8
二條ちあきは、機関室の前で突然倒れた茅島ふくみを観察していた。
加賀谷彩佳からの電話の途中で、彼女は気を失ってしまった。加賀谷が不安に思うだろうと思って、またそうするのが当然だと思って、気を利かせて電話を代わったのだが、上手く話せたとは思えなかった。
倒れた茅島ふくみ。脈なんて取っていないから、本当は生きているのかどうかもわからなかったが、加賀谷のために嘘を言った。まあ、顔を近づけてみると微かに呼吸をしているから、別に間違ったことは言っていない。
精密女は、茅島ふくみと臨床に異常が見られた時に、気絶した臨床を連れて会場へ戻った。茅島ふくみは戸ノ内に任せると告げたが、肝心の戸ノ内は二條ちあきのそばを離れたがらなかった。故に、茅島ふくみは、床で放置されている。
「りた」二條は戸ノ内の顔を見もしないで、言う。「精密女にさっき言われたこと、やって」
「え? でも……」戸ノ内はその場を動かない。「ちあきちゃんが心配だし……」
「茅島ふくみを見殺しにするのはどうかと思う。連れて行って」
「…………ちあきちゃんは?」
「私は峰崎を捕まえるように頼まれてる。ひとりでも、平気」
「でも……」
「何が今するべきことなのか。考えてっていつも言ってるでしょ」
「…………うん、ごめん。ちあきちゃん」
そこへ、足音が背後から聞こえる。
誰だろうと振り返って、
二條は後悔する。
「ああ、やっぱりノコノコ集まってくるもんだ」
その声に聞き覚えはないが、
その顔と格好には、見覚えがあった。
「りた、機関室の中に。茅島を連れて。振り返らないで」
「え、あ、うん……!」
こういうときの戸ノ内は従順だった。彼女は茅島ふくみを両腕を使って持ち上げて、背負って機関室に入り込んだ。彼女の機械部分は両腕だ。常人よりもその力は強くて幸いだった。そのうえ、茅島ふくみも軽い。心配になるくらいに細い。
「機関室に逃げ場なんか無いでしょ」
現れた人物――峰崎仁奈が、片手を壁についてこちらに近づいてくる。
犯罪組織に雇われている、頭のおかしい殺し屋。
その機能故に、こうやって正面から対峙するのは、まともな考えではない。
だが二條は、機関室の入り口に仁王立ちをしたまま動かなかった。
自分の機能、左腕が満足に動くことを念頭に置いて。
「これはチャンスだね」峰崎が言う。「でも精密女は何処に行った? あいつも殺さないといけないんだけど。あと八頭司美雪とかいう金髪女も」
「茅島ふくみを逃したのは正解だった」二條は会話に応じた。「それがあんたの仕事?」
「まあ、仕事でもあるけど、それだけじゃないっていうか……そうしないと気がすまないだけよ。あとは恨み」
峰崎は右腕を持ち上げて、
二條に対して素早く振りかざす。
峰崎の機能は知っている。指先から分泌される、超酸と仮定される液体。身体の何処にそんなものを貯蔵しているのかわからないが、そんな事を考えたって仕方がない。
腕の力で、濡れたタオルの水分を飛ばすような気軽さで、峰崎は超酸を飛ばした。
二條は、背中を見せながら後ろへ駈ける。
水滴が床や壁にかかる。いずれは焦げるか、穴が空くのかもしれない。
そんな肉体はおろか、金属をもたやすく腐食させる酸性の液体とはなんだ。この機能のために作られた、強力な酸なのかもしれない。
扉の開け放された機関室に入る。
「おいおいおいおい。逃げるなよ」
機能はわかっているのに、あんな超酸の液体なんか対処の仕様がない。
二條は、息を潜めて隠れる。
薄暗い。機関室には、中央に巨大な機械がある。推進機関、つまりは船のエンジンだろう。ずっと轟音を立てながら、内部が駆動している。その周辺には人が立ち入らないように手摺で囲ってある。その他は、階段や無数のパイプが室内を通っている。
巨大機械を通り過ぎて、階段の裏に身を潜める。
これだけごちゃごちゃとしている室内の割に、通路がはっきりしているために、隠れる場所は少なかった。無駄なものは一切ない。峰崎が、彼女たちをここに呼びつけた理由もわかるし、後ろから現れたのも合理的だった。
