泡沫に神は微睡む/安田のら
<閑話 肩を揃えて、君と共に一歩を>
統紀3999年 文月上旬。
南部珠門洲、洲都華蓮、第8守備隊屯所。
猛る初夏の日差しが容赦なく降り注ぎ、騒ぐ蝉の声が一層に沸き立つ。
生に賑わう外からは遠く、薄暗い道場の中央で晶と輪堂咲は正座をしていた。
我関せずと蝉の声が一層に降り注ぐ中、2人の表情には隠せない緊張が浮かぶ。
2人の正面、道場の高座に座る阿僧祇厳次は眉間に皺を寄せ、
「まぁ色々とあったが、先ずは晶。奇鳳院流の師範連盟から、
「ありがとうございます」
厳次の声に混じる真摯な響き。
一つの壁を越えた事実に、晶は安堵を吐いて深く頭を下げる。
教導役として隣に座る咲も、晶の一礼に祝福の微笑みを口元に綻ばせた。
「おめでとう、晶くん」
「ありがとうございます。――咲お嬢さま」
張り詰めた雰囲気が、寿ぎの言葉に緩む。
穏やかに微笑みを交わす2人を前に、しかし厳次は思案を巡らせた。
次期洲太守である奇鳳院嗣穂が第8守備隊を訪れて、未だ数日も経っていない。
通常の華族が防人と認められるまでに一ヶ月ほどの審査を経るのに対し、晶の認定は昨日の今日で下りたのだ。
この裏に奇鳳院家の意向が絡んでいる事は、厳次をして確信へと至るのは難しいことでは無かった。
ここまでの優遇を、中級精霊を宿している
――だがこの状況、晶に対する教育の失敗は許されないと、政治に疎い厳次でも想像に容易かった。
「さて取り敢えず。――お前には精霊技の奥義を教えておこう」
「奥義、ですか」
精霊技の位階は、門閥流派の段位に準じて設けられている。
区分は、大きく分けて初伝、中伝、奧伝の3つ。――見ての通り、奥義と示される区分は存在しない。
鸚鵡返しに呆ける晶の声に、肩を揺らした咲の笑い声が応じた。
「叔父さま。それ、子供にしか引っ掛からない台詞よ」
「む、そうですかね? まぁ確かに、お嬢が教示を強請ったのは、……ありゃあ、何年前の事でしたか」
苦笑いに惚ける厳次の呟きに、羞恥からか咲の頬に朱が散る。
当時、守り手を務めていた厳次が幾度となく多用したそれは、精霊技を見たがる幼い少女の我儘を宥めるための苦肉の策。
意気揚々と団欒の席で自慢して兄に笑われたのは、咲の中に在る恥ずかしいだけの一幕である。
「叔父さま、しつこい」
「はは、すみませんなぁ。
――とは云え、丸きりの嘘という訳でもない。お前に教えるのは、総ての精霊技にある原点だからだ」
和やかな懐古話を切り上げて、厳次は晶へと視線を戻した。
戸惑う晶の視線が泳ぐも、その先で咲の首肯が返る。
「それは本当よ。防人と立つならば、必ず最初にこの精霊技を極めよ。他流に至っては、『この精霊技以外は余技である』なんて豪語する処があるくらい」
如何にもな胡散臭い話。今一つの信用が寄せられない晶を笑い、厳次は立ち上がった。
「百聞は一見に如かず。現実に見せておくとしよう」
高座から道場の中央へと移る厳次の足元で、緩やかに精霊光が瞬く。
一歩、更に一歩。刻む足の先から隠せないほどの精霊光が厳次を包み、道場の暗がりを瞬きで満たした。
「術式は非常に単純。丹田から巡る精霊力を加速させ、自身の理想まで身体を強化する。
――身体強化の精霊技、現神降ろしだ」
丹田から緩やかに生まれては還る精霊光。影が暗く削り出す道場だからこそ、その濃密な精霊光は晶の視界でより鮮明に映って見えた。
きしり。厳次の宿す濃密な精霊力が重みを加速させたのか、樫材の床が微かな悲鳴を上げる。
「精霊力の干渉は本来、段位の五段に組まれている精神修養で会得する。……んだが、奇鳳院家より、この段階は素っ飛ばして精霊技の修練に直接入れとのお達しが来ている。
――やってみろ」
「お、押忍」
突然に投げられた行使の許可に、晶は恐る怖る立ち上がった。
厳次と対峙する形に、中央線を挟んで向かい合う。
精霊力への干渉と云われても今一つの実感は湧かないが、それでも既にその感触は晶の裡に息衝いていた。
己の精霊に。否、己に宿る何かに願う。
内腑のより奥底に満ちる熱塊が解けて踊り、
奇鳳院流精霊技、初伝、――現神降ろし。
厳次のそれと負けず劣らず、朱金の輝きが道場の陰影をより濃く映し出した。
「……出来ているな」
「うん。間違いなく成功しているよ、叔父さま」
予想していなかった訳ではない。
だが、その埒外とも云える成果に、咲と厳次は唖然と呟いた。
