怪しい男 1
おかしい。変だ。不気味である。とある違和感を覚えてからというもの、目に映るものすべてが不自然に思えてくる。一歩踏み出す毎にしこりがひとつ、またひとつと心臓の内側に現れる。そのしこりを排除しようと鼓動がはやく大きくなってゆくのを感じる。不自然に思う程度であればまだ心の平穏は保てていたのかもしれないが、自分が得体のしれない恐怖に追われているとはっきりと認識してしまったのはこの小路がどうやら尋常ならない小路であると断定せざるを得なくなってからだった。
時は少しさかのぼる。なかなか小路から出られずにすっかり空は暗くなってしまった。等間隔に建つ街路灯の明かりを追うように道なりに歩く。このような状況で郷愁を心地よく感じる余裕はなく、焦りに押されて早歩きになる。右足が地面につくと同時に左足で地面を蹴る。左足が地面につくと同時に右足で地面を蹴る。その繰り返し。走り出してしまいそうになる下半身を深く息を吸い込んで落ち着けた。目をぐっと閉じて開けると先ほどまでの視野がいかに狭かったものかを思い知る。暗闇に潜んでカラスが一羽、民家の雨どいの上から私を凝視していた。まるで獲物が油断する機がやって来るのを待っているかのようだ。あっちへ行け、と睨み返すとカラスは民家の裏へと飛び降りた。カラスの気配がなくなったことを感じとり、再び歩き出そうと民家の屋根から視線を落とした。不意に落としすぎた視線の先の路面表示が視界に映ったときに瞬きをしたが、瞬きの刹那にそれの異常さに目を凝らした。
その路面標示はそれ単体で見れば何らおかしなものではない。むしろ退屈さも感じるほど凡庸なものだったが設置されている道路がこの小路であるという事実が、一瞬にして異常さを纏った代物へと変貌させた。足元のコンクリートにはかすれた50の文字が大きく張り付いていた。50キロ制限という意味だと理解するまでに時間を要したのも無理はないだろう。50キロ制限。この道が?このような車一台が何とか通り抜けられるかどうかという細道では、向こう見ずな若者が運転するスクーターでも徐行する。そのちぐはぐさに気味悪さを覚えて、踏んづけてしまった犬の排泄物から足を離すように一歩後ずさりをした。数秒その場に硬直してしまったが、得体のしれない気味悪さをその一瞬で理解できるはずもなかった。身の毛がよだち、腕に当たる夜風が一層冷たく吹く。
弛緩した筋肉に無理矢理力を入れて歩きながら考えてみる。きっと標識を書いた作業員が間違えて書いてしまったのだ。間違えた後も細い路地では行政も気づかずに長い年月放置されてしまったのだ。思い至った答えは純粋な予想というよりも自分を納得させるためのものだった。はやくここから逃げ出したい。最後に見た彼女の顔が追想される。普段のように微笑む彼女が今現れてくれればどんなに安堵することができるだろう。来るはずもない彼女を期待して、小路の向こうへ目をやる。視線の先にある一対のカーブミラーが正面の街路灯に照らされていて、宵のうちにも関わらずくっきりと景色を映し出す。手前のミラーにいやに鮮明に映り込んだ私がこちらを覗く。鏡の中からじっとこちらを見つめる自分と目が合い思わず視線を反らした。もう何を見ても肩にのしかかるもの恐ろしさが増すばかりだった。もう少しでも気を紛らわすことができればよいと思い、カーブミラーのある曲がり角に入ってしまおうと考えた。どうせ私道だろうがなにかしらはあるだろう、あってくれないと困る、とカーブミラーの付け根を目で追いながら反対側へ体を傾けた。それが間違いであった。
進行方向に顔を振ると目の前に壁が立ちふさがり慌てて立ち止まった。曲がり角だと思って入った道は道ではなく、奥行き1メートルにも満たないほどのブロック塀に囲まれた淵だったのだ。驚きが収まる間もなく背後から異様な気配が漂った。一本道にカーブミラーが在る。明らかにおかしい。これはもう小さな違和感だとか、間違えて建てられてしまっただとか、そういう子供騙しの言い訳の類では片づけられない。もしかするとカーブミラーなんてなかったのかも知れない、気味の悪い空気に気圧されて見た幻想かも知れない。そう自分に言い聞かせてみたが、鏡の奥から覗いていた私の瞳の黒さがくっきりと脳裏にこびりついている。振り返りたくなかった。そこにカーブミラーが在ろうがなかろうがどちらにしろ、振り向いた瞬間気が狂ってしまう気がして薄暗い灯りの下で俯き立ち尽くしてしまった。臓器がぐるぐると掻き回されるような気持ち悪さが喉の奥から込み上がってくる。全身から力が抜けてゆくのを頭の重さに振り回された視界で察した。よろけて体勢を崩しそうになったそのとき、
