんの言う通り、施設の人間にナノマシンは使い、他は見捨てる。もうそれしか手はない』
「それで良いんですか、医師……それは、正しいんですか」
『正しいんだ。他に手は無いからな。天岸さんが切り開いた道なんだ、これは』
「そんな感触の良いポエムを言ったところで、私は納得できません」
『じゃあこう考えろ。ナノマシンでふくみが目覚める。あいつの実力は、お前と並ぶほどだ。お前とふくみがいれば、この土壇場でも犯人を見つけられる。良いか? そうすれば、乗客は全員助かるんだ。それしか無いんだよ。納得しろ』
二條は、何をふざけたことを言ってるんだこの女、とでも言いたげな表情を見せながら、それでも何も言わないで熟考した。そこには、医師がまともな考えなのか、それとも茅島さんに頼ることが気に入らないのか、よく判別出来ない葛藤がある気がした。
やがて二條は口を開く。
「…………わかりました。すぐに、天岸を連れて向かいます……」
『ああ、頼んだぞ……』
「……それと、峰崎はどうしましょう」
『……そっちは、加賀谷さんとお前か……天岸だけでいい。片腕のお前じゃ、ひとりで人なんて運べないだろう。見捨てろ』
「はい……」二條は電話を切って、私を見る。「加賀谷さん、聞いた? 二人で天岸を運ぶ。天岸をひとりで担ぐなんて、あなたには無理でしょう」
天岸の身体を見る。確かに、この女、背丈があってあまり簡単には行かないだろう。残念だろうが、峰崎は置いていくしかなかった。
それを聞いてか、峰崎は腕を振った。酸が漏れていて、手首から先が無くなっている、機械の腕を。
「じゃあね、あんたたち……私は、ここで死ぬよ。もう動けないし」峰崎は、ぼつぼつと話す。「あんたたちに、天岸の死体をもたらしたことは、感謝してほしいな」
「…………誰が礼なんて言うか」二條は唾を吐くように答えた。「あなたの人生は、他人に迷惑をかけるだけの無意味なものだったって語り継ぐ」
「ふん……人の記憶に残れるだけ、まともな人生だったという事にする」
「あんたには、かける言葉もない」
私と二條は、ほとんど天岸を引きずるような形で、倉庫から運び出していた。
ここは、船のデッキの中でもかなり下層のほうだった。確かに、峰崎から逃げる際に、いくつかの階段を下った覚えがある。そこから、天岸の死体を上の方に運ぶことになるなんて、想像もしなかったけれど。
二條は左利きだったが、左手は失っている。言うことをさほども聞かない右手と、大した力はない私の両手では、天岸をきれいに運ぶことなんて無理だった。一応、私の上着を天岸の腹部に巻きつけて、これ以上の出血をなるべく抑えるようにしたけれど、天岸の体内に本当にまだナノマシンが残っているのかは定かではない。
廊下を苦労して進んでいる時に、アナウンス。
『緊急放送です。緊急放送です。当客船は、人為的な事故により沈没の危険性があると判断しました。沈没の危険性があると、判断しました。乗客の皆様につきましては、四番デッキ、四階にあります非常用ボート乗り場に起こしください。焦らずに、お越し下さい。ボートは全員分ありますから、焦らずに四階ボート乗り場までお越し下さい。できる限り持ち込んだ荷物は、置いてきてください。繰り返します。当客船は……』
誰の声だろう。畳家か、向坊か、それとも施設の人間だろうか。その声質は、こんな違った環境で耳にすると、いつもと違った印象が強かった。少なくとも、医師や精密女や美雪の聞き慣れた声ではなかった。
えっと……茅島さんにナノマシンを投与した後は、すみやかに四階まで行ってボートで脱出すれば良いのだろうか。でも、そうすると、犯人を探す暇は当然無い。死ぬよりはマシだろうけど、この二條はきっと、医師の言葉を真に受けて、こんな状況で犯人を探し出すに決まっている。そういう女だと、今回一緒にいて理解した。
犯人を探す材料なんて、私は揃っているとは思えなかった。二條はそれを、頭で理解しているのに認めようとはしないだろう。
黙々と進んでいるのに、歩みが重い。放送で言っていたのに、荷物をまとめて部屋から飛び出してきた乗客と何人かすれ違う。天岸のこの状態を見ても、なんとも思わないらしい。そんな余裕が、無いということだ。
まだか……医師の部屋まで、まだある。何処からか、乗客の悲鳴まで聞こえる。エレベーターを待っている時間なんて無い。馬鹿みたいに混み合っていた。まだ階段を上がって、それから階段を上がって、それから……長い廊下を進んで、医師の部屋にようやく辿り着く。
船は、保つのか。傾きはまだ感じない。いや、ひょっとすれば傾かずに、そのままの綺麗な姿勢で海に沈んでしまうのだろうか。気づいたら、もう窓の外は海で、水圧に潰されて、私たちは死んでしまうんじゃないか。水圧なんかなくたって、冬のこの時期に、海なんて入ったらそれだけで凍死する。
まだか……
茅島さんまで、まだあるのか。ナノマシンを打つ暇は? そもそも体力は保つ? まだ生きてる? 死んでいたら終わりだ。峰崎がまだ意識があって追ってきている可能性だってある。
不安。
そこへ、声。
「パスですパス!」
向かいから現れた女、精密女が走って来る。
あの腕力を知っている私たちは、迷わず天岸を精密女に手渡した。
精密女は、片腕で天岸を担ぐ。
身体が軽くなった。きっとそれは、物理的な意味合いだけではない。
