5

 畳家は、船長の様子を医師に教えた。

 船長は相変わらず船長室で気を失っている。容態は、やや悪くなっているような気がするらしいが、どうすることも出来ないから困っている、と彼女は言った。

 ずっと辛そうな顔をして眠っているようだ。悪夢に苛まれているほうが、マシと思えるくらいに。茅島さんも同じような状態だろう。そのことを意識するだけで、胸の内に虫でも入ったみたいな居心地の悪さを感じる。

 死。

 よくわからないものによって齎される死が、現実を帯びてきた。

 この宙吊りのような時間が、永遠に続くわけはない。

 かと言って、勝手に解決もしない。

 待っていれば、茅島さんを失うだけだ。

「誰かいなかったか? 乗客の中に怪しい人間とか」

 あの喫煙バーで、もう記憶からも消してしまいたい二人と別れて、廊下を進んでいる時に、医師が畳家に話しかけた。

「いませんでしたね」畳家は首を振って答えた。「まあ、私の見た範囲では、ですけど。みなさんが倒れ始めてから、全員を確認したわけでもありませんし、それ以前も……」

「スタッフは、部屋の清掃もすると言ったな。変な部屋とかは無かったか?」

「さあ……みなさん清潔に使ってくれていますし。清掃は、私一人ではありませんから。私と、向坊さんで大体回ってますね」そう言って畳家は向坊に話す。「向坊さんは、なにか見なかった?」

「いえ、見てませんね。バイト連中の中でも、変なこととか変な人とかいたら、すぐに話題にすると思いますけど。船なんて暇でしょうがないですから」

「……まあ、今は叱らないでおくけど、暇なんて言わないの」そう言ってから、思い出したように畳家はポケットを触って何かを取り出した。「そうだ。はい、これ」

「ああ、頼んでいたやつ」向坊は感謝しながら受け取った物を、私たちに見せた。「これはマスターキーです。客室全てが開けられます。施設の人に協力すると思って、先輩に貸してくれるように頼んだんですよ」

「清掃係だから、別に自由に使っても良いって規則には書いてるから、問題はないけれど、変なことに使わないでよ」

「大丈夫ですよ。事件解決にしか使いません」

 廊下の奥から足音が聞こえた。走っている。急いでいることは伝わってきた。

 その人物は前も見ないで走っていたのか、近い所にいた精密女にぶつかって転んだ。

「大丈夫です?」

 彼女は倒れた女を助け起こした。女には何処か見覚えがあったが、そんなことはどうでもよかった。女は礼も言わないで、医師に向かって叫ぶように話す。

「あなた先生なんでしょ! 富美の様子を診てくれますか!」

 状況が飲み込めないのに、医師は冷静に返事をする。

「どうしました? 富美って?」

「同室の! 様子がおかしいんです!」

「医療スタッフには?」

「言いましたけど、手が回らないって……」

「とりあえず、その人の所へ案内してもらえますか」

「はい!」

 彼女の名前を、ようやくそこで思い出す。

 そうか、パーティ会場で茅島さんが見ていた機械化能力者。中静と言った。

 中静の部屋は、私と茅島さんが泊まっている部屋より、少しだけ上のグレードのようだった。広いが、設備として大した違いは無かった。

 問題の同室の女は、ベッドに横になっていたが、私たちが入ってくると声を発した。気を失っていないらしい。これで重体なのかと私は思ってしまうが、本人にしかわからない辛さがあるのだろうか。

「お、お医者さんですか……」

「無免許医師だよ」医師が挨拶をする。

 ベッドの彼女を覗き込む。辛そうな顔をした女が寝込んでいる。前髪が長く、邪魔そうだった。

「辛いんです……あ……私、死ぬんですか……?」

「話せるなら健康な方さ。安心してくれ」

「でも……時々……息が出来なくて……ああ……」

「天岸さん」医師は呼ぶ。「彼女は?」

「Bかどうかって?」医師の肩先から首だけを伸ばして、女を見る天岸。そして、首を振った。「いや、Aだよ、この症状は。Bだったら、まだ私みたいに元気な時間だよ」

「他の乗客よりも、症状が重いようですけど」

「毒が回って倒れるまでに個人差があったように、死ぬまでの過程と時間にも、当然個人差があるよ。彼女は……確かに重篤な方だとは思うが、おかしなほどではない」

「君」医師は女に話しかける。「自分の名前を言えるか?」

「はい…………えっと…………阿良、です。阿良、富美……」

「同室の友人の名前は?」医師はベッドの近くに立って、祈るような目で見ていた中静を指した。

「中静……さとり、です……昔からの……親友で…………」

「待って」天岸は阿良の顔をよく確かめる。また知った人間だというのだろうか。予感はそのまま的中した。「阿良って……君は確か、イエシマ社にいたね。ほら、私だ。天岸眞子だよ」

