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豪華客船「対」号。
私でも知っている大企業、イエシマ社の運営する旅行会社の所有する、女性専用の巨大な客船だ。
この船に乗ることが決まったのは、つい三日ほど前になる。急に医師から連絡があって、仕事で船旅になるから数日間の着替えと、一着だけ外行きの服装を用意しておいてくれとだけ告げられた。その日までに対号のことを調べることは出来たが、結局仕事の内容は当日まで教えてもらえなかった。私も、茅島さんに会うまでは、本当に旅行なんじゃないかと思い込みそうになってしまっていた。
私が調べた範囲では、対号のサイズは並の客船を凌駕していた。収容出来る人数は最大で千人。内部は十八の階層に分かれていて、説明を読んでいるだけでも、ややこしくて頭がおかしくなりそうだった。
女性専用である理由は、なんとなくの思いつきで企画されたと、公式サイトには書いてあった。特に取り立てて需要があったわけでも無いのに、そんなことのために船をひとつ造ってしまうイエシマ社の巨大さに畏怖を覚えた。まあそれでも潜在的な需要があったらしく、運用が始まってしまえば好評で、年始だと言うのに今年のシーズン内での予約は既に終了していた。
今はシーズン外だ。なのに船が稼働するのはどう言うことか、と思ったが、現地について理解した。イエシマ社の株主優待の特典パーティが開かれるのだと言う。そんな話は医師からも聞いていないから、私は港で、自分が場違いなんじゃ無いかと不安になって、トイレで身だしなみを整えてしまった。
船はまず、日本を出て、ゆっくりと時間を無駄にかけながら、米国へ向かうらしいとパンフレットには書いてあった。外国に行くなんて説明も受けていないが、向こうに着いたら二日ほど好きに遊んで良いと医師は後に付け加えたので、言いたいことが喉の奥に戻った。
船の外見は、豪華客船というレッテルの響きに相応しく無いくらい、幽霊船みたいな雰囲気をしていた。一見すると巨大な木造船のように見えるが、実際は新機軸の素材を使用しており、木材らしさは単なる味付けらしかった。
アジア文化を押し広げる思想でもあるのか、船内の表記は殆どが漢字で記されていた。所々に、場所を示す看板も吊り下げられていた。錆びついていたり、凹んでいたりするが、完全な演出だろう。気味の悪さと好奇心が同時に生み出される気がした。
船の側面には大量の広告が表示されるディスプレイが備え付けられていて、入港中はずっとよくわからないコマーシャルが流れていた。
今回、私と茅島さんが顔を合わせたのは、船の中だった。
相変わらず、綺麗な顔をしていた。
豪華客船「対」号に滞在して一日。初めは慣れないことしかなかったし、周りの乗客も格式高い格好をしているし、自分がこんな場所に相応しくないとしか思えなかったが、それもまあ、乗っている内に、どうでも良くなってくるのが、人間の強い部分なのかもしれなかった。
部屋割りはくじ引きで決めた。医師が事前に部屋を取っていたと説明するが、各等級ごとに一部屋しか押さえられなかったと言った。株主でもなんでも無い、コネクションと仕事の都合を振りかざして得た部屋なのだから、これ以上の文句は言うな、と医師が釘を差した。
各部屋は二人部屋になっている。ペアを組んで、その代表にくじを引かせるという合理的な方法を彼女は取った。私も、こんな場所で茅島さんと離れるなんて、海に身を投げた方がマシだと感じていたから、そこに文句はなかった。当然、私は茅島さんとペアを組んだ。
まあ結果は、医師が最高級ルームを引くという、言ってしまえば吐瀉物のような結果になってしまったのだけれど。もしかしたら、医師はなにか細工でもやっていたのかもしれない。くじをきちんと確かめるべきだった。嬉しそうに、割り当てられた部屋へ向かう医師を見ていると、そう思わずにはいられなかった。
私たちの部屋は「衣 三一二」との番号が振られた、もっとも等級の低い部屋だった。階層として割り当てられている番号で言えば九番ということになっていた。搭乗口のあるメインデッキから比べると、かなり階層が下の方にあった。数値が小さほど海面に近いらしい。
内装は、ダブルベッドやクローゼット、机、洗面所、トイレ、テレビと一通り生活に必要なものは揃っていたが、二人で過ごすにはやや狭いし、なにより構造上、窓が存在しなかった。最も安い部屋だと言われて、私は素直に納得をする。
茅島さんは、そんな部屋でも楽しそうにしていたのが、私の救いだった。
そうして初日は、船の見回り、構造の把握だけで時間が潰れた。
翌日になって、二人で甲板へ出て、曇り空と海を眺めて、医師に説明を受けて、現在に至る。
そろそろ空腹を覚えるような時間に差し掛かっていた。朝食はルームサービスのパン数個だけだったので、腹持ちはいい方ではない。こんな食事なら、別に家でだって食べられると思ってしまった。
船内、飲食店が集中する六番階層に移動した。
フロア中央上部にあるエレベーターから出ると、左右に窓越しに広がる海原と、無数の高そうな椅子とテーブル、腰掛ける大量の客、店員、食器の鳴る音、食事の匂い。そんなものに急に包まれて、ここがどういう場所なのかを考えるまでもなく理解した。食事処しか、ここには存在していない。というか、窓があるだけでこんなにも明るいのか。私は、自分の泊まっている部屋の、その薄暗さを思い出した。
