1・夜間浜辺ターミナル
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四方をだだっ広い海に囲まれていた。
波はそれなりに立っていたが、不思議と船体はほとんど揺れていない。どういう技術が用いられているのか知らないけれど、私はそれをありがたいと思った。ほとんど乗ったことはないが、きっと私は、船酔いをするタイプだと自覚していたからだった。
ここは、豪華客船だった。どうしてこんな所にいるのか、船内を見るたびに、未だに実感が持てないくらいに、私には似つかわしくない場所だった。その絢爛さに見惚れるよりも、海上で孤立していることへの恐怖心のほうがずっと勝っていたが、隣で楽しそうにしている彼女を見ると、まあそんな感情も多少は麻痺するみたいにどうでも良くなった。
客に開放されている後部の甲板で、私たちはぼーっと薄暗い海を眺めていた。時刻は、昼間。それが夜ともなれば、星空が広がって綺麗だと乗船前に説明を受けたが、天気は悪く、しなびたモップみたいな雲が空を埋め尽くしているという、下らない光景が広がっているに過ぎなかった。
隣の彼女、茅島ふくみはデッキの手摺に身体を預けていた。案外強い風が吹き荒れていて、彼女自身の長い髪が、自分の身体にまとわりついてくるのを、邪魔そうに振り払っていた。私は横目でそれを面白いと思いながら、見たり見なかったりした。本当に切るのが面倒なのか、前に会ったときよりも髪が伸びている気がした。散髪に行くという自由も許されない環境にいるのだろうか。だとしたら、彼女の上司を殴るくらいのことをしても良い。
「寒いわね」
当たり前なことを彼女は言った。今日は一月十五日。季節で言えば真冬だった。なんでこんな時期に船に乗せられて、あまつさえこんな風邪が吹き荒れるデッキで時間を潰しているのか、冷静に考えれば正気を疑うようなことをしていた。
「……そろそろ戻りますか」私は言う。「風邪ひきますよ」
「うーん、そういう意味じゃないのよね……」
茅島さんは、視線を海の方に戻した。
彼女は私の唯一の友人だった。大学へ入り、地方から出てきた私に、優しくしてくれた、まあ言ってしまえば女神みたいな女だった。ある事件があって、その記憶すら彼女は失っているが、以前の彼女をよく知るのが私くらいだという繋がりで、今もこうして付き合いがあった。私の知る昔の彼女と、今の彼女にやや齟齬があるのが、それも仕方ないとして私は納得していた。
私は茅島さんの隣に、同じようにして手摺に身体を乗せた。こうして比べてみると、彼女と自分の容姿の違いに、得も言われぬ感情を沸き立たせてしまう。彼女はめちゃくちゃに美人で、馬鹿みたいにスレンダーで、人よりも小柄な方だが、幼いという印象は全く抱かせない奇妙な魅力があった。会うたびに、彼女の顔をじっと見つめてしまう私の気持ちを、わからない人間はきっといない。
人のいない甲板。私たちだけがこんな寒い中でバカみたいなことをしている。
そう思っていた矢先に、背後から知っている人間が姿を表した。夢から覚めたみたいな気持ちになった。
「こんな所にいたのか。寒くないか」
現れた女……茅島さんの上司に当たる、医師という通り名を名乗っている本名不明の人間が、私たちを見てそう口にする。
医師は、仕事という意識を捨てずに、豪華客船だというのに堅苦しい飾り気のない格好をしている。顔は眼鏡、髪は適当に纏めている。背も高く、目立つ女だったということを、久しぶりに彼女の実物を見て思い出した。前に会ったのは、茅島さんが記憶を失った事件の時だったっけ。
「寒いけど」茅島さんが、海から首だけを振り返って、言う。「珍しいから見ておきたいの、海」
「まあ、緊張感を欠かなければ、許そう」医師は頭を掻いた。「今回の仕事の詳しい説明、加賀谷さんにはしていなかったな。そんな状態でこんな所に呼びつけて悪かったよ」
「ああ、いえ……」私は首を振る。「別に、気にしていません……」
彼女たちは単に施設と名乗っており、機械化能力者(身体に特殊な機能を持ったパーツを搭載しているサイボーグ人間の俗称)が近年引き起こしている犯罪に対抗するための組織として存在している。医師は知らないが、茅島さんはその機械化能力者であり、彼女の同僚に同じような人間が多数存在している。
私はそこにバイトとして雇われているが、身体は生身の人間だった。茅島さんと一緒にいられることと給料が良いことから、私にはこの仕事を断る理由が無かった。
「まず、峰崎というクソみたいな人間がいてな」医師は説明する。茅島さんは既に知っているのかまた海を見つめ始めた。「こいつはまあ、犯罪組織で殺し屋として雇われている危険な女なんだが、ある情報筋からのタレコミがあってな。この豪華客船に、現在も峰崎は潜んでいるっていう話だ。それを、物理的な能力を行使して制圧するのが、今回の仕事の主目的だ」
「……その情報」私は呟くように言った。医師と面と向かって話すことに慣れていない所為もあったし、私は知らない他人が苦手だった。「確かなんですか?」
「警察に、大なり小なりの犯罪組織を調査する部署があって、近年動きの激しい峰崎は、特に注目されている。直前でこちらの動きに感づかれでもしない限りは、まず間違いなく、今もこの船の何処かで息を潜めて隠れている」
「はは」茅島さんが笑った。「警察も、そこまで掴んどいて、こちらに実務は丸投げってわけ? 落ちたものね」
「現在の警察に、捜査能力はもとより、凶悪犯を制圧する力は残っていないさ。ましてや、犯罪組織のお抱えの殺し屋ともなれば、どんな被害が出るかわからん。警察衰退の原因は、その人員不足に起因する過酷な労働環境と勤務体系なんだが、そんなことで人員が死んで減ってみろ。さらに人手不足が加速するだけだよ」
「それで、死んだって痒くない私たちに押し付けてきたってわけね」茅島さんは身体を医師の方へ向けて、手摺にもたれかかって、腕まで組んだ。「この前からおかしいと思ってたのよね。私たちの仕事って、いつも犯罪者の正体を調べる以上のことを求められはしなかったのに、殺し屋を捕まえろだなんて。機能があって、それなりにトレーニングは積まされているけれど、一般人に毛が生えた程度の私たちには、そんなの荷が重いんじゃないかって思ったけど、口にしなかったわ」
茅島さんが言うには、峰崎という人間とは少し前に対峙したことがあるが、もう少しのところで、不都合があって逃げられたのだという。そんな危険な人間が、街中をウロウロしていた時期があると知ると、否応なしに寒気が沸き立ってくるような気がした。
「まあつまり」茅島さんは私に向く。微笑む。「今回はリベンジってことね。ようやく喉のつかえが取れるような気分だわ」
「それで……」私は言う。「私は、いつも通り雑務をやっていたら良いんですか?」
「そうだな」医師が答えた。「ここまで連れてきておいてなんだが、アルバイトの君に危険が及ぶことは避けたい。峰崎が発見され、うちの人員での取り押さえが始まったら、君は安全な所に逃げてもらう。それまでは、まあ私の手伝いでもしておいてくれ。内容は追って連絡するよ」
危険な殺し屋の制圧。今まで類の見ないタイプの仕事だろう。いつもこの医師は、最後の犯人に対する物理的な制圧は、警察に任せろなんて言うくせに、なんでこんな仕事をもらってきたのだろうか。
私に危険は及ばないようにすると医師は言うが、私が本当に心配をしているのは、私の身体なんかじゃない。
ちらりと、茅島ふくみを見つめる。
「峰崎の機能に変わりはない?」彼女は医師と話す。
「情報の上ではな」医師は頷く。曇り空なのに眩しいのか、それとも風が目に入って乾くのか、彼女は目を細めていた。「右腕の指先から超酸が分泌される。前回、精密女が破壊したようだが、まあ修理は容易だろう。単純な機能だが、超酸なんて代物の危険性は、記憶を失っているお前でも知っているだろう。詳しい液体の正体は不明だが、まあ大凡のものを短時間で腐食させる危険な代物だ。硫酸よりも強い酸のことをそう呼ぶ」
「まあ、映画なんかではよく見るけど」茅島さんは頷いた。「峰崎の見た目は変わってないの?」
「そういうことに頓着するような、神経質な人間でも無いさ。峰崎は見た目を変えて生きながらえようだとか、そんなことを考える人間ではないだろう。これは私の勝手な意見でもあるし、警察のプロファイリングの結果でもある」
医師は携帯端末(空中投影ディスプレイを有する、指輪型の携帯端末。解像度が低いことが難点)から写真を表示させて、私に見せた。
「これが、峰崎……」
それは隠し撮りの映像の一部のようだった。中央で、女が何処か変な方向を向いて立っていた。
何処か奇抜な色合いの服装。それに合わせるように、髪の毛の色が青い。それを頭の上の方で二つにまとめて毛玉を作っていた。顔の作りは、案外ときれいな顔立ちをしていて、とても殺し屋だとは思えなかったが、つまらなそうな表情は、医師の言う人格を表しているのかもしれなかった。
件の右腕は、当たり前だが生の腕との見た目上の違いは無かった。機械化能力者は基本的には人口被膜を用いて、その機械部分を生身と同化させて、見た目を普通の人間に限りなく近づけるのが普通だった。例外をひとり知っているけれど。
「まあ、船内でこの悪人面を見かけたら、安全な所に逃げ、私かふくみに報告しろ。決して近づくんじゃないぞ。この女は、その機能で何人もの人間をあの世に送っている、いわば害獣だ。人間だと思うな」医師は端末を閉じる。「さて。私からの説明は以上だが、お前たちの方はどうだ。船には慣れたか?」
「来て一日よ」茅島さんが答える。「なにもないわよ。思ったより船酔いしないな、っていうくらいかしら。あんたの方こそ、今回は同行するだなんて珍しい。お陰で、彩佳があんたの顔を忘れないで済むわ」
「今回は、峰崎に端を発して、奴の背後にいる組織と直接対峙するかもしれん。そうなると、現場で直接情報を仕入れたほうが、何かと楽なんだよ。うちの上層部に変に介入されるのも嫌だしな。特に、お前たちみたいな連絡不精がいると、そういう考えにもなろう」
「不精って言うほどサボってないわよ。ね、彩佳?」
「それにお前たちだけでは心配なんだよ。会ったかもしれないが、お前たち以外にもう一つ施設のチームを呼んである。二つのチームで同じ事件を担当させるなんて言うのは、施設が始まってから数えたって稀だぞ。私が出向かないでどうする」
「そんなこと言って」
茅島さんは、そこから見える範囲での船の作りを眺めてから言った。
「豪華客船に乗りたかっただけのくせして」
「…………ふん。そんな訳あるか」
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