サイレント・ウィッチ 沈黙の魔女の隠しごと/依空まつり
<美味しい蜂蜜の思い出>
「そういえば、そろそろ蜂蜜を買う季節だな」
秋が深まりつつある、よく晴れた日の午後、放課後の生徒会室で、生徒会書記のエリオットは独り言のように呟いた。
たまたま近くで会計業務をしていたモニカは、羽根ペンを動かす手を止めて、首を傾げる。
セレンディア学園は、近い内に学園祭という大きな行事を控えている。ならば、その蜂蜜は学園祭の出店で必要なのだろうか。
(でも、学園祭で使う物なら、今から注文するのは遅い気がするし……)
モニカが密かに首を捻っていると、生徒会副会長のシリルが、書類から顔を上げて呟いた。
「あぁ、もうそんな時期だったか」
「そろそろ、購入申込書が回ってくる頃だろ。今年もブレネアの蜂蜜を扱ってると良いんだけどな。俺は蜂蜜を買うなら、ブレネアレンゲの蜂蜜と決めてるんだ」
エリオットは、どこそこの蜂蜜は癖が強いから嫌いだ、外国産の蜂蜜なんて食えたもんじゃない、などと好き放題に言っている。
「あのぅ……その蜂蜜は、学園祭で使うんです、か?」
学園祭絡みで使うのなら、モニカは書類を見落としていたことになる。
ビクビクしながら問うモニカに、エリオットは「違う違う」と片手を振った。
「この時期、うちの学生はみんな蜂蜜を買うんだよ」
リディル王国で秋に蜂蜜を買う行事は、モニカが知る限りない。それとも、そういう貴族の習慣なのだろうか?
モニカが困惑していると、モニカの隣で書き物をしていた生徒会庶務のニールが、作業の手を止めて教えてくれた。
「クレーメの街で、蜂蜜祭りっていうイベントがあるんですよ。あの辺は養蜂が盛んなので、越冬後も蜂が蜜を集めてくれることを願って、蜂に感謝をするお祭りをするんです」
祭りと言っても、そう大規模なものではなく、大通りで蜂蜜や蜜蝋製品を売り出したり、蜂蜜酒を振る舞ったりする程度のものらしい。
実際のところは、蜂に感謝するというよりは、冬至休み前に商品を売り出したい養蜂家の商業戦略の意味合いが強いのだろう。
日に日に寒さが厳しくなるこの季節、冬至の菓子に使う蜂蜜や、長い夜を照らす蜜蝋のキャンドルは需要が高くなる。
ニールはニコニコと説明を続けた。
「それで、セレンディア学園の生徒についてきた使用人達が、このお祭りに足を運ぶようになったんですけど……そのことを知った何年か前の生徒会が、それなら、自分達が使用人に蜂蜜を振る舞おうじゃないか、って言い出して……」
セレンディア学園の生徒達は、その殆どが貴族の子女や裕福な家の人間で、寮生活をするにあたって、使用人を同行させている者が多い。
日用品の買い物なども、使用人をクレーメの街に行かせるのが一般的なので、使用人達の方が街の行事に敏感なのも頷ける。
「それ以降、セレンディア学園ではこの季節になると、生徒達が蜂蜜を購入し、使用人に振る舞うようになったんですよ」
「冬至休み前の、ささやかな労いってやつだな。高級蜂蜜は土産に喜ばれるし。まぁ、ついでに自分の分も色々買うんだが」
そう言ってエリオットは、今年は蜂蜜と、蜂蜜を使った焼き菓子と……と買う予定の物を指折り数える。
仕事そっちのけで良いのだろうかと思ったが、エリオットの仕事である学園祭の招待状書きは、もう終わっているらしい。エリオットは案外、そういうところでそつがない。
「あと、蜂蜜酒も人気あるよな。俺は、あんまり好きじゃないんだが」
「僕、あそこの蜂蜜酒が好きなんです。ハーブ多めの」
「メイウッド庶務は、案外癖が強い物好きだよな……」
「えっ、そうですかね?」
エリオットと会話するニールも、仕事は殆ど片付いているようだ。
そんな中、今まで黙々と招待状の見直しをしていた生徒会書記のブリジットが、最後の招待状に封をして、生徒会長席のフェリクスを見る。
「そういえば、殿下は蜂蜜があまりお好きではないのでしたね」
「子どもの頃はね。薬湯は大体蜂蜜で甘味がつけてあったから。今は気にしないよ」
フェリクスは美しい顔で、ブリジットに笑みを返すと、そのまま流れるようにモニカを見た。
「この時期に買う蜂蜜製品は、生徒会がとりまとめて業者に注文しているんだ。だから、会計の君は少し忙しくなるかもしれないね。去年もシリルが大変そうだった」
フェリクスの言葉に、シリルが書類を綴る手を止めて頷く。彼は昨年度の生徒会会計なのだ。
シリルはいつもの彼らしい硬い口調でモニカに言う。
「ノートン会計、学園祭の業務と併行するのが難しいようなら、早めにこちらに振るように」
「いえ、大丈夫、です」