「広いわね」茅島さんが、楽しげに口を開く。「ねえ彩佳。何食べる?」
「それは、座ってから考えないとわかりませんね……」
私は食べ歩きが趣味なのだけれど、こういうときに何を食べたいだとかを考えるのが、あまり得意な方ではない。散歩をして、気になる店(コミュニケーションを取る必要が薄い店なら良し)に行って、適当に目についたものを頼んで、さっさと平らげて店を出ることを基本としていた。
人の多さに私は少し身の毛もよだつ思いをしながら、さっさとレストランに入ろうと思って首を回していると、知った顔がこちらに向かって手を振っているのに気づいた。
「彩佳さーん。ふくみさーん」
能天気な声を上げている、両腕が機械の異常なほど目立つ女が、レストランフロアの席から立ち上がって、こっちに向かって呼びかけていた。他人のふりでもしようと思ったが、茅島さんはため息を付いてそちらに向かった。
「あんた、くつろぎすぎて自分の家だと勘違いしてない?」
茅島さんが私たちを呼びつけた女、精密女のテーブルに広がっている食事の皿を見て、そんな皮肉を口にした。
「昨日からこの調子だよ」精密女の向かいにいた金髪の若い女、八頭司美雪が頬杖を付きながら言う。「体重が増えたら、あんたの腕の制御の数値も変わるんだけど……」
私たちは、とりあえずこの二人の隣に腰掛ける。
精密女。何度も顔を合わせたことがあるが、未だに本名は知らない。脳波でコントロールをしているという機械の両腕が特徴的で、その腕力と制御力は凶悪犯罪者にも引けを取らないほどでたらめな強力さを誇っている。一転して、その性格は柔和かつ何を考えているのかわからない掴みどころの無さを覚える。顔もよく笑っているが、きっと上辺を取り繕っているだけだろう。私は彼女のことが、まだそれほど得意でもなかった。
八頭司美雪。精密女とコンビを組まされていることを、よく私に愚痴を漏らしている、金髪(長い。それを頭の後ろでまとめていた)の若者の女。彼女も機械化能力者で、その目は様々なものを正確に測定できるのだが、あまり使用する機会がない。コンピューター方面にも理解があり、いつも事件ではそっちの技術を駆使することばかりだった。私とは仲が良いが、別に二人で遊んだことがあるというわけでもない。私が年下に対して、変な緊張を覚えないというだけの話だった。
二人とも、普段の仕事では見かけないような、おしゃれな服装をしていた。精密女はその長身に似合うようなドレスみたいな服。美雪もふわふわしたスカートとあまり見ないようなベストを着ていた。周囲の金持ちの人間に合わせているのだろうか。それとも、本当に旅行気分を振りかざしているのだろうか。後者であれば、私は安心する。
私たちは適当に食事を注文した。席につくまで食べたい物がわからなかったが、実際にメニューを開いてみると、今度は目移りしてしまう。しかも、支払いは施設が持ってくれるという。そう考えると申し訳ないという気分のほうが勝って、逆に食欲が萎え始めた。
「それで」精密女は言う。「ふくみさんの耳で、なにか異常は感知できましたか?」
茅島さんの耳は機械化されており、狂ったような聴力を有する。
「何も」彼女は首を振って答えた。「昨日も船内を歩いてみたけど、峰崎らしい足音とか、そういうのは聞こえないわね。まあ足音を聞き分けられるほど親しくないけれど……」
「私も見た感じ、峰崎が変装して動き回っているようには見えませんね」精密女が両手を合わせた。「そもそも、本当にいるのかどうかも怪しいですよ。イエシマ社が、そんな人間の搭乗を許すのか、未だに疑問ですね。峰崎が株を持っているなら知りませんけど」
「峰崎がいないなら、それが一番いいんでしょうけど」
茅島さんは辺りを見回した。ここには何も知らない、裕福な女たちが陸地から離れて平和を謳歌していた。こんなところに、あのクソみたいな峰崎が現れたらと思うと、想像するだけで胃もたれがしてきた。
「美雪」茅島さんが尋ねる。「今船には、何人くらい乗ってるってことになってるの?」
「えっと……私たちも入れて、百八人だって。医師が言ってた。キャパシティが千人だから、十分の一くらいしかいないね。みんな株主とか、イエシマ社員の家族だってさ」
「そんなものなの。もっといるのかと思った。じゃあ今このレストランにはほとんどの乗客が集まってるってこと?」
「真冬じゃ寒いから外なんか出ないよ。シーズン外だし、船も貸し切りみたいなものだから、やってない施設も多いし」美雪はパンフレットを開く。「プラネタリウムとか美術館、紙の図書館はやってるみたいだけど、劇場とか、プール、スポーツコートは閉まってる。バーとかクラブは夜じゃないと空いてないし。早くクラブに行ってみたいのに」
「美雪。遊びじゃないのよ」
「でもクラブに峰崎がいるかもしれないでしょ?」
「あー、それは否定できないわね」
二人は笑った。浮かれている、という表現が最も適切だった。
それから昼食を採って、私たち二人はまた船内散策に戻った。
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