10
天岸は水の入っていないプールを眺めながら、タバコを吸っていた。
外の寒さに、もはや何も感じなくなってきていた。ただひたすらに、どうでもいい時間が流れている。どうせ死ぬ身だと思っていると、寒かろうが風邪をひこうが、興味すら持てなかった。
さっさと死にたいと思っていたのは、本当だった。しかしここまで生きながらえているのは、医師が止めたからだけではなかった。今死ぬと、自分の死をなにか別のことに利用される。そんな自分の意志からかけ離れたところで、自分を消費されるのが、なんだかものすごく嫌だった。ただそれだけの理由だった。
B毒に罹っている以上、綺麗に死ぬことも敵わない。今のところ容態は安定しているけれど、段々と身体の怠さが増して行ってる。寝不足のせいだけじゃない。何度も研究して、この毒の性質は自分が一番理解していた。死ぬ前になると、急に酷い状態になって、汚らしく死ぬ。そういう毒だった。
A毒のほうがマシだったな、と天岸は思う。Bなんて、変に意識があるだけで、嫌な恐怖心が湧いていくる。いつの間にか死んでいるほうが、絶対に良い。
みんな必死だった。タバコの煙を吐きながら、冷たすぎる夜風を受けながら、天岸は、毒を受けた連中を治してあげようとしている自分本位の奴らのことを考えた。誰しも、ああなってしまうのだろうか。あいつらに死を消費されることが、最も気に入らないと感じる。
そんな中で、加賀谷彩佳という女のことが、なぜか気になっていた。イエシマ社とは関係のない客で、友人の茅島ふくみを治療したいがために、色々と動き回っている施設の女。
多分、この加賀谷が最も必死なのかもしれない。態度に現れない表面的な部分で、天岸はそう感じ取った。乗客の誰よりも、友人の茅島ふくみのことしか考えていない。狂ってしまうのも時間の問題だろうが、それでも本当に狂ってしまった乗客とは何かが違った。
必死さ。
天岸に、とうに抜けてしまったものだった。死ぬからどうでもいいだとか、そんなことをまず念頭に置くようになって生活し始めてから長い。そういう意味では、あの加賀谷彩佳は新鮮に見えた。
文句ばかりを言う乗客とは違う。決定的に、何かが違う。
「私が、そう思い込みたいだけなんだろうね」
独り言を漏らす。
そうだ。天岸は、かつての自分の親友だった女のことを、加賀谷を見ている内に思い出していた。それが理由だろう。自分にも、そんな頃があって、その青春を、無条件に肯定したい、いや、そうでない乗客の連中を、ただ否定したいだけに過ぎなかった。
煙を吐く。ため息とともに。
どうしてこんな人間になってしまったんだろう。あの女……親友だったあの女は、今の自分を見て、何を感じるんだろう。
天岸はただ、世間の言う正しさから逃げ続けていた。
昔から、人が死ねば悲しいだとか、人を殺せば謝るべきだとか、そんなものをまるで理解できなかった。根本的に感情的なものが、彼女の心からは欠落しているようだった。
別に、そういう人間は珍しくはない。勉強をしてそのことを理解したが、問題なのは彼女へその正しさを押し付ける人間だった。頭では、天岸は自分を欠陥のある人間だとそこまで思わないというのに、周囲の環境が悪かった。
そうしている内に、あんな実験中の事故。
御部善区への引っ越し。嫌がらせ。
天岸はついに、そういう意見の押しつけに疲れて、死を選ぶことにした。
これ以上、無理をして生きる理由が存在しないからだった。
自分がこうなってしまったのは、別に悪いことじゃないっていうのに、あの女……親友にだけは許されたいって、なんで思うんだろう。
あの女との思い出の中に自分の心を隠して、傷つかないように守っているような気がする。単なる、心理的な反射現象だ。おかしなことはない。何も、おかしなことはないんだ。
「あんたを殺せば良いの?」
突然だった。
正面から、そんな聞いたこともない声で、女が天岸に向かって口を利いた。
その言葉の意味を考えるより先に、そんなことを口にするのは誰なんだろうと疑問に思った。
微動だにしないで、タバコを吸い続ける。
水のないプールの向こう側から現れたのは、
「……あんた、もしかして」
「峰崎だよ。初めまして」
姿を見たこともなかった殺し屋、峰崎が目の前に立っていた。
二條に痛めつけられたと聞いた。まだ身体が痛むらしく、歩く度に辛そうな顔を浮かべていた。その顔は、怪我をしていた。
タバコを落としてしまう天岸。手摺を抜けて、下のデッキに落ちていった。
「あー、まずったな」天岸は言う。
「みんな一人でウロウロして緊張感ないよね」
「違う。タバコを落としちゃったから。意外と高いんだよ、あれ」
「は。変な女」峰崎は鼻で笑う。「で、あんたを殺せば良いんだね?」
「私はそれで良いけど、ちょっと待ってよ」天岸は静止させる。命乞いをしているみたいで恥ずかしくなった。「私を殺せば、毒で倒れている人間全員が治っちゃうんだよね」
「知ってる。ナノマシンでしょ」ケロッと峰崎は言う。「それはあんたの死体を残した場合の話でしょ。海にでも捨てれば、治療は出来なくなる。茅島ふくみは、それで終わりだよ」
「あー、そうか。ついでに教えておくけど、私が死ぬと機能が発動する。御部善区って知ってる? そこの住人が全員死ぬんだよ」
「へえ。興味ない。何処?」
「もうちょっと勉強した方が良いよ君は」
死んでも良いと思っているはずなのに。
