9

 私は、医師たちと共に船長室からパーティ会場に戻って来ていた。倒れた岩名地は、船長室に宗接と共にベッドに寝かせた。面倒はスタッフが見てくれると言ったが、船長は優先されるとしても、岩名地がどう言う扱いになるのかはわからなかった。

 会場は、医師が精密女から聞いた通りの状況になっていた。

 倒れている人と、それの手を取って見守っている人に綺麗に分かれていた。泣き声や呻き声まで聞こえた。地獄という表現は、いささか単純なのだろうけど、私は素直に地獄のようだと思った。

 茅島さんはいない。何処だ。もう機関室に向かったのか? あそこは、峰崎がいるじゃないか。そんな所で倒れ込んだって言うのか。精密女は何をしている。会場を確認したのなら、その時に茅島さんを連れて来れば良いじゃないか。

 目につく。日比野がひとりで寝かされている。

「おい臨床」医師が近づいて呼びかける。「大丈夫か?」

 だが返事はなかった。

 この日比野を優先したって言うのか? 茅島さんより? その考えを、私は皮膚を擦って出てくるカスほども理解できなかった。

「彩佳、心配ないって」美雪が気休めにしかならないことを口にした。「ちあきと精密女がいるんだから、峰崎に勝ち目なんかないって」

「勝ち目が無くたって……なんかの間違いで、茅島さんが……怪我してるかもしれないじゃん」

「そうなるかも知れないって、納得したんじゃないの、彩佳」

「したけど……」私は言い淀む。「でも、心配は消えないよ」

 足音。入り口。

 振り向くと、そこに精密女がいた。

 何故か片腕を失っている戸ノ内を連れながら、背中に一人の華奢な女を乗せていた。

「茅島さん!」

 私は駆け寄った。

 精密女は、彼女をおろして床に寝かせた。

 ぐったりとした姿勢。人形みたいに四肢を投げ出していた。長い髪が背中に敷かれてクッションみたいになっていると良いなと思った。赤いドレスに特に変な所は無かった。つまり、外傷はない。無事だ。意識がないことを除けば。

「峰崎から逃げて来ました」精密女が息も切らさないで説明をする。「命懸けで」

「峰崎はどうした」医師が訊いた。「二條もいないがもしかして……」

「二條さんが、峰崎を食い止めるからと言うので、従いました」

「そうか……二條なら、しばらくは大丈夫だろうか」

「最悪なら逃げろと言いましたが」

「時間は稼いでくれるか……」

「美雪……」私は耳打ちをする。「二條さんってそんなに凄いの?」

「うーん、ふくみと並んで期待されている若手、って感じらしいけど、私もよく知らないんだよね。組む事ないし。ただ腕は、扉を破壊するくらいの豪腕だって聞いた」

「それでも安全なの?」天岸。熱があるのか、額を押さえている。「峰崎って、やばいんでしょ。それに茅島さんと精密女を狙ってるって話じゃない?」

「確かに……」医師が頷く。「ここへ置いておくのは安全ではないな。この惨状があいつの仕業である可能性もある。この機に乗じるのは想像に難くない」

 何処で話を聞いていたのか、新人スタッフの向坊が私たちの近くに来た。

「あの……客室なら施錠も出来るので、移動させましょうか」

「ああ、向坊さん。それが良い……」医師は言う。「私の部屋なら広いし、そう距離も無いだろう。運ぶのに協力してくれるか」

「はい。船長室にいるあの人も、畳家先輩とお運びします」

「頼むよ」

 医師は精密女に向く。

「さて、問題は二條だ。戸ノ内の左腕を使っているってことは、自分の腕は無くしたんだな」

「そうですね。私が行った時には、もう無くなっていました。怪我をしている様子も無かったですけど……相手が、酸なんて厄介なものを撒き散らす変態ですからね」精密女は悩ましく唸った。「ですが、ふくみさんが気掛かりだったみたいですね。今はようやく何の心配もない状態です」

「……とにかく、ふくみたちを運ぶぞ」医師は視線を戻す。「二條ほど、任務に忠実な馬鹿もいないさ」



 峰崎の注意を逸らしている内に、精密女たちは機関室から無事に消えて来れた。

 さて。二條は向き直る。

 後は、峰崎を制圧するだけだ。今や余計な病人やチームメイトもここには存在しない。左腕を無くすという失態も、トライアンドエラーの範疇で考えれば悪いことではない。もう間違えなければ良いというだけだった。