蜂蜜祭りに興味はないが、数字を扱う仕事が増えるのは望むところだ。
実のところ、今扱っている帳簿も、既に計算は頭の中で終わっている。モニカは計算をするより、その結果を紙に書く方がよっぽど時間がかかるのだ。
(数字がいっぱい。嬉しいな)
モニカはクフクフ笑いながら、会計業務を再開した。
* * *
学園祭が終わり、冬休みが近づいてきた日の休日、商人が大きな馬車にたくさんの荷物を積んでやってきた。学園祭前に注文した、蜂蜜商品を届けに来たのだ。
モニカには、生徒会室で蜂蜜の話をしたことが、もう随分と前のことに感じられた。それだけ、学園祭が忙しかったのだ──想定外のことの連続で。
モニカは蜂蜜商品を申し込んでいないが、生徒会役員なので、商品の受け渡しに立ち会うことになっている。
業者は女子寮と男子寮、それぞれの玄関ホールに商品を届けることになっていた。モニカが立ち会うのは、女子寮での受け渡しだ。
モニカが女子寮の玄関ホールに向かうと、同じ生徒会役員のブリジットは既に到着していた。
ブリジットは普段、仕事のこと以外で話しかけてくることはないし、貴族らしい振る舞いができないモニカに対して辛辣だ。
モニカはビクビクしながら、ブリジットに話しかける。
「あの、お、お待たせ、しましたっ」
ブリジットは琥珀色の目で、じぃっとモニカを見た。美醜に疎いモニカの目から見ても、ブリジットは際立って美しい令嬢だ。
そんな美女に無言で見つめられると、なんとも緊張する。
「生徒会役員が商品を受け取るのは最後になります。ノートン会計、貴女は何か購入した物はあって?」
「い、いえっ、ない、ですっ」
「そうですか。受け渡しする商品の確認は、業者の人間が行います。我々は生徒名の確認を。代理人が受け取りに来た場合、代理人の名前も確認するように」
「は、はいっ」
ブリジットはモニカにリストを渡すと、既に集まり始めている女子生徒達に、二列に並ぶよう指示を出す。仕事が早く、無駄がない。
(本当は、こういうのも、わたし一人でもできなくちゃ駄目なんだよね……)
まずは、与えられた仕事をきちんとこなすところからだ、とモニカはリストをキュッと握りしめ、顔を上げる。
目の前には結構な行列ができていた。
萎縮したモニカはサッと視線を手元のリストに落とし、列の先頭に女子生徒に「名前を、お願いします……」と小声で告げる。
リストで名前を確認したら、業者にそれを伝えて、商品を渡してもらう。作業はこの繰り返しだ。
ブリジットが担当している列の方には、イザベルの姿も見えた。
悪役令嬢演じる彼女は、モニカと目が合うと、パチンと可愛らしくウインクを送ってくれた。
(そういえば、イザベル様も、アガサさん達に蜂蜜を贈るって言ってたっけ……)
アガサへの贈り物や、故郷への土産について語るイザベルの顔は、とても活き活きとして楽しそうだった。
自分も何か買えば良かったかな、とモニカは少しだけ後悔する。
木の実の蜂蜜漬けは非常食になるし、蜜蝋の蝋燭は煤が少ないから重宝する──それは、今すぐ絶対に必要な物ではないけれど、みんなが盛り上がっていることに一緒に参加すれば良かった、と今になって思うのだ。
そういう気持ちが、自分の中にあったことに、モニカは少しだけ驚く。
(そっか、わたし……イザベル様やラナと一緒に、イベントしたかったんだ)
特に学園祭は大忙しで、あまりゆっくり過ごすことはできなかったから、なおのこと。
小さな瓶でも良いから、蜂蜜を買えば良かった。生徒会室でエリオットやニールがしていたように、蜂蜜を食べて、「あの蜂蜜、美味しかった」「自分はこれが好きだ」と他愛もない話をする──ただそれだけのことが、モニカはしたかったのだ。
(次は、そういうの……ちゃんと参加してみよう)
商品の受け渡しは、三〇分ほどで終了した。受け取りに来た生徒達に、ブリジットが列を作るよう、定期的に声かけをしてくれたおかげだ。
彼女が「きちんと並びなさい」と一言言うだけで、大抵の女子生徒は粛々とそれに従う。
人が少なくなった玄関ホールで、ブリジットはリスト片手にモニカに声をかけた。
「全員受け取りに来たようですね。それでは、これで解散しましょう」
ブリジットはリストをまとめて、漏れがないかを確認すると、自分の分の商品を受け取り、スタスタとその場を立ち去る。本当に無駄がない。
モニカは業者の人間にペコリと頭を下げて、寮の自室を目指した。
休日の女子寮は、いつもより賑わっていて、皆、自分が買った商品について、楽しそうにお喋りをしている。
それを横目に廊下を歩いていると、前方から聞き覚えのある声がした。ラナだ。