罠なのは理解していた。そこを利用する作戦を立てていたが、まさかその要である茅島ふくみを失うとは思わなかった。精密女と茅島ふくみで、峰崎を呼び、そこを隠れていた二條が叩く。そのつもりだったのだが……。
戸ノ内りたは何処へ隠れたのか。機関室は何処にも繋がっていないし、全ての通路が入り口へ向かう。峰崎は入り口から動いていない。故に、脱出も出来ない。機関室の何処かにいるのは間違いない。茅島ふくみを、抱えたまま逃げ出すことも難しいだろう。
そういえば機関制御室はある。戸ノ内は、そこに行ったのかもしれない。
峰崎の足音。
比較的、近い。
「何処に行ったんだよ。だったらさ、あんたの仲間も呼んでよ。順番に殺していくと、こっちも疲れるから、なるべく簡単に済ませたいんだよね」
「一度にたくさん相手をして、取っ組み合いになったらあなた、勝てるの?」あまり隠れる意味はないと思って、二條は返事をする。
「この液体、なにかわかる? 硫酸より強力な酸だってさ。軽く顔に浴びせれば、それで終わりだよ。一人あたりの作業時間で言えば、まあ抵抗する時間も加味して、十分以内? 一時間に六人も処理できるんだよ。逃げられると、出来高が下がるからさ、やめてくれない?」
「人を物みたいに言わないで」
「だって仕事だもん。商品に感情なんか持つ?」
「まごころ込めろって教えられなかった?」
左腕の調子を確かめる。悪くない。八頭司美雪に頼んで調整してもらったばかりだ。
「なにそれ。大昔の考え?」峰崎は笑う。「適当に働いて、適当にお金もらって、好きなことやって死ぬのが一番幸せだよ」
「あんたのそれ、適当で選ぶ職業じゃないと思うけど」
「うるさいな……。こんな下らないことしか出来なかったんだよ、私は」峰崎は舌打ちをする。「あんた名前は?」
「犯罪組織に本名がバレるのなんか嫌」
「は。あんたのこと、もう嫌いになったよ」
階段下を、峰崎は覗き込んで来る。
そこを、左腕を正面に伸ばして待ち構えていた二條。
「なにそれ」
「機能の分からない機械化能力者には、気をつけた方がいいよ」
二條の左腕が射出される。
峰崎の顔をめがける。
二條の機能は、電気磁石で制御された、取外し可能な左腕。
極性を反転させて、弾き飛ばされた腕のトップスピードは、不意を打たれて視認できるものでもない。
この薄暗さ。
階段下。
不意。
これだけの条件が揃って、この腕を避けられる人間に会ったことはない。強いて言うなら、聴覚が異常な茅島ふくみくらいだろう。
腕は、峰崎の顎先を直撃する。
吹き飛ばされた峰崎、転がる。
そのまま、動かなくなる。
脳震盪は免れないか。
二條は立ち上がって、階段下から出る。
峰崎を見下ろしてから、左腕を回収するために、二の腕から先が無い腕を、床に落ちている左腕に向ける。磁力は強力で、引き寄せることも自在だった。
が、
峰崎は急に立ち上がった。
二條を睨んでから、
浮き上がろうとしていた左腕を、掴んで遠くに投げた。
どこかにぶつかる音がして、腕は消えた。
「クソ……なんだよその機能……」峰崎は頭を押さえていた。「びっくりした。ふざけてるでしょ。機械化用のパーツって、酸でもあんまり溶けないんだよな。めんどくさいな、あんた……」
「……頭も機械化してあるの?」二條は、信じられないという気持ちを振り払えなかった。峰崎から後ずさった。
「生だよ。まあ、慣れと気合い?」
掴みかかる峰崎。
利き腕でもない右腕で、こんな女を止めるのは無理か。
逃げて、逃げて、逃げるしか無い。
戸ノ内に合流できればまだ状況は好転するが、それまでの二條は片腕を失った生の人間と大差がない。
顔を殴ろうと、高いヒールの靴で脇腹を突き刺そうとも、峰崎は止まらなかった。
峰崎が駆動機関の手摺を掴む。
手摺が黒く焦げていく。
「施設の人間って……なにか特別な訓練でもやってるわけ?」峰崎が訊く。
「それはそう。みんなそれが日課。でも警察ほどじゃない」
「嘘だろ。私を油断させるための。警察に、ここまで動ける人間はそういない」
「まあ人員不足だから、警察は。市民感情から機能も持てないし」
「機能の有無は大きいか……」
もぎ取った手摺の破片を、二條に投げる峰崎。
それを予期していたように、一歩だけ動いて避ける。
破片は二條の背後に飛んでいき、
「クソ……」
入り口から伸びてきた、機械の両腕の中に吸い込まれた。
「とう」
瞬時に投げ返される破片は、二條の射出された腕なんかとは比べ物にならないくらい速く、峰崎の方向に飛んだ。
「な!」
峰崎は右腕で防ぐが間に合わず、肩の付け根に当たる。
うずくまる峰崎。
「ちあきさん」
入り口から現れたのは、精密女だった。
「精密女。会場は?」
「酷いもんでした」
肩を押さえながらも峰崎は素早く立ち上がって、何処かへ消える。
「おい峰崎。待って」
返事がない。自分の声が、機関室の奥の方に吸い込まれていっただけだった。
今度は隠れられたか。こういう場所というのは、自分が隠れるには物足りないわりに、人に隠れられると、探すのが億劫になる。
あの酸がある以上、無防備にあの女を探すのは、リスクが高すぎる。
「ふくみさんと、りたさんは?」精密女が首を回す。
「逃げた。多分、機関制御室にいると思う」
「そこの階段を登っていくんですね。行きましょう」
足音をなるべく殺して、二條たちは機関制御室にたどり着く。
扉を開けると誰もいなかったが、二條は戸ノ内を呼んだ。部屋の奥から返事がある。
制御盤の隅に、茅島ふくみを抱きかかえた戸ノ内りたがいた。
「良かった……ちあきちゃん、無事だった」
「容態は?」二條が端的に訊いた。
「わからない……息はしてるけど」
「ああ、大丈夫ですよ」精密女が緊張感の欠片もなく口にする。「会場のみなさんもこんなもんだったんで、特別ふくみさんが酷いというわけではありません」
さて、これからどうするのが正しいか。二條の頭は計算をする。誰にも、相談をしないで。
今この状況で最も邪魔なのは、このぐったりした茅島ふくみ。次に戦闘能力のない戸ノ内りた。この二人を機関室から無事に逃さないと、変に守るものが多くなってしまって面倒だ。
精密女がいれば、二人を逃がすことも可能だろうが、それでも峰崎の不意打ちには対応できない。
自分が、峰崎の注意を引いておくしか無いか。嫌な選択とも思わない。そうするのが自然だし、求められている。自分では、戸ノ内と茅島の二人を、外に逃がせる自信はない。片腕が無いことを、峰崎には知られてしまっている。二人をいざという時に運べるような精密女の腕力は、きっとこういう時のためにあるのだろう。
答えは出た。
「りた。左腕、貸して」
「ああ、うん……」
戸ノ内りたは自分の左腕をためらいもなく取り外す。二條ちあきの腕のスペアとして使える予備の腕。それが彼女の機能だった。厳密には、右腕には外傷治療薬が詰め込まれていて、いつでも指先から分泌できる機能もあるし、今取り外した左腕には、強力な鎮痛剤を注射出来る機能があった。
二條のサポートに徹した機械化能力のみが、彼女には備わっていた。
戸ノ内りたの左腕を、自分の二の腕に装着する。少し自分のものよりも長いが、使えることには変わりはない。
「精密女」腕の具合を確かめながら、二條は頼む。「りたと茅島ふくみを連れ出して。峰崎は私がなんとかする」
「だめだよ!」戸ノ内。「ちあき! 危ないよ!」
「出来ますか?」
否定もしないで、戸ノ内のことも無視して、精密女は訊いた。
「それが求められてるし」
「そうですか」精密女は頷く。「じゃあ頼みましたよ」
「任せて」
ダメダメダメ、と騒ぐ戸ノ内を、精密女は引っ張る。戸ノ内の残された右腕は、茅島ふくみを抱えていた。
「入り口から離れるようにするから、その隙にお願い」
「わかりました」精密女が微笑む。「無理なら逃げてくださいね」
「無理じゃない」
ふう、と二條は深呼吸をして機関制御室の外に出る。
あの二人を、精密女を使って逃がす。スマートな方法をそこまで考えたが、二條にはもっと別の優先事項があった。
峰先を叩き潰す。
初めから、彼女に与えられた任務は、それしか無かった。
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