8

 八頭司美雪は、椅子に座ってノートパソコンを触りながら、この広すぎる部屋に二人だけで過ごしていた、医師と臨床のことを考えていた。

 これだけの人数……六人が部屋で散り散りになって、床に伏せたりじっと座っていたりしているのに、この部屋の空虚さが、一向に抜けていかなかった。高級部屋の広さにそんなことを感じるなんて、自分は心の底から、贅沢の出来ない普通の人間なのか、と思わずにはいられなかった。

 足を怪我していた二條は、扉の側で、壁にもたれて眠っていた。そうすれば、誰か来たときにもすぐに起きて対処できるからだ、と言い訳をしていた。疲れているんだから、素直に寝そべって眠ればいいのに、と美雪は口に出して言いたくなった。

 部屋の奥から声が聞こえた。ベッドの方向だった。そこには、ふくみと岩名地エリサが眠っているはずだ。どちらかの容態が悪化したのだろうか。美雪はパソコンから離れて、様子を見に行く。

 起きていたのは、岩名地だった。ふくみはまだ動いていない。美雪は近づいて、岩名地の顔を覗き込んで様子を確認する。

 岩名地はうめき声を上げていた。毒が回って辛いのだろう。それがどういった辛さなのか、美雪には推し量ることしか出来ないのが、どうにももどかしかった。まあ、理解してあげたところで、それが何になるのかわからないのだけれど。

「エリサさん……?」美雪は呼びかけてみた。

「み、美雪ちゃん…………」目を開けたけれど、何処も見ていない岩名地が、かろうじて返事をする。「ああ…………ちあきは…………ちあきは、どこ…………」

「部屋にいますよ」美雪は、岩名地の頭を撫でた。自分よりも年上で、普段の生活からもしっかりとしている女が、こんな状態になってることに、無情さを覚える。「私たちを守ってくれてます。安心して下さい」

「ねえ…………何があったの…………状況は……?」

 そうか、毒ですぐに倒れて、ずっと気を失っていた人間は、今がどういう状況なのかわかっていないんだ。美雪は岩名地に、その体調不良はナノマシンによる毒物が原因であることと、乗客のほぼ半数が同じ状態にあること、そして天岸がその毒の開発者であることと、彼女の受けたナノマシンはBタイプで他とは違うこと、そして乗客の毒を解毒するにはそのBタイプのナノマシンを、天岸を殺して抽出しないといけないことを、簡潔に説明した。

 はっきりしない意識の中で、それだけのことを理解できるのか心配になったが、岩名地は悔しそうな顔をして頷いた。

「ちあきは……どうしたいって言ってる……?」

 よくわからないことを尋ねる岩名地に、美雪は首を傾げたが、二條の言葉を思い出して言う。

「あの人は、乗客全員を助けるために、犯人を探し出して、持っているはずのBナノマシンを使わせるのが良いって」

「はは…………ちあき、らしい……」岩名地は当たり前のことに対して、笑った。「ねえ美雪ちゃん……あの子のサポート、お願い……」

「りたさんがいますよ。もう左腕を、二條さんに貸しています」

「駄目よあの子じゃ…………あの子、サポートしたいんじゃなくて…………離れたくないだけ。私より、ちあきに必要とされている、ってところを見せびらかしたいだけだもん」

「……それはわがままですよ、エリサさん」

「わかってるけど、あの子は駄目……」

「それだって自分が、りたさんに劣りたくないっていうだけですよ」

「………………いえ、うん……そうだわ。どうかしてた…………頭がもう、はっきりしないの…………ああ……身体が怠い……」

「大丈夫ですか? 寝たほうが良いです」

「ちあき…………ねえ、美雪ちゃん……」なぜか話を続ける岩名地。「ねえ、私が誘ったの……私が、ちあきを施設に誘ったの……施設に、二條ちあきっていう機械化能力者がいて……その子が有望で、でも辛い目に遭ってるから保護しないと、って情報を流して……スカウトさせたの……」

「エリサさん、なんの話ですか」

「同じチームに配属されて嬉しかったのに……りたが……どうしてりたが、あの子のより近いサポートにいるの……りたは、あの子のことを考えてないのに……ああ、どうして……こんな所で、眠ってる場合じゃないのに……」

「いいですから、そんな話は」美雪は、岩名地が暴走してしまいそうになるのを恐れて、止めた。「りたさんだって、今片腕ですよ。大したサポートは無理です。だからもう、眠って下さい」

「…………ちあき…」

 年上女の醜態。そんな単語が、美雪の頭を掠める。

 時計を見る。もう、既に眠るような時間は過ぎている。毒が回って、死んでしまうまであと何時間くらいだろう。

 とは言え、出来ることもない。

 美雪は岩名地を放っておいて、パソコンの乗っている机に戻り、数時間だけの目覚ましをかけて、机に伏せて眠る。

 その間も、岩名地の泣き声が、聞こえるような気がした。



「加賀谷さん、もういい時間だ。少し休んでくれ」と医師が言った。逆らう理由はなかったのだけれど、茅島さんのことを考えると、素直に従うのも気が引けたが、隣にいた精密女が脅してくるので、私は大人しく部屋に戻った。

 そうして一人の部屋に数分間いた後、私は思い立って部屋を出る。茅島さんの様子を、この目で確認しなければ、眠れるものも眠れない。

 寝て起きたら、茅島さんが死んでいた、なんてことになるのが、一番怖かった。

 医師の部屋は近い。中へ入ると、扉の近くで座っていた二條と目が合ったが、軽く睨まれただけで何も言わずに、彼女は眠り始めた。気味が悪いと少し思って、私は奥へ急いだ。

 部屋の人間は、全員眠っていた。医師と精密女は戻っていない。私だけを休ませて、自分たちは何か策を考えるつもりだろう。バイトにそこまでさせる必要があるとは思わないし、私に出来ることはあんまりないから、文句も言えなかった。