「モニカ、生徒会の仕事は終わった?」
「うん、終わった、よ」
商品受け取りの列にはラナも並んでいて、彼女が紙袋を三つも受け取っていたところを、モニカは見ていた。
買い物が大好きなラナは見るからに上機嫌そうで、目がキラキラと輝いている。
「ねっ、手を出して」
「……えっと、こう?」
モニカが手の甲を上に右手を差し出すと、ラナはその手をひっくり返し、モニカの手のひらに小瓶を乗せた。
「はい、お裾分け」
片手で握り込めてしまうぐらい小さな瓶には、白いクリームが入っている。
ラナはパチンと可愛らしくウィンクをした。
「いっぱい買い物したら、試供品の蜂蜜クリームを貰ったの。でも、わたし、自分用に同じの買っちゃったから、あげる」
モニカはまじまじと手のひらの小瓶を見下ろした。
お裾分け。それは、なんて素敵な言葉だろう。
モニカは、ラナにお裾分けしてもらった小さな幸福を握りしめ、口元を綻ばせる。
「ラナ、あ、ありがとうっ」
「どういたしまして」
この蜂蜜クリームの話をラナとする──そのささやかで愛しい時間を思うだけで、モニカの心はウキウキと弾んだ。
* * *
蜂蜜商品が届いた翌日の放課後、一番乗りで生徒会室にやってきたモニカは、目を丸くした。
室内に他の生徒会役員の姿はないが、部屋の隅にティーセットをのせたカートが寄せられている。
カートにはティーセット以外にも、クッキーやケーキ、スコーンなどの焼き菓子もあった。それと、蜂蜜の小瓶も。
「お客様が、来るのかな?」
「それは、君達の分だよ」
突然背後から聞こえた声に「へぅっ」と声をあげて振り向くと、扉の前でフェリクスがニコニコ微笑んでいた。背後にはシリルも控えている。
カートのことはシリルも知らなかったらしく、目に見えて困惑しているようだった。
フェリクスはカートを寄せて、茶菓子をテーブルに並べる。
「たまには私から、君達を労おうと思ってね」
流れるような手際で茶会のセッティングをするフェリクスに、シリルが血相を変えた。
「殿下っ! そのようなことは、私がやります!」
「私が労うと言ったのに」
「あのっ、わた、わたしも、手伝いますっ」
王族であるフェリクスに茶菓子の用意をさせるなど、もってのほかだ。
モニカとシリルが譲らないので、フェリクスはそれ以上は何も言わず、二人を手伝わせた。
テーブルに並べられた焼き菓子からは、どれも蜂蜜の良い香りがする。ふと、モニカは気がついた。
(そっか、わたし……殿下からも、お裾分けをしてもらったんだ)
ラナが蜂蜜のクリームをくれたように、フェリクスもモニカに、行事の楽しみをお裾分けしてくれたのだ。
「で、殿下、あの……っ」
「うん?」
「蜂蜜っ、ありがとう、ございますっ」
モニカが勢いよく頭を下げると、フェリクスは碧い目を細め、柔らかく微笑んだ。
「どういたしまして。君の口に合えば良いのだけれど」
「蜂蜜、好きです。えっと、今日もお昼に、パンに蜂蜜のクリームを塗って食べたんです。クリーム、昨日、ラナから貰って……」
自分が感じた喜びを、誰かに話すことができる。それだけのことが、とても嬉しい。
ラナにはまだクリームの感想を伝えていないから、明日になったら伝えよう。
モニカがモジモジと指を捏ねながら、蜂蜜クリームについて話していると、シリルが何やら気まずそうな顔で言った。
「ノートン会計」
「はいっ、シリル様」
「それは……肌に塗る保湿用のクリームではないのか?」
「え」
「あの商会は日持ちの関係で、食用のクリームは扱っていない」
なんとも言い難い沈黙が、生徒会室を満たした。
フェリクスもシリルも、無言でモニカを見ている。
モニカは指を捏ね、視線を彷徨わせた。
そういえば、今朝のラナは「新しいクリームを試したら、肌の調子が良いの!」と言っていた気がする。
「あの……えっと……」
再び、沈黙。
如何ともしがたい空気の中、モニカは正直に言った。
「ほんのり甘くて、美味しかった、です……」
シリルが過去最高に沈痛な面持ちで、眉間の皺に指を添える。
「やはり、もっと舌を肥えさせるべきだった……」
「全くもって同感だ」
フェリクスはモニカの肩を押して着席させると、蜂蜜を使ったクッキーをモニカの口元に運ぶ。
完璧な美貌の王子様は、それはもう煌びやかに美しく微笑んでいた。
つまりは、有無を言わさぬ笑顔である。
「はい、あーん」
モニカは口にクッキーを押し込まれながら、ラナにあの蜂蜜クリームの感想をどう伝えようと、密かに頭を抱えた。
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