第8話 8年越しの
「単刀直入に言うと、来月10日からさっそくコペンハーゲンに出向いてもらう。今回は約3週間の滞在の予定だ」
「えぇ!?高瀬さん、そんな急な」
ラースがオーレと談笑していたその日、日本のとある会議室では、郁だけに大きな爆弾が投下されていた。
昨日ラースの企画展の主担当に抜擢され、驚きのあまり、郁は心ここにあらずのまま過ごしていたが、またまた急展開である。
『えぇぇ、直接会うのか。仕事とはいえ、気まずい。恥ずかしい。どんな顔して会えばいいんだよ~。もう、ここでうずくまりたい』
郁の心持ちを知らない高瀬は、腕まくりをしながらニコニコと新事実を投下していく。
「確かに急な話ではあるが、今月末で、伊原が参加している美術展の『京都画壇の画家たち』は閉幕するし、その担当の梶谷零にも許可は取ってる。だから、もろもろ名残惜しいだろうが、伊原はこの企画展に集中してほしい。これからは、彼とどのような空間をつくりたいか考えることに専念してくれ」
郁は動揺のあまり、うわずった声で口をひらく。
「打ち合わせはオンラインでもできますよね?ありがたい抜擢ですが、どうしてこのタイミングで赴く必要があるのでしょうか?」
「んー、そうだな、打ち合わせは日本にいてもできる。ただ、このタイミングで赴いてもらいたいのには幾つか理由がある。1つ目は、ラース•ニールセンの陶芸作品やテキスタイル製品は、日本国内にはまだ流通していない。日本のファンが彼の作品を身近に感じられるのは、この企画展が初になるだろう。俺も本物は見たことがないんだ。伊原もそうだろう? 伊原も、彼の人となりを知り、既作にふれて、イメージを掴んだ上で企画展の構想を練ってほしいんだ。主担当のお前が、表現者の理解者であってほしい。2つ目は、伊原自身の見聞を広めるための時間になればと思っている。学生時代の専攻は、日本美術だと以前言っていたよな。キュレーターとしてキャリアアップしていく中で、数多あるアートに出会ってほしいし、アンテナを張っていてもらいたい。コペンハーゲン滞在中に、ラース•ニールセン以外のアーティストのことも知れたら、いずれ新たな企画も立てられるだろう。まぁ、そんな理由で行ってもらいたいんだ。主担当として初の案件だから戸惑うかもしれないが、なにか心配ごとがあれば俺を頼ってくれ」
高瀬の話を前のめりで聞いていた郁だったが、居住まいを正して、高瀬の言葉を心のなかで反芻する。
『表現者の理解者。俺がラースの……』
『俺があいつの一番の理解者になりたい』
色んな感情で心がぐちゃぐちゃになっているけれど、この言葉がストンと胸に響いた。
「このお話を受けて、昨日から驚いていましたが、高瀬さんにそこまで言っていただけるのでしたら、俺はぜひやりたいです。俺で良いのか?って実は悩んでいたのですが、やっと覚悟が決まりました。日本国内でも、ラース•ニールセンの素晴らしさを知ってもらいたいです。俺が彼の魅力を引き出せるような企画にします。必ず」
「おお。伊原も頼もしくなったな! 仲畑課長にも、伊原がやる気になってると伝えておくよ。どんな空間をつくるのか楽しみにしてる」
椅子から立ち上がるときに、高瀬から手を差しだされ、ぐっと力強く握り返す。
「高瀬さんに口説かれて俄然やる気になりました。俺からも仲畑課長に話しておきます」
「おう!」
会議室で高瀬と別れて廊下を歩きながら、郁はこれからに思いを馳せていた。
(8年越しにやっと、ラースと向き合える気がする。少し勇気が出てきた)
8年前、自分の恋心を告げることなく勝手に自爆して、疎遠になった。それからは、寂しさを埋めようと様々な恋愛をしても、ますます虚しさが高まる一方だった。
だけど、それらの思いを振り切るように、仕事に邁進してきた今なら。
(今の俺なら、ちゃんと向き合える)
恋愛ではなくて、表現者としてのラースと向き合えるのなら。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます