怪しい男 2

結論から言えば、怒られるどころか微笑ましく見られてしまっていました。私の部屋からいきなり大声が聞こえてきて驚いたとのことでしたが、恋人と衝突することも大事なことだと優しく許してくださいました。ゆっくりと穏やかな話し方が、今はもう亡くなった祖母と重なります。その久しぶりに浴びた優しさの類に、怒りに身構えた身体が拍子抜けしてしまい、やはり泣き出しそうになってしまいました。

自室に戻っておもむろに手に取った携帯に彼からの返信はありませんでした。予想はしていましたが、実際にその事実を突きつけられるとかすかな期待を後悔したくなります。彼は携帯を覗いていないのでしょうか、それとも私とはもう口を利かないという意思表示なのでしょうか。自分が彼に対して非道いふるまいをしてしまったとは思っていますが、返信のひとつくらいよこしてくれても良いではないですか。

子ども。

頭に浮かんだ彼が大人げなくへそを曲げており、ふつふつと湧いてくる怒りが後悔を押しのけていきました。嘘です。ぶつけたいのは怒りではなく謝罪です。もうこうなれば彼のお家へ行って渾身の謝罪をぶつけてやります。本当にごめんなさい。脳内で予行演習をします。ぎこちない口調が流暢になったあたりでスニーカーを履いて玄関の扉を開けました。

すっかり日は沈み、うだるような暑さが影を潜めておりました。熱を失っていく大気と昼間の喧騒を夜風が洗い流して孤独なにおいを振りまいていく中を進みました。夜道の中を街路灯を目印に歩くのは恐ろしくもあり、心地良くもありました。

まばらにすれ違う方々はそれぞれ異なった様相を呈していました。仕事帰りのサラリーマンさんの足取りは重たく本日の業務の過酷さを物語っております。大学生のサークルか学科仲間であろう方々は気持ちよく酔っておられるようで、どうやら二軒目のお店を探してらっしゃいました。般若心経を唱えながら自転車を漕ぐおばさまはよく分かりませんが、何か大きな使命を持っているのでしょう。背の高い細身の男性は足早にすたすたと歩いていたかと思えば私の目の前でぴた、と立ち止まりました。

「こんばんは。」

知らない男性にいきなり話しかけられて身体が強張りました。

「こんばんは…。」

唐突に話しかけられたので鸚鵡のように言葉を返すことしかできませんでした。しかし男性は一言も発せず立ち尽くすのみです。

「あの、どうかなさいましたか?」

異質な男性の佇まいに恐ろしくなり、口からか細い声が漏れてしまいました。

「いえ、どうしたというわけではないのですが少し気になりまして。」

そういうと、男性は再び黙って私を見つめます。

「あの、用がないならすみません、急いでいるので…。」

身の危険を感じながらも律儀に断りを入れてしまう私はなんと阿呆なのかと自責しましたが、そうする他にこの場を後にする方法が思いつきませんでした。逃げるように立ち去ろうとすると、「もうそろそろ。」と男性が口を開き、再び体が強張って、右足を前に出した状態で固まってしまいました。

「もうそろそろ、〇〇君は抜けただろうか。なあ君。」

彼の名前が出てきてぎょっとしました。彼とこの男性は知り合いなのでしょうか。知り合いなのだとしても私と彼の関係を知っているかのように話しかけられたことが不可解です。私はこの男性とは当然面識もありません。それに言葉の意味がさっぱり分かりませんでした。

「ちょっと意味がわからないです。それになんで私が彼と…。」

「ああ、それは気にしなくて良い。知っていただけのことだ。」

言い淀んだ私の言葉を上塗りするように、男性は答えます。

知っていたとは?なおさら不可解です。恐怖さえ感じます。

「あの、彼が抜けたって、何から…。」

「迷いからだ。迷っていたようなのでな、出口を目指して歩き続けろと言ってやったのだ。しかし、そうすると決めたらしいので心配はいらないかも知れないな。」

「いやあの、全然意味が…。」

「引き返しても同じことだとも言ってやった憶えがあるな。」

何を言っているのでしょう、明快なことを全く喋りません。私が想像しうる限りの不審者であればすでにここから立ち去っていますが、男性が垂れ流す妖しげな引力が私を捕らえます。〇〇とこの男性はお知り合いの仲なのでしょうが、この男性がどうして〇〇に曖昧模糊な助言をする運びとなったのかてんで検討がつきません。

「もしかして、私たちが喧嘩したこと、彼から聞いたのですか?」

不意に浮かんだひとつの想像が精査もされずに喉の関門を悠々と飛び越えていきました。

「その話をしていたわけではないが、しかしそれに通ずることでもある。一度してしまったことをやり直すことはできない。引き返しても同じことを繰り返すだけなのだから前進することが重要である。」

身に覚えのあることを言われました。私は正に前進するために彼のおうちへ向かっているのです。自分の行動を肯定された気がして、この男性に対する不信感がすこし晴れたように思えます。私はいつか詐欺に引っかかるのでしょうか。

しかし男性の言葉にどう返していいか分からず、「そうでしたか。」と興ざめしたかのような相槌を打ってしまいました。

「うん、君とはしばらく会うことはないだろうが、いかなる時も前進するようにしたまえ。」

会話が終わる予感を感じ、「はい。」と小さく会釈をしました。

「それではな。私は次の人のもとへ向かうとするよ。」

そういうと彼は先ほどのように足早に歩いていきました。どこからか救急車の音が近づいてきて、男性の足音がサイレンにかき消されました。救急車が私の隣を抜けるのを目で追っている間に男性はいなくなってしまいました。

男性は次の人のもとへ向かうと言っていましたが、あのような会話をすることが彼の生業なのでしょうか。危害を加えないだけの危ない人物なのかもしれません。きっと彼は妖怪なのでしょう。妖怪さんが歩いていった方向に背を向けて、私は○○のもとへ向かうことにしました。妖怪さんからいただいた前進の二文字が私の脚を動かします。○○は許してくれるでしょうか。きっと二人でなら前に進んでいけると信じることにします。

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