 茅島さんは、何も変わらない状態で、ベッドで眠っていた。毒なんて体内のどこにあるのか、そんなものが嘘だったのだろうかと信じてしまいそうになるくらいに、静かに彼女は眠っていた。

 私は、彼女のベッドに腰を下ろす。体重に、気を遣いながら。

「ふくみ……」

 彼女の名前を呟いて、彼女の顔を撫でて、どうしようもない感傷を抱えた。

「……彩佳」

 返事があるとは思わなくて、私は慌てて手を離した。

「あ、すみません……起こしました?」

 すぐに離れようとする私の手を、茅島さんが掴む。

「彩佳……行かないで……」

「……はい。います……ここに」手を握り返した。手は、いつもより冷たかった。「体調は、どうですか……?」

「最悪よ……」かすれる声で、そう答える彼女を、見ていたかと言われれば、見ていたくはない。「死にそう……ねえ、先に死んじゃったら……ごめんなさい」

「…………やめてくださいよ、そんな……冗談でも、言わないで下さい」

「…………ごめん」茅島さんは、悲しそうに謝った。「…………体調が悪いと、頭まで悪くなるわ……」

「仕方ないですよ、毒ですから……今は、眠って下さい」

「……実は、ここへ運ばれてから、ずっと起きてたの…………意地で」目を瞑ったまま、そんなことを口にした。「船でのことを、全部耳で聞こうと思って…………意識を全部集中させてた。海上なんて、街より物音が少ないし……船内はそれほど遮蔽物もない……。あなたの声とか足音は聞き慣れてるから、追跡しやすかった…………天岸さんと、二人で話してたでしょ……? 死ぬことについて」

「ええ……」そんなことまで聞こえるのか、と私は畏怖すら覚える。彼女の耳について、よく知っているつもりでも、それがどの程度までの音を拾えるのかは、よく理解していなかった。「下らない雑談です……」

「でも、あの人が……煮えきらないまま死ぬ死ぬ言ってることは、わかったわ……あのふざけた態度は……ただの反抗よ。あの人は……生きたいとも思ってないけれど、無意味な死を、きっと恐れてる……何もなせないまま死ぬのが、きっと嫌なのよ」

「……なら、生きればいいのに。面倒な人です」

「生きてる意味がないから、生きていれば良いとか、生きて償えとか、さんざん言われたから、もうきっと生きるのは嫌なのよ……それを、無理やり元に戻すことは、無理よ、きっと」

「……なら、素直に乗客のために死ねばいいのに」

「乗客が嫌いだけど、そのくせ御部善区を巻き込むのも嫌だってこと…………わがままなのよ……とにかく、自分の意志なんて、薄いんだわ、あの人。ただ世間の言う当たり前に反抗してるだけなの」

「その根拠は?」

「耳で聞いた情報から集めた……ただの分析。本当かどうかはわからないけど……私はそう感じた…………それだけ」

 私も感じていた、あの女の変なところを、彼女がわかりやすく言語化してくれたような気がした。

 あの女は、生きる意味ではなく、死ぬ意味を求めているのだろう。しかし、死ぬことで気に入らない人間にメリットが生まれる状況になった今、それに素直に従うのが、なんとなく嫌だ、と思っている。別に、その時が来れば死ぬとは言っているが、気が進まないことは確かのようだった。

「…………ねえ彩佳、私が死んだら…………」

「……やめてくださいって」私は、ベッドの脇に降りて、視線を低くして目線を合わせて彼女の顔を覗き込んだ。「そうなったら、すぐに後を追います。安心して下さい」

「駄目よ…………彩佳は……」

「良いんです、気にしないで」

 私の人生に於いて、最も大切なことは決まっている。最も正しい選択は、とうの昔に決まっていた。

「少し眠ってきます」私は言って、立ち上がる。「茅島さんも……精密女や二條さんが、見張りをしてると思いますから、気にしないで眠って下さい」

「…………うん……」

 彼女は頷いて、しばらくした後に寝息を立てた。その眠りへの入りから言えば、かなり無理をしていたのだろうか。

 死んでしまったわけではないことを確認すると、私は部屋を立ち去る。

 深呼吸をする。

 彼女と話ができた喜びなんて無い。あんな彼女を、一秒だって見ているのは辛かった。

 私はしゃがんで、顔を押さえた。誰に見られてるわけでもないのに、こんな顔を隠さないといけないという強拍にかられて仕方がなかった。

 天岸……。

 本当に、大人しく死んでくれるのか、私は不安になってきた。

 いざとなれば……私が殺すしか無い。

 そういう考えしか出ない時点で、私はあの狂っていた乗客連中と大差がなくなっている事に気づいた。

 仕方がない。

 私にとって、もっとも大切なものは茅島さんだって、とうの昔に決まっているんだ。

 だからそう思って、ともすれば実行したとしても、仕方がない。

 私は食堂にある厨房に向かい、棚を開けて目的のものを物色して、タオルにくるんで鞄に隠した。その後は、誰にも見つからないように自分の部屋へ、物音を殺して戻って、シャワーを軽く浴びて、どうしようもない寂しさを発露して、一人用なのに広すぎると感じるベッドで、無理矢理に眠った。

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