「ああ…………あなたは、えっと…………天岸、先輩?」

「そう。そうだよ。まあ、一緒に研究なんかもしたことはなかったけど……。ほら、ご飯は一緒に食べたよね。あんまり覚えてないけど」

「ええ…………お久しぶり、です……」阿良はそんな状態でも微笑もうとした。「先輩……助けて下さい……この毒……先輩の研究なんですよね…………?」

「うん。なにか心当たりはない? ナノマシンが原理なのは知ってるよね。どこで毒を盛られたのか、わかる?」

 阿良は首を振る。手がかりが消えるような音がした。

「富美とは、ずっと一緒にいました」中静が説明を代わる。「プラネタリウムを見て、バーにも行って、図書館にも行ったし、他の乗客と同じように、レストランとかパーティ会場で食事をしました。まさか、こんなことになるなんて……」

「船に来るより前には?」精密女が律儀に訊いた。「乗客の皆さんと、集まったりはしました?」

「いえ……全員、船で会ったのが初めてで……富美は、社員の人と何人か知り合いだと言っていましたけど、私はただの株主ですから、よく知りません。ああ、まあ、内生蔵さんくらいは、前から知っていますけど……モデルですから……」

 その時、なんの前触れもなく、

 阿良が痙攣し始めた。

「富美!」

 中静が駆け寄る。阿良は声にならないような声を上げている。

「富美、どうしたの!」

「天岸さん」医師。「これは?」

「……毒の回りが早い」天岸が言う。「でも、こういう反射は起きる。心配ないよ落ち着いて、今すぐ死ぬわけじゃ……」

「死ぬんですか、富美は!」

「まだ死なないよ。人より短いと思うけど、保ってあと……」

「助けて下さい! 富美を! あなたのナノマシンだって言ったでしょ! 富美を! 助けて! ねえ!」中静は、天岸の肩を掴んで訴える。「他の人はもう治療してるんでしょ! 富美だけこんな目に遭わせて! なんで富美だけ悪化してるんですか! 他の人に薬でも出してるんですか! おかしいです! おかしいですよ! おかしい! 富美を見捨てる気だあんたたち!」

「待て、中静さん」医師が割り込む。「そんなわけない。みんな、いつ死ぬともわからない毒に、まだ脅かされているんだ。阿良さんの症状が悪いのは、運の問題としか……」

「知りません! 信じません! 他の人なんかどうでもいい! 富美を助けてよ! 富美! 富美! 富美…………」

「わかったから、落ち着いてって」医師が中静を引き離した。「医療スタッフに、ナノマシンを抑制する薬を用意するように言っておくから、落ち着いてくれ」

「……………………本当、ですか?」

 中静は、そういうと、ほっとしたように床にへたり込んだ。

「ああ、だから、待っていてくれ」

「…………わかりました」中静は、頭まで下げる。「ありがとう、ございます……」

 私たちは部屋を出て、少し離れたところの廊下で落ち着く。

 私は離れた後も、さっきの中静の様子が、頭の中で洞窟の中で声を発したみたいに反響していた。

 彼女の考えは、私と変わらない。私も茅島さん以外の人間なんて、どうなっても良いっていうのが本音だった。けれど、それを口にするわけにも、実行するわけにも行かない。そういう倫理観があるから、現代社会は回っていることを、こんなところで自覚してしまう。

 私も……あんなふうになってしまうのだろう。半ば確信めいた予感が、胸を支配する。雨の匂いを感じ取ったときのように。

「……医師」精密女が腕を組んで言う。「そんな薬が、何処に?」

「無いよ。でも、ああ言うしか無いじゃないか」

「やっぱり悪い人ですよね、医師って」

「気を使った、有益な嘘さ。あれが、一番まともな方法だっただろう」

 そうして、医師が視線を向けたのは、天岸。

「天岸さん、ああいうデリケートな被害者の友人に、直接そんないつ死ぬだとかどうだとかは、言わないで下さい。気遣いがありませんよ」

「なんで?」天岸は首を傾げる。「嘘をついたってどうせ死ぬんだよ? 意味ないじゃん」

「…………こっちの仕事に支障が出るんですよ」

「そう言われてもね」天岸は頭をかいた。「私には、そういう気遣いとかの塩梅がわからないっていうか、嫌気が差してるっていうか」

「なに子供みたいなこと言ってるんですか」

「それだよ」

 天岸が、指を向ける。

「大人だからこうするのがマトモ、みたいな言説が嫌い」

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