彼岸小路
遠くから聞こえる救急者のサイレンが鈴虫の音色に交じる。どうやら背後から聞こえるようだ。どこかで誰かが生死をさまよっていることを他人事のように思う自分の冷たさに嫌悪感を抱いたが、サイレンのくぐもった音は再びの孤独を紛らわせた。
あの男と話してから思案が巡る。来た道を戻っても同じことの繰り返し。この言葉が妙に胸に引っかかった。私が彼女と仕様もない喧嘩をしたことを見透かしていたように感じる。これから彼女と会う度にくだらない喧嘩をする予感が頭をよぎった。本当にそうなってしまうのなら共にいることに引け目を感じてしまうだろう。胸の奥を針で刺される痛みが走った。一人でいると暗いことばかり考えてしまう。そのたびに彼女の笑顔を思い出して強引に気分を明るくしてきたが、今は私に向ける怒りと悲しみに満ちた表情ばかりが頭に浮かぶ。脳裏に焼き付く彼女の表情を忘れようと悲観的な思案に何度も逃げるのだった。やがて思考が堂々巡りをしていることを無意味に感じて何かを考えることを諦めた。脳の内側で声となって反響する思考が消えると、電源を落としたパソコンがファンを落としたときと同じ静寂がもたらされた。
静けさで研ぎ澄まされた感覚が視線を捉える。視線のする方向に目を向けると、今度はカラスが二羽、私を見ていた。しかし先ほどのようにカラスに対して苛つく気力はもうなかった。その様子を見たカラスたちはおもむろに飛び去って行った。ばさばさと羽ばたく音に私の足音が重なる。その裏では鈴虫の倍音を利かせた音色と風が木々の葉を揺らす音、街路灯が身を焦がす音、どこかで水がちょろちょろと流れる音、さまざまな小さい音が聞こえていた。ひとつひとつはまとまりのない独立した音として日が沈んだ路地を申し訳程度に賑やかしているが、全体を捉えると前衛的な音楽のように鳴り響いている。
その中のひとつ、水の流れる音が歩を進めるほどに大きくなり、その音が明瞭に聞こえるようになる頃に広めの道との交差点へと出た。心が躍ったのも束の間、足元に流れる用水路にはまりそうになり、慌ててその場に踏みとどまった。あの男が足元に気をつけろと言っていたのはこのことだったのか。ここがあの男の言っていた出口なのだろうかとも思ったが、ここが駅前から続く大通りではないことは明白だった。目の前の道路は普通であれば車がすれ違えるような広い道ではあるが、珍しいことに道の中心が用水路となって右から左に川が流れている。水の流れる音はここが源だったようだ。それに加えて用水路を通す道の両端は暗いせいか確認することができず、どこまでも続いているように思えた。久しぶりに見つけたここ以外の道も延々と続いていくように思えてうんざりとした。しかし奇妙に感じられたがここまで見てきた違和感の類とは別の印象を抱き、なにかが変わる予感がする。ここで曲がれば長い一本道から出られる。そう思った。
そう思ったのだが、ふと男の言っていたことが思い出される。私は以前道を逸れて引き返したと言っていた。彼が言っていたことは比喩ではなく、そのままこの道に迷い込んだときのことを言っていたのだろうか。しかし、この街に引っ越してきてからここまで道に迷ったことはないはずだ。ないはずの記憶を追う。考えながらあたりを見渡すと用水路の底に何かが溜まっているのを見た。暗闇の水の中に目を凝らす。じっと見てみると底に沈んでいるのは大量の硬貨だった。なかには旧貨幣もところどころに沈んでいた。この光景には見覚えがあった。子供のころだ。
私は幼児期、祖母の家に帰省した際に迷子になって確かにこの光景を見たことがあった。そのときは用水路に沿って歩いたのだ。そうして気がついたときにはなぜか祖母の家にいた。ぼやけた記憶だが、確かに覚えている。しかし、もしその時の記憶が確かなら不可解なことが多すぎる。現在私が暮らしている町と祖母の家があった場所は県境を幾つか越えた距離にある。それにあの男は、私がここに迷い込んだことがあることを知っているのだ。彼はいったい何を知っているのだろう。
嫌な風が背中を押す。用水路を渡ったさきの小路からはこの世のものとは思えない引力が私に手を伸ばしている。前後から不気味な力を加えられている。影の消えた地面からは重力を感じない。強く地面を踏みしめれば、月面でそうするようにふわふわと浮かび上がっていってしまうだろう。まともな思考はしていなかった。風船のように外の力に任せてしまおうと思ってしまった。
まっすぐ進めばよい。
彼の言葉が最後の一押しとなり、私は用水路の上を跳んでいた。向こう岸に着地すると、私をこちらへいざなった風たちは凪いでいた。
こちら側に着地して私は納得してしまった。甘く、暖かいにおいがした。ああそういうことだったのか。ではもう彼女に別れを告げる必要もない、と安堵すると同時に喧嘩で終わってしまったことを後悔した。いつか再開することがあれば、そのときに精算をしよう。
わたしは先人たちに倣って、ポケットから財布を取り出して百円硬貨を二枚、川底へ投げ入れた。財布だけは持ってきてよかった。手ぶらで来てしまえばずっとここで迷い続けることになっていたかもしれない。投げ入れた硬貨がゆらゆらとそこに落ちていくのを眺めていると、蝉の死骸が川上から流されて目の前を通過する。こちら側に来ることができない蝉を哀れに思った。硬貨が動かなくなって底についたことを確認すると、私は身を翻して先へ向かうことにした。
心地の良いにおいが漂う。当たり前だが、初めて嗅ぐ彼岸の香り。それは甘く暖かい、此岸のにおいよりも良いにおいだった。
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