異世界刀匠の魔剣製作ぐらし/荻原数馬
<職人街の大脱走>
息が苦しい、心臓が破裂しそうなほど激しく脈打っている。太ももがプルプルと震え足がもつれていた。
それでも男は立ち止まる訳にはいかなかった。追手は五人、十人、百人と時間が経つほどに増えていった。今となってはこの街全てが敵であった。
時は少し遡る。いかにも動きが鈍そうな中年男、鍛冶屋のオリヴァーから財布をスリ盗ったのが事の発端であった。オリヴァーはすぐに、
「泥棒だ!」
と叫んで追いかけて来た。意外に反応が早い。
この時点ではまだ泥棒に余裕があった。己の身軽さには絶対の自信があった。何度も盗みを繰り返しておきながら一度も捕まっていないのがその証明のようなものである。
「のろまが、捕まるかよぉ!」
泥棒は得意満面であった。捕まるはずもないのに必死に追いかけてくる相手を見ていると暗い優越感が湧いてきた。ある意味でこの瞬間の為に泥棒をやっているようなものだ。
すぐに視界から消えてやるつもりだったが、オリヴァーはまだしつこく追って来る。
「鬱陶しい奴だな。まあ、時間の問題か」
泥棒は余裕で逃げ続ける。やがてひとつの違和感を覚えた。逃げきれない、それどころか泥棒を見る視線が徐々に増え続けているのだ。
オリヴァーが泥棒、泥棒と叫ぶ度に野次馬が腕まくりをして、俺に任せろと言い追手として参加しているのだ。気が付いた頃には追手が三十人くらいになっていた。
「どうしてこんな事にッ!?」
天に向かって叫ぶが、神が泥棒の祈りに応えてくれるはずもなかった。どこへ走っても追手がいる、時には先回りされていた。
ここは職人街、奴らのテリトリー。暇と血の気を持て余した男たちの巣窟。職人たちは義侠心ではなくお祭り気分で泥棒を追い回しているのであった。オリヴァーを助けようと本気で思っているのは彼の弟子たちくらいである。
オリヴァーの同世代でありライバルのモモスなどは、財布の中身を見てやろうという悪趣味な動機で参加し走り回っていた。
地元の暇人たちによって徐々に包囲が狭められていく。どうしたものかと焦りを浮かべる泥棒の目に止まったのは積み上げられた木箱であった。
「……よしッ!」
泥棒は木箱を足場にして建物の二階に飛び上がった。そして三階へ壁を伝って上った。
屋根の上こそ安全な逃走ルート。追手がさらに増え続け百人を超えた時は驚いたが、本職の泥棒にかなうはずもない。
泥棒は額に浮いた汗を拭いニヤリと薄笑いを浮かべて、屋根の上を走り出した。
「悪いね、幸運の女神はブ男どもが嫌いだとさ」
百人近い屈強な男たちが集まっても自分ひとりを捕まえられない。最高の優越感が泥棒の全身を貫いた。
「エクスタシィ……ッ」
恍惚の笑みを浮かべる泥棒であったが、急に表情を強張らせた。
前方に人影。ここは屋根の上だ、何故人が立っているのだ。泥棒は自分のテリトリーを侵されたような不快感で舌打ちした。
そこにいるのは刀鍛冶の青年、ルッツであった。泥棒は彼と数メートル離れたところで立ち止まった。
「てめえ、このルートを読んでいたのか?」
「いや、こっちに来てくれたらいいなあ、くらいの考えさ。普通に追いかけても他の奴に先を越されるだけだろうし」
まったくの考えなしという訳ではない。木箱が積み上げられ、丁度いい足場になっている事は知っていた。屋根に上がって来る可能性は十分にあった。
「いいカンをしている。だがひとりとは迂闊だったな!」
泥棒は懐からナイフを取り出し見せびらかすように上下に振った。戦意喪失してくれればよし、逃げ出してくれればさらによし。だがルッツは泥棒の期待に反してただぼんやりと眺めているだけであった。まるで夕食は何にしようかと考えているような顔だ。
見逃してやろうという親切心がわからないのか。泥棒は少し苛立ちながら言った。
「おい兄ちゃん、このナイフが見えねえのか。こいつは振って楽しい玩具じゃないんだぜ」
「鍛冶屋に向かって刃物の講釈か。傑作だな」
そう言ってルッツは小馬鹿にするように笑った。
泥棒はナイフを強く握り直した。盗みはスマートに、出来る限り血は流さない主義であったがこうなっては仕方がない。泥棒はナイフを振り上げてルッツに襲いかかった。
足場の悪い屋根の上で向こうから来てくれるならばありがたい。ルッツは軽く腰を落とし、刀を抜き払った。閃光が走り、泥棒のナイフが弾かれた。
「なっ……」
信じられないといった顔をしてバランスを崩す泥棒。ルッツは手の中で柄をくるりと回し、泥棒の肩に峰打ちを叩き込んだ。
「ぐっ、うう……ッ!」
「俺に安い武器を向けるな!」
他人にはよくわからない怒り方をしながらルッツは泥棒の腹を蹴飛ばし、盗賊は苦痛に顔を歪めて屋根からずり落ちた。
落下中に窓や突起物を掴んで衝撃を和らげていたので地上に落ちても大怪我はせずに済んだ。尻を打ち付けたくらいである。
盗み放題、逃げ放題などという考えは甘すぎた。この街に自警団がいないのではなく、自警団も近寄りたくない場所なのだ。
とにかくこの場に留まっているのはまずい。すぐに立ち上がろうとするが、肩と足と尻に激痛が走った。折れてはいないだろうが骨にヒビくらいは入っているかもしれない。
逃げなければ。歯を食い縛り、脂汗を涙を滲ませながらなんとか立ち上がるも、気が付けば屈強な職人たちに囲まれて逃げ場を失っていた。
人の輪を掻き分けて勝ち誇った顔のオリヴァーが出て来た。泥棒はオリヴァーを睨み付けるが、手負いで疲労困憊の状態では迫力に欠けた。
「くっ……、殺せ!」
「女騎士みたいな事言ってんじゃないよ」
「うるせえ、どいつもこいつもオークみたいなツラしやがって!」
元気な奴だなと呆れながら近付くオリヴァー。しかし彼よりも早くモモスが泥棒の背後から首に左腕をまわし、がっちりと固定した。
「な、何をするエッチ!」
「へへっ、お前さんのいいとこ見せてもらおうじゃねえか」
モモスは右手で泥棒の懐をまさぐった。そして指先に固いものが当たると、それを一気に引き抜いた。薄汚れた革袋、オリヴァーの財布である。
「さぁて、親方サマの財布の中身をご開帳だ」
モモスは悪趣味な笑みを浮かべながら革袋を揉み、中身が硬貨である事を確かめた。財布の口ひもを緩め、手のひらの上に転がした。
「……うん?」
出てきたのは銅貨が五枚、それだけであった。子供の小遣いの方がまだ多い、そんなレベルである。皆が黙ったまま視線をオリヴァーへと向けた。
「いやあ、最近ちょっと使いすぎちゃってさあ」
オリヴァーが照れ臭そうに笑うが、辺りにはどうしようもないほど白けた空気が漂っていた。
泥棒は大きく眼を見開いたまま固まっていた。あれだけ苦労して、痛い思いもして、それで盗もうとしていたものが銅貨五枚。泥棒は膝から崩れ落ちその場に座り込んでしまった。
モモスは銅貨を財布に戻してオリヴァーに投げて寄越した。
「おいオリヴァー! 刀の製作で儲けているんじゃなかったのかよ!?」
「いやあ、儲けた分だけ飲んじゃって……」
「あほくさ……」
そう呟いてモモスは背を向けて自分の工房へと戻って行った。オリヴァーもくるりと踵を返す。
祭りは終わりだ。ひとり、またひとりと白けた顔でその場を去って行く。誰もが泥棒に興味を失ったようで私刑どころか見向きもされなかった。祭りは終わった、後はどうでもいい。
真面目に働こう。そう誓いながら泥棒はガクリと倒れ気を失った。
余談であるがルッツはその時、屋根の上から腕組みをして一部始終を眺めていた。どうやって降りようかと考えながら。
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