「おい」
と、背後から男の声が響いた。ぶっきらぼうに発せられたその声に驚き、指の先まで筋肉が収縮する。ばっ、と思わず振り返ると、そこには背の高い細身の男が立っていた。彼の顔は街路灯から延びる光の外に出ているせいでよく分からない。
「立ちションか?まったく呑気なものだな。」
人がいたことに呆気に取られていると男が続けた。俯いて直立していたせいで立小便をしていると勘違いされたらしい。確かに、倫理感さえなければこんなにも立小便に適した場所はないだろう。
「あ、いえ、いや、そういうわけではなく…。」
急に話しかけられたものでうまく言葉が出てこない。硬く締められたジーンズのチャックが私の無罪を証明する。思えばこの小路に迷い込んでから誰ともすれ違っていなかった。そのせいか人と話すことが一週間ぶりであるかのように感じた。普段であれば煙たがるような不愛想な他人でも、発狂してしまいそうな状況においては気を紛らわすには十分だった。
「すみません、道に迷ってしまったようで…。」
見知らぬ男に助け船を求める。
「迷った?こんな一本道で何を迷うことがあるんだ。まっすぐ進むだけだろう。」
「いえ、そうではなく、ここから出たいのです。大通りにでも出られれば良いのですが。」
「ああ、成程。いや、そのまままっすぐ進めばよい。今度こそな。」
「はあ…。」
いまいち話がかみ合わない。私は一刻も早くここから抜け出したいというのに。それなのに男は一人で納得している。暗闇にのまれていて良く分からないが、男はにやにやしているようだ。子馬鹿にしているのかと思うと無性に腹が立ってくる。こいつの言う通りまっすぐ行けば本当に出れるのだろうか。いまいちこいつを信用することができない。男の怪しげな言葉を反芻する。
そのまままっすぐ進めばよい。今度こそな。
今度こそな。
「今度こそ?今度こそとはどういう意味ですか。」
この男は私の何を見ていたのだろうか。何を以って今度こそといったのだろう。
「以前は道を逸れて引き返してしまったのでな。別にそれでも良いのだが、どうせ引き返したって同じことの繰り返しだ。」
こいつの言っている意味がさっぱり分からなかった。困惑が顔に出たのか、男は再び口を開く。
「来た道を戻るだけ出口からは遠ざかるぞ。ましてや入り口を出口にすることなんてできやしないんだ。一度始めてしまったのなら終わりを目指して進んでゆくだけだ。立ち止まっていると思っていても、そのときは終わりから近づいてくるぞ。」
男は毒にも薬にもならない人生論めいたものを説いた。曖昧な言葉で煙に巻かれている気がするが、どこか格言めいた物言いが霊力を纏う。確かにこのまま来た道を引き返しても、どこから来たのか分からない以上道に迷っているという事実は変わらない。藁をもつかむ思いで胡散臭い彼の助言を聞いてみることしかできなかった。
「分かりました、いや分かりませんが。進んでみることにします。」
「そうすると良い。」
そういうと彼は足音も立てずにすうっと闇に消えていった。男が行くのを見送って、淵の中から一歩踏み出した。
「言い忘れていた。」
ぎょっとした。ブロック塀の陰にまだいたようだ。不意を突かれた心臓が急激に膨張した。
「足元には気をつけて」
優しげにそう言い残すと、男は今度こそ立ち去った。それだけのために驚かさないでほしい。
街路灯がじりじりと身を焦がす音が、再び孤独となった静けさに伝う。ふと、カーブミラーに抱いた気味の悪さを思い出し漂う妖気が胸元に巻き付いたが、それを振り払うように前進した。存在を確かめる気には、なれなかった。
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