こいつに殺してもらって、死体を処理して貰えば、別に大勢に迷惑をかけることになるが誰にも利用されないで、誰も救わないで死ねる。
別にそれでも良いはずなのに、何故か身体が拒否した。
だって、それって、なんだか死ぬ意味がないから。
「ここに来て、生きたがってる自分に吐き気がするよ」
「しょうがないよ。そう言う人、何人も見て来たし。死ぬ死ぬ言ってる人ほど、死が怖かったり。強がってるだけなんだよね」
「詳しいね。哲学者?」
「何それ」
「まったく、不勉強なんだから」
「そういう普通の人生を歩めるならそうしてるんだよバカ女」
天岸のタバコを拾ったのは偶然だった。
ちょうど、彼女を探してデッキに戻って来た時だった。タバコが落ちているから、忘れ物かと思って辺りを確認したが、誰もいない。
けれど、声が聞こえる。何処だろう。音を聞けば、茅島さんならすぐに見つけられるのに、私だと首を一回転させなければ見当もつかなかった。
声は、頭の上の方から聞こえていた。上のデッキか。確か、プールなどがあるらしい。
聞こえた声は、きっと天岸のものだった。ちょうど良いやと思って私は船内へ戻って、階段を上がってプールのあるデッキへ出る。
そこで、嫌な人物を目にして、血の気を失う。
「……誰、あんた」
「加賀谷さん、帰った方が良いよ」
峰崎……。
その実物が、プールの周辺、私の目の前で、天岸と向き合っていた。談笑している様子ではなかった。天岸はいつも通りに、緊張感もクソもないような表情だったが、峰崎はその右腕を掲げようとしていた。
峰崎は、天岸を殺すつもりだ。私は確信する。
それは、大いに困る。
「峰崎……」私は彼女の名前を呼んで、その存在の現実味を上げた。「何がしたいの」
「あんたは誰、って訊いたんだけど?」峰崎は怒るでもなく、意外なほど話しやすそうな口調で私に言う。
「……茅島ふくみの親友」
「ああ、あいつね。残念だけど、あいつは殺さないといけないし、そうなると当然関係者のあんたも同じだよ。動かなかったら早く済むから、お願いね」
「あんたに茅島さんは殺させない。天岸も……天岸の死体を、処分するつもりでしょう」
「うん、そう。こいつのナノマシンで茅島ふくみが元気になったら、私の仕事が失敗するんだもん」
「……なら、見過ごせないよ」私は端末を起動させる。「消えて。じゃないと、精密女と二條さんを呼び出す」
「脅してんの? 私、殺し屋なんだけど」
「関係ない。消えて」
私たちは、睨み合って膠着する。
峰崎も、その二人に対して畏怖があるらしい。私に襲いかかることも出来ないで、じっと右腕を構えることに終止していた。
その隙に、私は天岸に目配せをする。
彼女が端末で精密女を呼ぶ。この手が一番適切だった。精密女は当然、峰崎の危険度も理解しているから、二條も同行させるだろう。
お願いします。そう念じて、天岸を見た。
彼女は頷いてから、何故か微笑む。
「じゃ、加賀谷さん、後は頼んだよ」
天岸は、走った。
そのまま逃げるように、プールサイドの脇を駆けた。
は?
「ふ、ふざけんなよ!」
私は叫んだ。慌てて、天岸を追う。
峰崎は面白かったらしく、声を上げて笑っていた。
台無しだ。いや、天岸なんかに期待をした私がそもそも間違っていたんだろう。
あの女……。
天岸を見失って、私は何処へ逃げれば良いのかわからなくなっていた。
峰崎は?
振り返る。彼女は早足でこちらに向かっていた。
まずい。どうする。
手摺から、下のデッキを見下ろす。
飛び降りるには、高い。それでも行くべきなのか。この高さから落ちたら、どうなる。クッションになりそうなものも辺りにはなく、そもそも夜のせいで暗い。
「諦めなって」峰崎の声。「そうだ、茅島ふくみの場所を教えてよ。わかんないんだよね」
飛ぶしか無いか。
天岸は何処へ消えたのか、そんなことを考える余裕もない。
手摺に足をかける私。
「ちょっと待ってってば。そんなところから降りるほうが、私なんかより危ないでしょ」
「……それでも良いの」
私は手摺から飛び降りる。
床への落下は、思うよりもずっと早い。
両足から落ちて、すぐに転がった。
全身を打ち付けて痛みが激しくなった。
でも折れていない。動ける。
転んだのが功を奏したのだろうか。私は立ち上がって周囲を見る。
「平気ー?」峰崎が頭の上から呼びかける。私は無視をする。
近くにあった、今は使われていない売店を覗き込む。飲食店だろう。アイスや、そういった物を、夏場は売っているらしい。店内の奥に、倉庫があった。
そこなら、しばらくはしのげるだろう。峰崎の酸がどれほどのものなのかは知らないが、この扉を、簡単に溶かせるとは思えない。その前に精密女を呼べば良い。
倉庫の中へ、私は入る。
鍵をかける。
息が切れていた。
「やあ、加賀谷さん」
……。
……。
私は、何故かそこに居た天岸を、思い切り殴った。
天岸は倒れ込んで文句を言う。
「痛いな! 君、見かけによらす乱暴だな!」
「黙れ!」私は、言い放つ。「静かにしろ……それ以上喋ったら……もう一回殴るから……」
「……逃げたのが、不味かったの? そういうサインだったんじゃないの?」
「お願いだから……黙って」
私は今すぐに両耳を塞いで、ぎゅっと目を閉じたくなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます