バビロニカの巡回0.5
逃げているうちにたどり着いた場所は、もう人のいなくなった裁判所だった。
真夜中だった。私の機械の右腕は肘から先が綺麗に折れ、そこから噴射できるはずの酸が、さっきから一滴もこぼれ落ちてこない。壊れていた。痛覚機能を切っているので、痛みはないが、まともに動かすことはできなかった。
その原因は、さっき遭遇した、両腕がむき出しの機械になっている変人サイボーグ女の所為だった。あんな人畜無害そうな顔をしておきながら、私の腕を、スナック菓子みたいに簡単に折るほどの力を発揮した。
ここは、裁判所の周りだ。その無機質で、ただ角ばった親近感もクソもない建物の外観を、正門のところから見上げる。昼間は稼働していて、そこで何人に対して法を参照した裁きを決定しているのだろうか。私も、いずれはここへ連れ込まれて、将来が消え去ってしまう地獄のような判決が言い渡されるのだろうか。身の毛もよだつ想像だった。
裁きなんて、受けたくない。
だって、私には、こういう生き方しかできないもの。それを悪だというのなら、それは世間のほうが異常だと思う。私のような人間を、受け入れる皿を用意しない世間が悪い。私は悪くない。暇さえあれば、そうやって自分に言い聞かせ続けている。
私は悪くない。悪くない……。
裁判所の脇、細い通り道を駆け抜けた。遮蔽物は多いが、安心はできない。私を追うあいつらは、何件もの機械化能力者……つまりは私と同じようなサイボーグ人間のことだけれど、その機械化能力を使った犯罪者の正体と機能と手口を明らかにして、さらには物理的な制圧までやってきた連中だ。
そもそも、私への依頼内容は単純だった。この憎い施設の派遣調査員どもを殺してくれ、というものだった。依頼主は、私の所属する犯罪組織の上層部だった。うちの組織も、奴らに対して相当な積年の恨みを抱いているらしい。
ここは私が引き受けるしか無い、と変な使命感に燃えていたのもあって、私は二つ返事でそんな依頼を引き受けてしまった。内容がシンプルだったのも、私の好感を招いた。
だがこの右腕が物語っている。私の仕事は、見事に失敗に終わった。
シンプルで簡単な仕事なんて、私なんかに回ってくるわけないんだって、その時に思い知った。
両腕が機械の変態女、その名前は精密女と言った。彼女の本名は、誰も知らないらしい。その女が、私が硫酸を撒き散らす前に、右腕を掴んで、流れるような速さで折った。バカみたいな力と反応速度だった。私は、腕を折られると同時に、ああこれでは組織の連中も、何人か犠牲になってるのもわかるな、という関心を胸の内に沸き立たせてしまった。
駆けろ。駆けろ。安心するな。確かに、精密女は、足の速い方ではない。その腕の重量は、走ることに対してはマイナスに働いている事に気づいたのは、数十分前のことだ。
けれど、奴らのチームには、まだ二人残っている。この二人も、相当な厄介者だった。
ひとりは茅島ふくみ。蝙蝠女と呼ばれることもあるらしいが、その名前を本人は気に入っていない。私が精密女を背後から襲おうとしたときに、その驚異的な聴力で私の接近に気づき、その頭の回転の速さで、逆に私を陥れるように仕向けた。お陰でこのザマだった。
残りのひとりは八頭司美雪。演算女と呼ばれる、若そうな金髪女。限定的で特殊な機能なのか、機能を用いているところは見かけないし、どういう機能なのかもはっきりとしないが、コンピューター関係に強く、精密女の両腕のメンテナンスや動作のラーニングなんかも彼女の仕事のひとつだった。
精密女が追ってこれないとしても、あの茅島ふくみとかいう女の聴力があれば、私がこの裁判所に逃げ込んでいることなんて、奴らには筒抜けだろう。追跡が無いために、かなりうまく逃げているような錯覚を覚えるが、茅島ふくみがいる以上、何処にいたってあの女の手のひらの上であると考えた方がいい。
組織の使いとの合流地点は、ここから近い。もうすぐ、逃げられるはずなのに、その事実に対して現実感がなかった。
冷や汗が吹き出る。なにか、嫌な予感が私を苛んでいる。
衣服の中まで見られているような、気持ちの悪さ。
その予感に、
付き従う前に、なにか物音が聞こえて、
私は、急に頭に強い衝撃を覚えて、
ぐらりと視界が揺れて、
そのまま地面に倒れ込む。
なんだ――
何があったのか、理解が出来ない。
何も考えないで、歯を食いしばって、身体を起こす。転がっているのは、私の身体だけではない。
水のたっぷりと入ったペットボトルが、アスファルトの上を、自走するように転がっている。底辺には、赤い血が付いている。私の頭から、今吹き出ている血液だった。
上から?
ぞっとして、見上げる。
そこには、月を背にして、こちらに向かってひらひらと手を降っている女が、裁判所の建物の屋上に佇んでいる様子が、シルエットとして浮かび上がっている。
あいつは、間違いない。
茅島ふくみ――。
あの女の隣には、八頭司美雪。
どういう仕掛けだったのかはわからないが、私の頭に確実にペットボトルを命中させる算段を立てていたらしい。
なら危険だ。こんなところで、脳を揺らして、わけがわからなくなっている場合じゃない。
あいつが、やってくるんだ。
「峰崎さん。峰崎仁奈さん」
私の名前を呼んで、ゆっくりと硬い道を踏みしめながら、
ゆらりと両腕を持ち上げて、楽しそうに指先を開閉させている女が、
私の後ろから、近づいてくる。
「ここまでよく逃げましたけど」精密女が平然とした口調で言う。「まあここでゲームセットですね。諦めてください。無能な警察にも通報しています。あなたの罪は……どれほどのものになるのか、私は知りませんけど、今までに何人殺しました?」
嫌だ。
逃げるんだ。
捕まりたくない。
好きで殺しなんてやっていたわけがない。
逃げるんだ。
ここを飛び出して、組織のために働いて……
それ以外の生き方なんて、私には出来なかったんだ。
快楽殺人者なんかじゃない。
仕方なかった。仕方がなかったんだから……。
その時だった。
私の向かっていた方向から、車がスピードを上げて近づいてきた。
振り返る。ナンバーが見える。
それは組織が、合流地点に待機させてある、と連絡をよこしてきた車だった。
車はスピードを落とすつもりはないらしい。
そのまま私の方に突っ込んでくる。
運転席。運転手は指を向けている。
ドアの方に。窓は開いている。そこから、走りながら飛び乗れとでも言うのか?
やるしか無い。
この精密女から逃げる方法なんて、それ以外にない。
飛び乗ろう。
足に力を込めて、直立した。
決意した矢先に、車は私の意思なんて踏み躙るように、スピードを更に上げて突っ込んできた。
私は驚いて、飛び込みながら道の脇に逃げる。
車は、精密女を目掛けて飛ばす。
タイヤが、エンジンが鳴っている。
進む。
走る。
轢くつもりか。
なら、良い。それでいい。殺せ。そのまま、殺せ。
そう念じた。
けれど、精密女は、私と同じような格好で横へ飛び退く。
同時に車は急停止して、後部座席のドアを開けた。
「乗って!」
運転手。それが誰なのかは私も知らないが、そんなことは些細な問題だった。
私は後部座席に乗り込むと、ドアを慌てて閉じる。
発進。
後ろの方へ、精密女を残して。
景色が流れ始める。
細い道を抜けて、裁判所の正門前。
その直後に、背後のガラスが割れた。
「うわっ!」
破片が首筋にかかる。
幸いに、怪我はなかったが、私は頭を低くして、座席の間に身を落とした。
飛び込んで来たのは、さっきのペットボトルだ。車の動きとともに、ペットボトルが私の足元で蠢いていた。
「まだあいつ、諦めてないの……」運転手が呟く。「もっと飛ばさないと……」
アクセルと踏むと同時に、身体にも圧力が掛かった。
割れた窓を覗き込む。
精密女の姿は見えない。
茅島ふくみも、八頭司美雪も、追ってきてはいないようだった。
本当にそうなのか。
茅島ふくみなら、きっと耳でこの車を追跡している。
早く。早く他の車と群れに合流して、この走行音を紛れさせないと安心なんか出来ない。
車はそうしているうちに公道へ出た。そこからはオートドライブの管轄内だったが、そんなものを使ってちんたらと走っていては、奴らに追いつかれる。運転手は手動運転で、車の速度を上げていく。
しばらくは、無言で両手を合わせて祈った。右腕は自由に動かなかったが、神に祈るくらいは出来た。
「……追ってこないわね」
もう、大丈夫なのか。
ゆっくりと、窓の外を確認する。街中だ。ネオンライトが、平和ボケした街を照らし続けている様子が目に入ってくる。いつの間にかハイウェイを通っているらしく、道路は地表からかなり高いところにあった。下を覗き込むと真っ暗で奈落の底みたいだった。
「失敗したわけ?」
その運転手の声を聞いて、彼女が誰なのかを思い出した。組織の、私と同じくらいの地位に位置している女だった。殺し屋というほどではないが、組織の非合法的な仕事の手伝いをしている。なんで依頼で人を殺している私と同じ地位なのか、不思議でしょうがなかった。
「……流石に」私は今日この日、初めて声というものを発したことを思い出す。自分の声は、籠もったように聞こえて、発生するたびに嫌悪感が私を包んでいた。「あの両腕サイボーグ変態女と耳がめちゃくちゃいい女がいたら、組織の奴らも何人か捕まるわ、って話だよ」
「あいつら、あいつらの施設じゃ、新人だって話よ。もっとヤバいのがいるんだってさ」
「なんでそんな奴らを相手にしないといけないんだよ」
腹が立っていた。
もう私は、あの女に対する復讐心を、この右腕を眺める度に思い出せるようになっていた。
精密女……。茅島ふくみ……。それから、八頭司美雪。
この手で地獄に送らなければならない女たちだ。
仕事がどうだとか、そんなことはもう関係なかった。
同胞の仕返しもどうだっていい。
「うちも、仕事でやってるから」運転手は言う。「仕事の邪魔をするあの施設の連中っていうのは目障りなのよね。でも舐め過ぎなのよね、うちも。あいつらの施設を調査すること自体はは大したハードルじゃないけど、あいつらを殺すってなれば、向かった構成員が今のところ全員返り討ちにあってるわけでしょ。もっと本腰入れて潰さないと駄目よ」
「あんまり人員を割けないって聞いたよ」私は思い出す。電話越しに聞いた、私への指示役の声を。「あまり大勢で向かうと、組織の存在自体が施設に露呈するからそれも出来ない、だとか」
「大した組織じゃないのに、なにイキってるのよ、って話よ」運転手は、笑った。「この程度の犯罪組織なんて、それこそこの街という狭い範囲に限っても、何十組だって存在するわよ。どうせなら、さっさと手柄を上げればいいのに……」
「そういえばあんたさ」私は思い出して、彼女に言う。「前から殺人計画、練ってるんだっけ?」
「ええ……。前に話したっけ。組織の狙う人間と私の殺したい人間が一致してるの。そのためならある程度の出資もしてくれるってさ」
「優しい組織だこと」
私は考える。復讐。右腕。こいつの計画。
それらを最大限に利用できる方法。
「ねえ。それってさ、私も手伝って良い?」
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