 階段の上だった。二階になっている部分に、目的の女はいた。

「あいつら、逃したの?」峰崎が話しかける。ここからは、峰崎を見上げる位置。

「あんたこそ。逃したの?」

「ムカつく女だよ、あんた」峰崎は歯軋りを立てた。顔の怪我がここからはっきりと見えた。まあ大した怪我じゃない。それよりも、精密女にやられた肩はどうなったんだろう。

 戸ノ内の左腕。身体には馴染んでいた。

 峰崎は上から酸を飛ばす。

 避ける。床に付着していく。機関に影響がないと良いが。

「呼んで。仲間を。茅島ふくみを。精密女を。それからさっきの女も。あと、まだいるでしょ。八頭司美雪とか。あとは、よくわかんないけど、とにかく全員呼んで」

 あそこまで登るには階段を通るしかないが、狭い。酸を避けるのは現実的じゃない。

「あんたが細菌兵器を?」

「どうでも良いでしょ、そんなこと。早く呼べ」

「寝込んでる相手を殺して楽しいの?」

「楽しいとかじゃない。復讐でもない。仕事。ちょっとの私怨があるだけ。くだらないことを言うな」

 腕を振る。

 逃げる。

 しかし違和感を覚えた。左腕だ。

 指先の人工皮膜が部分的に溶けて、中の機械部分が露出していた。痛覚は繋いでいないから、痛みはない。

 やっぱり、視認出来ない水滴を避け続けるのも無理があるか……。

 きっと、どこか衣類にも穴が空いているだろう。この服は、二條が贔屓にしているブランドの物で、同じ物を後五着は所持していたし、それ以外の衣類なんて持っていなかった。

 そこはかとない怒り。

 峰崎。二條の方も、彼女のことが嫌いになっていた。

「なんでまた腕が生えてるんだよ」峰崎が手摺に寄りかかってこちらを見下ろしている。「拾って来たのか?」

「予備だよ」

「腕を射出するなんて、どういう機能だよ。銃でも仕込んだ方が合理的でしょ」

「そうね。非合理な機能だと思う」

 二條は走った。

 多少の怪我はもうどうでも良い。でも頭は守ろう、髪が抜けたら大変だ。頭に左腕をかざしながら走った。

「おいおい何処に行く」

 降らされる酸。

 ギリギリの所で、峰崎の真下に滑り込む。

 左腕を、峰崎の方に飛ばして。

「はは。当たってないじゃない」

 左腕は、峰崎の足元の金網を掴んだ状態でぶら下がっていた。腕だけがそこにあるなんて、奇妙な状況だとは思う。

 二條は峰崎がいるであろう頭上を見上げながら、息を吸う。吐く。

 何もない左の二の腕を、ぶら下がっている腕の方に向け、

「殴り飛ばすだけなら非合理だよ」

 二條の身体が浮き上がった。

 二の腕が左腕に吸い込まれてドッキングされた。

 強力な電磁石は、二條の身体を引き上げることも可能だった。

 勢いを使う。

 逆上がりのような体勢になった二條は、

 伸ばした足で峰崎の顔を蹴り飛ばした。

 感触はある。

 呻き声もあった。

 予想の外の動き。避けられるはずもない。

 二條は体勢を戻すことも出来ずに、腹から金網に叩きつけられた。

 痛……。

 打撲。膝を強打する。

 峰崎はどうした。くたばったのか。捕まえないと。

 動こうとするが、痛みにうずくまる。

 打撲だけじゃない。これは、ふくらはぎの辺りを酸で焼かれていた。右足。軸足だ。立てない。蹴り飛ばす時に、反撃でも喰らったのか。

 動けない。いや、甘えるな。痛みなんて言い訳だ。自分にとって最も正しい行為は、この峰崎を制圧して監禁することだ。

 峰崎は、呻きながらも立ち上がった。

「嘘を、つきやがって……」峰崎は泣いているようだった。痛みに耐える訓練はしていないらしい。それは二條もそうだったけれど。「腕を飛ばす機能だけじゃ、ないじゃない……痛すぎる……」

「あんた……しぶとい」

「黙れ! 二度と私の前に現れるな……お前と関わりたくない……」

「仕事は……どうするの?」

「……お前の存在なんて知らない……茅島ふくみと精密女、八頭司美雪を殺せば、もうそれで良い……」

 逃げる峰崎。

「待て……!」

 消えた。自分の声だけが、機関室に響いていった。

 軸足さえやられなければ……。

 立てない。痛い。痛すぎる。

 泣いた。痛みに対する自然な反射だと思って受け入れた。

 しばらくうずくまって、痛みが引くのを待った。何分そうしていたのかわからなくなるくらいまで待った。いや、何分では済まなかったのかも知れない。

 多少なりとも落ち着いて、無理矢理身体を起こして歩く。階段を降りる。機関室を出る。

 医師たちは会場だろうか。端末を開く。

 メールが来ていた。

『私の部屋に避難している。ちあきも来てくれ』

 医師からだ。きっと、みんなそこにいるだろう。

 二條ちあきは、何となくやるせなさを感じて、その場に座り込んだ。

「私が殺されてるって考えもしないんだ」

 まあそれでも、二條は自分のすべき事の何割かを達成出来たという満足感を、不本意ながらも抱えてしまっている自分を認識する。

 そうして峰崎を逃してしまった事を思い出して、自分の傷口を殴ってみた。

 二條はまた、しばらくその場で痛みが引くのを待った。

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