9

 眠っていたのに、不躾なノックの音で叩き起こされた。

 時計を見ると、眠りについてから二時間ほどしか経っていない。これなら眠らないほうが、疲労感がなかったんじゃないかと思うほど、重たくなった身体を起こして、私は部屋のドアを開けに行った。

 居たのは、戸ノ内りただった。左腕がなく、右腕だけなのは相変わらずで、その状態にも、こちらの目が慣れてしまっていた。

「加賀谷さん……大変……」

「……なにか、あったんですか」

 茅島さんになにかあれば、どうやって死ぬのかは、すでにいくつか考えてある。その中で実行しやすそうなものを、私の頭は嫌になるくらい冷静に導き出していったが、戸ノ内の話を聞くと、それも杞憂に終わった。

「阿良さんと、船長が……大変なの……」

「船長……茅島さんは?」

「え? ああ、別に、変わりはないけど……」

 私はしてはいけないような安心感を抱えて、それからようやく戸ノ内の口にした文言の意味を、砂に落とした水滴みたいにゆっくりと理解していった。

「船長が、どうしたんですか……?」

「状態が悪化したって……」戸ノ内は焦っているような様子は見せなかった。「とにかく加賀谷さんも呼んでって、医師が」

「わかりました……ちょっと着替えてから向かいます」

「うん……場所は船長室だから。わかるよね」

 戸ノ内が去った後、私は着替える。適当に寝巻き用に持ってきていた衣類を脱いで、考えるのが面倒なので、脱ぎ散らかしていた昨日と同じパーティ用の衣類に袖を通した。自分でも、怠慢だと思う。

 船長室へ。場所は覚えている。向かうと、医師、向坊、そして畳家だけがいた。精密女や天岸は見当たらなかった。

 船長。何かをずっとうめいていた。

 それが人間の出す声なのか。

「医師さん……」私は挨拶がてら話しかける。医師の服装は変わっていない。「船長は……」

「毒の回りが人よりも早い……」悔しそうに彼女は言う。「もうダメかもしれんな……」

「ダメって……」

「死ぬかもしれない。阿良も同じ状態だと言った。そっちには精密女たちを向かわせてあるが……」

「どうして……だって、天岸さんが言うにはまだ……」

「結局は人間だ。身体機能に個人差がある。船長と阿良は、毒に対する抵抗力が少なかった。それだけの話だ」

 それだけの話。

 たったそれだけで、茅島さんが死んでしまうっていうなら、私は気を失ってしまいそうになる。

「船長……」向坊が寄り添って声をかける。「しっかりして下さい……船長……」

 畳家は距離を置いていた。直視したくないらしい。

 やがて、船長の上げていた声が薄れていった。

 察する。

 彼女は、もう死ぬ。

 私は居た堪れなくなって、医師の後ろに隠れて目を瞑った。

 こんな時間が、私の意識しないうちに、消し飛んでしまえばいい。

 人が死ぬことで巻き起こる感傷や、怒りや、その他全部、私の知らない所で勝手に解決してくれれば良い。

 そう思っていたのに、確実に、私の目の前で全てのことが起こっていた。

 船長は動かなくなって、向坊が泣き喚いた。畳家はかける言葉を失っていた。医師は冷静に口にした。

 船長は、死んだ。

 向坊は、ゆっくりと立ち上がって、トイレの方に消える。畳家は止めなかった。彼女はボソリと呟く。

「あの子……船長を慕っていたもの……」畳家も視線を私たちから逸らす。「なんでこんなことに……」

 医師の電話が鳴る。予期していたように、彼女は応答して、二、三言返して、それから切る。

「加賀谷さん。阿良さんも、亡くなったそうだ。そっちの様子も見に行こう」

 気軽にそんなことを言われたって、頷くことも難しいというのに、この女は頼もしいくらい平静を装っていた。私は、従わざるを得なかった。

 船長……。

 私は、彼女の顔を覗き込む。歪んで、元の人相なんて、もう忘れてしまうくらいだった。どんな人だったのだろう。どんな人生だったのだろうか。意味はあったのか。ここで死ぬ意味は。生きていれば何を成していたのだろうか。