「さあ、行きましょう」精密女は廊下の先を示す。「準備は整っています」
「高瀬さんは?」二條は尋ねる。額に汗を浮かべて。「どうしたの?」
「彼女は、一発殴ったら大人しくなりました。まあ、結局は生身の人間ですね。それで、説得が通じたのか、しばらく私に着いてきてて、船長室を確認した後、船が沈むことがわかったて、それからイエシマの幻想が壊れたとか言って、どっか行きました」
本当なのか冗談なのかわかりかねる話をしながら、医師の部屋へ向かう。
たどり着いた時には、それなりの達成感を覚えてしまったが、そんな一息をついている場合ではなかった。
「よし、ここに寝かせてくれ」
医師は用意していたシーツを示す。そこへ精密女は、天岸を下ろして仰向けに寝そべらせた。
美雪はライトのようなものを天岸に向け、端末を確認して言う。
「あったよ、ナノマシン。これだけじゃ、Bなのかどうかはわからないけど」
「きっとBだ。天岸さんが言うにはな」医師は注射器を取り出す。「美雪。さっきの要領と同じだ。吸い上げて、ペットボトルに出していくから機械で検査してくれ」
「でも……そんな時間ある? 注射器一本で吸っていくって、結構掛かると思うけど」
「それでも他に方法はないだろう。なら、お前も吸ってくれ。これで二本だ」
「あの……」私は手を挙げる。「私もやります。血なんて、別に見慣れてますし……」
「そうか。なら頼んだ。注射器だけは何本かある。刺す場所を教えるから、言う通りにしてくれ。心臓が止まってるから、全身を刺さなきゃならん」
医師の指示に従って、血を吸っていく。精密女と二條は、片腕しか使えないから安定しないということで、特にやることは無いようだった。戸ノ内は、未だ何処か嫌そうな顔をして、私たちの様子を見つめていた。
ナノマシンが抽出できたのは、それからおよそ十分後。思ったよりも早いが、血を抜かれた天岸の様子は、既に変わり果てていた。医師はその上に、シーツを被せた。
「これで助かるだろう、私達はな……」
戸ノ内の腕を使って、抽出したナノマシンを増やした。成分とか、そういうのはどうするんだろうと思ったが、それも分子レベルで考えると、増やせる範疇のものなんだろうか。細かい仕組みは、よくわからなかった。ナノマシン増殖機の端末がここにあるから、戸ノ内で簡易的な増殖も出来るのだ、と医師は説明した。
増殖したナノマシンを、戸ノ内は倒れた三人に打っていく。もともとは、医療用の機能らしい。その手際は別に良いわけではなかったが、戸ノ内も慎重そうな顔で作業をしている。
茅島さんに、得体のしれない液体が注入されていくときの感情は、安堵というよりも不安だった。こんなことで、彼女は完治するのか。医師の説明を受けたって、イマイチ信用できない。
処置が終わった茅島さんに、私は話しかける。
「大丈夫、ですか……」
「ええ……」彼女から返事があった。ずっと起きている、とは聞いていた。そのせいか、しんどそうなのは様子は悪化しているように見えた。「しばらくしたら……よくなるの……?」
「そのはずです。何時間後なのかはわかりませんが……」
「ナノマシンは、すぐに活動を始めている」医師が私の後ろで言う。倒れている臨床の様子を見ながら。「ただ、毒を打ち込むだけで済んだ最初とは違って、その毒同士が作用しあって対消滅、それからナノマシン同士が連動して機能停止するまでは、しばらく時間がかかる。毒の周り具合で違うだろうが、二時間三時間くらいは掛かるだろう」
医師は立ち上がる。
「よし。私たちも非常用ボート乗り場へ行こう。加賀谷さんはふくみを担げるな?」
「はい、茅島さんなら、軽いですから……」
「精密女はエリサを。臨床は私が背負っていこう。ちあき」
「…………はい」不満そうに見つめていた二條は、問いかけられて返事をする。
「犯人を探すよりも、まずは脱出だ。死んでしまっては元も子もない。ちあき、わかってくれるか」
「……わかりませんが、それが正しいって言うなら、頷きます」
「乗客を含め、関係者の連絡先は、イエシマに提出してもらうように手配する。うちの施設だって国の認可を受けている。イエシマが不審がって断ることはない。後日、関係者へ聞き込み調査に行ってくれるか、ちあき」
「わかりました。その際には、必ず……」
そのやり取りを聞いていたのか、茅島さんは私の裾を引っ張る。私は、彼女の顔に耳を持っていった。
「ねえ、彩佳……私、考えてみる……耳で、ずっと話は聞いてた。多分、判断材料は出揃ってるから……あとは、冷静な頭で考えるだけ……」
「わかるんですか、犯人……?」
「さあ……。でもやってみる……。犯人を、逃したくないもの……」
「いや、良いんですよ、そんなの、今やらなくたって……」
「駄目よ、彩佳…………ここで捕まえないと……逃げ切られてしまうんじゃないかって、私は思う……向こうに、犯罪組織にバックアップがついてるなら、なおさらよ」
「……わかりました。でも、無理はしないでください」
私は茅島さんを背中に乗せる。身長も私より低くて、細い体。天岸とは違って、私の力でも、担いで歩き回ることは不可能ではなかった。
彼女の息遣いが聞こえた。
生きているんだ、彼女は。
ようやく私は、そこで彼女が助かったんじゃないかって、思い始める。
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