第4話 思わぬ名前
(始業時間よりだいぶ早く来ちゃったなー)
郁はエレベーターに乗りこみ、オフィスのある6階のボタンを押した。
行き先を表すオレンジ色の点灯ランプをぼんやりとみつめる。
郁がオフィスに入ると、どこかからコーヒーのほろ苦い香りが漂ってくる。
今日は珍しく自分が一番乗りと思ったが、そうじゃないらしい。
そこには、パソコンを見つめて、なにやら険しい表情をしている先輩の高瀬光太郎がいた。
「おはようございます。高瀬さん」
郁の挨拶で、高瀬は顔を上げて表情を綻ばせた。
「ん、おはよ。今日先約あったか?随分お早い出勤だな」
「特になにも予定はないんですが、なんだか早く起きちゃって。今日くらい早く出勤してみようかなーって」
「なんだそれ。相変わらずマイペースだな、伊原は」
郁は自席に黒のリュックを置いて、早速ドリップコーヒーメーカーに手をつける。
コポコポと注がれるコーヒーを眺める時間が好きだ。
「高瀬さんこそ、いつもより1時間も早く来てるじゃないですか?今日なにかありましたっけ?」
高瀬はいつもの人懐っこい笑みを浮かべていたが、頭を掻きながら浮かない表情に戻った。
「いやぁ、色々煮詰まってるんだけど、特に来年の企画展の調整が難航してるの。んで、急遽海外在住のアーティストと打ち合わせすることになったわけ。先方は気難しい人だとウワサで聞いてるし、やっつけの資料じゃいけないなーって思ってさ」
郁の会社は、国内外の美術館や博物館、個人コレクターなどと独自のネットワークを持ち、企画立案から企画展の誘致、運営を一手に担っている。
そこで、郁より7歳年上の高瀬光太郎は、主任として複数の企画立案や関係各所との連携業務を行っている。
今期にとどまらず、来年以降の案件も同時並行で動いているので、高瀬は目まぐるしい忙しさのはずだ。
「それは大変ですね。来年の企画といえば色々ありますけど、どなたの案件なんですか?」
「ラース•ニールセン。ここ数年で、ニューヨーク近代美術館とストックホルム近代美術館で個展開催した、新進気鋭のデンマークの陶芸家兼テキスタイルデザイナー。今32歳でこの活躍ぶりは異例中の異例だぞ。伊原は知ってた?」
思わぬ名前に胸がギュッとなり、声が掠れてなかなか出てこない。動揺のあまり、危なくコーヒーをこぼすところだった。
ラース
(この名前をまた聞くとは……)
「ラース•ニールセンですか…?いえ、知りませんでした」
「知らねぇの? お前は勉強家だから、知ってるもんだと思ってたわ。後で調べてみろ。ちなみに、超イケメン。あ~天賦の才能もあってイケメンで本当羨ましいわ!」
「えぇ。調べてみます。それより、高瀬さん。打ち合わせの資料作らなくて大丈夫なんですか? その方は気難しい人なんでしょう?」
「あっ、いっけねぇ。今日は会議ラッシュなんだった。それと伊原、後で映画ポスター展の打ち合わせするから、午後イチあけといて」
「わかりました。では、後ほど」
郁は、高瀬と別れて自席に戻ったが、ソワソワと落ち着かない気分でいた。
そして緊張すると、なぜか咳き込んでしまう癖がある。
(あー、嫌になっちゃう)
郁は落ち着かない気持ちのまま、先ほどの高瀬の言葉を思い返していた。
(ラース•ニールセン。新進気鋭のデンマークの陶芸家兼テキスタイルデザイナー)
本当は知っている。
なんなら、ラースの掲載記事は全て購入して、スクラップを作っているし、ゴシップ誌で今の恋人も知っている…
ラースを良い思い出にしたいと思いつつも、相反した行動ばかりをとっている。
(それだけ、なぜか好きになっちゃったんだよ。いい加減この気持ちを昇華しないと……)
28歳になってもなお、我ながら拗らせているのは分かっている。
しばし郁は机に突っ伏して、ひとり悶々としていた。
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