 宗接船長。何も話したことはないのに、私はとりあえず両手を合わせる。

 阿良の部屋には、天岸、精密女、そして美雪もいた。当然、中静もいた。阿良はすでに死んでいた。当の中静は、椅子に座って、虚空を見つめていた。痛々しい光景としか言えなかった。

「天岸さん」医師は、阿良を一通り調べてから、天岸に声をかける。「最期は、どんな様子でしたか」

「私への恨み言」天岸は答える。「私のせいだと言いたいらしい。そこの、中静さんも一緒になって。そうだよね、精密女と美雪ちゃん?」

 美雪を見ると、怯えるような表情を浮かべていた。よほど、阿良の死に際に、醜い人間の姿が垣間見えたらしい。代わりに、精密女が頷く。

「死体は……何処かに運び出しましょう」医師が言う。「精密女……一旦、阿良さんを私の部屋へ運んでおいてくれ。中静さんも……死体と一緒では、落ち着かないだろう。お悔やみ申し上げます」

 精密女は返事をして、それからテキパキと、阿良の死体を担ぎ上げて部屋を出ていった。

 阿良を失った部屋に残されたものは、呆然としているだけの中静のみだった。

 医師も、美雪も、天岸も部屋を出ていた。私も続こうかとした矢先に、中静がのっそりと立ち上がった。

 何をし始めるのか、彼女から目を離せなくなった。

 中静は阿良のいたベッドへ向かって、そこに、周辺に散らばっていた衣類を並べ始める。

 上着、ブラジャー、シャツ、スカート、パンツ、靴下。

 そこにいる人間に、衣類を着せるみたいに、一式。

 人間という中身だけが、そこにはない。

 中静は、そうして一人分の衣類を並べて、呟く。

「ああ、富美…………」

 なにを。

「なにを、してるんですか……」

 私は、ついそんなことを尋ねてしまう。

 中静は、こちらを見ないで、いや、何処も見ていない視線のまま、私に対して声を発した。

「生きている気がする」

「……?」

「こうしていると、まだ、富美が生きている気がするの」

 並べられた一人分の衣類は、どう見たって一人分の衣類でしかないのに。

「中静さん……」私は、掛ける言葉を失う。明らかに、この女はおかしくなっていた。

「蔑まないで」

 逃げようか悩んでいた私に、そう言い放つ彼女。

「こうするしか、無いの。こうしていないと、私は、壊れてしまいそう」

「…………阿良さんは、もう」

「違うの。富美は……ここにいるわ。ああ、富美…………ここにいたのね……いるわ……見える。はっきりと、あなたの顔が、見えるもの…………」

 うっとりと、上着を撫で始めた彼女が、

 次の瞬間には、急にベッドを殴り始める。

「どうしてよ! どうしてあなたが! 死なないといけないのよ! 絶対許さない! 絶対! 絶対! 絶対! 絶対! 許すか! 許してやるか! 許すわけ無い! 殺す! 殺す! 殺す! 犯人………………生きてることを、後悔させてやる……殺してやる………………」

 私は、何も見なかったことにして、その場から走って立ち去った。



 医師は部屋に戻ったのか。茅島さんの様子も気になった私は、天岸を探しながら、医師の部屋へ向かっていた。

 すこし寄り道をして、プラネタリウムの近くまで来てみたが、そこには知った人間が立っていた。

 スタッフの、向坊。

「ああ、加賀谷さん……」

「……どうも」

 こう言う時に、なんて声を掛ければ良いのか。学校なんかで教えてもらったことはなかった。向坊の様子を確認すると、今にも泣き出しそうな顔をしていた。余計に何を言えば良いか、わからなくなった。

「あの……大丈夫、なんですか?」正しいとは思えないことを私は訊く。

「……大丈夫じゃないかも」向坊が俯く。「船長のことがずっと頭から離れなくて……」

「……中、入りますか」

 乗客が集まったことがある、というこのプラネタリウムには興味があったし、茅島さんが現在も耳で私の様子を聞いていると思うと、なるべくこの場所の情報を口に出して調べたほうがいいと思った。あと、向坊を慰めないといけない気がした。

「……はい」向坊は塩らしく頷いた。

 プラネタリウムに鍵は掛かっていないし、多分向坊が所持しているだろう。私たちは、それでも躊躇いがちに中へ踏み入る。

 椅子が円形に羅列されており、壁には何もない。天井は円形にへこんでいて、そこに空間の中央にある巨大な機械から、人工物の星空を投影するらしい。それの何が面白いのか私にはわからなかったが。確かに星空なんて、長い間見たこともなかった。それと同時に、こんなまがい物を眺めるよりも、船外に出て夜空を見た方が早いんじゃないかとも思った。

 犯人は、ここで毒を撒いた可能性がある。暗くて、乗客が集まっていて、尚且つ天井にのみ意識を集中させている。犯行という点において、私にはこれ以上最適な場所は思いつかない。

 向坊は椅子に座って、うなだれた。泣き始めるんじゃないかと思って身構えたけれど、彼女は聞いてもいないことを、一人で勝手に話し始めた。

「船長は……私に良くしてくれていました」

 どうだって良いことを話して、気が紛れて落ち着いたり出来るというのなら、私はそれを肯定したいと思った。

「私、短い期間だけのバイトだったんですけど、その期間が終わっても、船で働かないかって言ってくれて、船長の連絡先も教えてもらって、友達みたいに話すこともあって、趣味も近くて、頼りがいがあって、船長も、自分になにかあった時のために私に色々教えてくれてて……そう、私……次期船長を期待されてたんですよきっと」

 考えが飛躍している。そう指摘しようとも思ったが、

 向坊の目は、もう私なんて見ていなかった。

「ああ、船長…………あなたの意志を、誰かが継がないといけないんですよ。畳家先輩は、結局船長に頼るだけの女です。他のバイトの連中も、私ほどの期待はされていないんです。船長…………なんで死んじゃったんですか、私に教えることはもっとあったはずです……私、犯人を許せません……こんな機能を開発した、天岸さんも許せません…………ですが、こんな状況で、取り乱すのは犯人の思惑なんです。乗っては駄目なんです。誰かが、船長のように纏めないと……。ねえ、加賀谷さん。それって誰のことだと思います? 私は、私だと思うんです。だって、次期船長として、期待を受けて、仕事を教えてもらって、そしてなにより本人にその気があるし、船長の代わりはもう、他に誰も居ないっていうんだから、私しか居ないんですよ。私がしっかりしないと。私が船を取り仕切らないと。そう、私がなんとかしないと。船長の穴を埋めないと。継がないと。顔向けできないんです。船長に。ねえ、船長。見ていますか。私は、あなたの向坊かなみは、立派になります。羽ばたきます。取り仕切れば良いんですよね。あの憎き犯人に屈しないように、それでいて危険にならないように、適切な指示を出せば良いんですね。そうだ。畳家に頼もう。畳家は仕事が好きだ。それ以外の方法はない」

 この船に来てから……こんな奴ばかりを目の当たりにする。

 私は、自分がまだ狂うほど正気を失っていないことを自覚した。

 一歩距離を取る。

「畳家」向坊は端末を開いて電話をかけていた。「乗客に、落ち着くように、客室で待機して、鍵をかけるように周知して。それから井沼に倉庫からナノマシン抑制に効く薬を探すように。え? 偉そうだって? 当たり前じゃん。私がしっかりしないといけないんだし。文句あるの? ないよね。良い子。船長ってどうやって褒めてたっけ。よくやったぞ、畳家。なんだかむず痒いな」

 向坊も、もう駄目だ。

 私は彼女を置いて、そっとプラネタリウムを後にする。

 この船には、もはや毒よりも恐ろしいものが蔓延している。

 けれど、なんとかしなくちゃと逸る向坊の気持ちも理解できる。

 そう、さっさと天岸が死んでくれれば、それで解決する。この状況は、医師が間延びさせているに過ぎないんだ。

 きっとそうだ。

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