第6話 その知らせは突然に
深夜23時。
夜が深まってもなお、ニューヨークの街の喧騒がかすかに聴こえてくる。
ラースは、寝室のダークグリーンのカーテンを開けて星空を眺めようと目を凝らすが、高層ビルの人工的な光に遮られ、星空ははっきりと見えない。
外の空気を吸いたくなって、紺のガウンのまま客室のバルコニーに出て、目をつぶり、ゆっくりと深呼吸する。
(この空気、この街並みが、なんだか好きだ)
ここは、マンハッタンのミッドタウンの中心部、5番街イースト59thストリートに面する高級コンドミニアムホテル。
ラースは次回作の思索に耽るため、4週間の滞在場所にこのホテルを選んでいた。
ここは、ニューヨーク近代美術館やメトロポリタン美術館、セントラルパークにも歩いていける場所にあり、滞在先で暮らすように過ごせる気兼ねなさが気に入っているのだ。
今日は手づくりの夕食を済ませ、シャワーを浴びて後は寝るだけなのだが、気持ちが昂ぶってすんなり眠れそうにない。
(このとても寒い日に、軽装で外に出るんじゃなかった。バカだな。はやく部屋に入ろう)
2月のニューヨークは氷点下になる日が多く、まだまだ春の兆しはみえない。
ラースは、極寒のバルコニーから足早に寝室に戻る。いつもならしないような行動を、今日はとってしまう。だけど、それもしょうがない。
ふと、時計を見上げ、日本に想いを馳せる。
日本時間は、今何時だ?
(もうすぐ、郁に知らせが入るはず。ふふっ、会ったときどんな顔するかな、楽しみだな)
なぜならー
日本時間13時45分。東京。
「えっ、俺が、ラース•ニールセン企画展の主担当になるんですか!? 高瀬さんの担当案件でしたよね? どうして!」
今のところ人生史上最大の驚きに、郁は思わず前のめりになる。
「伊原、顔近いって。逆に俺がびっくりしただろ。まぁ、座って聞いてくれ」
高瀬の言葉で、郁はヘナヘナと椅子に座りなおす。
「どうしてもなにも。先方がそれをお望みだからさ。仲畑課長の許可は取ってあるし、俺がサブにつくから心配すんな」
「いらいやいや、そーいうことではなくてですね……」
「なにが心配なんだ? 経験を積めるまたとないチャンスじゃないか」
「ぜひ、やりたいです。ただ、先方はなぜ俺を知っていたんでしょう? 俺はラース•ニールセンさんと接点はありません」
「んー、彼いわく、日本に留学していたときの知人がここにいると聞いて、それが伊原だから主担当にしてほしいとな。その代わり、最高の企画展になるのは保証すると言ってたぞ。来期の目玉アーティストにそこまで言われちゃーな。本当のところは、本人に聞いてみろ」
「お、おれ、学生時代の記憶は何もありません……」
高瀬にウソをついてしまったがために、なんだかやましい気持ちで小声になってしまった。
「伊原が忘れているだけで、彼はお前のことを知っていたんだから、少しは接点があったんじゃないか? 何がともあれ、引き受けてくれてありがとな。んじゃ、この件の今後の流れは別途レクチャーするから、この話はひとまず終わりにして、打ち合わせの本題に入るぞ」
「はい……」
その後の打ち合わせは、全く集中できなかった。資料に目を通しても、読み込めずにちんぷんかんぷんだった。
それもそのはず、ラース•ニールセンというワードで、すべてが吹っ飛んだのだから。
帰路につく時間帯になると、空はすでに暮色に包まれていた。
郁は、商店街で買った今晩の惣菜の入ったビニール袋をぶら下げて歩きながら、物思いに耽っていた。
(8年ぶりか…もう会うこともないと思っていたのに。ラースの帰国前、気まずい別れ方をしたのに、なんでまた俺なの?)
またとない大抜擢は、普通なら大喜びしていただろうが、高瀬の説明も腑に落ちない。
(どうして? なにを考えてるの?何をしたいの、ねぇ、ラース!)
今日でこの情報量なら、明日はどんな日になるのだろう。これからを思うと、心がかき乱される。
(早く帰って、今日はゆっくりしたい)
郁はそれだけを考えて、家路を急いだ。
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