基礎と謳われるだけはあり、現神降ろしは精霊技としての難度が最も低い。
多少の練習を重ねれば同時展開も容易く、全精霊技でも維持効率が最も良い精霊技。
だが咲と厳次が驚いた点は、それ以前のもの。
精霊力への干渉は本来、
故に
そう。精霊技の行使を例えるならば、自身に腕を生み出す行為と斉しいのだ。
現神降ろしであってもこの感覚を得る事が大前提ならば、一朝一夕どころか即座に成し得るとは厳次も想像してはいない。
「その状態を維持したまま、歩いてみろ。次は、――」
単純な所作から、剣術の動作。源次同様に、晶の足元が精霊力の重圧で悲鳴を上げた。
「精霊光を昂らせるな。自身の奥深くで、より強く精霊力を練り上げ、……そうだ」
厳次の指示に、晶の精霊光が即座に輝きを落ち着かせる。
言うは易く行うは難し、を地で行くような指示にも拘らず、完璧な対応。言葉の持って行き先を無くし、厳次は首肯だけを返すに止めた。
次第に激しさを増す晶の木刀。その軌道を見極めて、流れる所作から厳次は演武に入った。
五行の構えから、攻めて守る。
緩急入り乱れるその軌跡に、それでも晶の現神降ろしが崩れる事はなかった。
「――まぁこれで、現神降ろしは問題ないだろうな」
暫くして、晶の額から汗の玉が雫と落ちる。その様子に厳次は、練武の手を止めて宣言をした。
予想外ではあるが、嬉しい誤算でもある。
手早く次の段階へと移るべく、残心へと移る晶に言葉を続けた。
「では、次の精霊技を教えるとする。全精霊技の基礎が現神降ろしならば、これは奇鳳院流にとっての基礎。――燕牙だ」
♢
――その日の夜半。
「おらぁっ、練兵! 腰が退けてんぞぉっ、さっさと動いて防人さま方の手間を取らせんなぁっ」
「「「はいっ」」」
晶が防人に昇任したことで練兵班の班長と急遽昇任する羽目になった勘助が、未だ馴染まない怒声を張り上げて指示を飛ばした。
班長が二転三転したことに浮ついた練兵たちが、統率も無いままに頼りなく準備に走り回る。
……やがて、獣除けの松明が呪混じりの煙を吐き出し、揺らめく影と共に辺りを浮き上がらせた。
練兵たちの喧騒から外れた、その後方。数日前まで自分がいた位置に立つ勘助に視線を向けて、晶はぼんやりと物思いに沈んでいた。
「大丈夫? 晶くん」
「申し訳ございません、少し考え事をしていました。咲お嬢さま」
肩を並べて立つ咲の問いへと返る声音に、気落ちの響きは無い。
その事実に安堵して、咲は晶の向ける視線の先を辿った。
夏の暑気も夜には大きく揺らぎ、生温い微風が華蓮郊外の平原を渡る。
数日前の百鬼夜行で穢獣の総数は大きく下がったろうが、それでも警戒を怠る理由にはならない。
練兵班を引き連れた晶たちは、騒動で壊れた警戒線を敷き直すべく、華蓮郊外の平原へと出向いていた。
「何を考えていたの?」
「……燕牙の事です。半日粘っても習得に及べないなど、恥ずかしい限りです」
気遣う咲に晶の矜持は誤魔化そうと囁くが、数拍の沈黙を置いて口を吐いたのは正直な感想であった。
そう。現神降ろしの後、結局、晶は燕牙の習得には至ることが出来なかったのだ。
遅番が始まるまで粘って及べたのは、精霊力が火気へと至る臨界まで。
――何処まで精霊力を高めても、結局、それ以上の進展に叶うことは無かった。
「気にしなくていいよ。私だって、燕牙の発動には一週間は掛かったの。こんな一日で修得できるなんて、誰も思っていないから」
気落ちする晶を慰める、その内心で咲は大きく安堵を吐いた。
――如何に神無の御坐と云えど、そこまで出鱈目な存在でも無いか。
精霊技は大きく分けて、内功と外功の何方かに区分される。
自身の肉体で完結する内功の現神降ろしと違い、外界へと影響を直接及ぼす外功は媒体としての精霊器を絶対に必要とする。
自分の肉体でも無いものに精霊力を通す行為は、精霊力に干渉するのと同じ程度の難易度があるのだ。
精霊器を自分の肉体に準じるものとして認識する。その異質な感覚を理解する事が、喫緊の課題として晶の目前に横たわっていた。
「明日から頑張ればいいわ。――そう云えば、今日の遅番は警戒線の修理で終わるのかしら」
「はい。先だっての百鬼夜行で生き残った
「……にしては、随分と警戒が強くない? 半数が盾じゃなくて槍を持っているなんて、尋常じゃないわ」
咲の指摘に、晶は周囲へと視線を巡らせた。
確かに、練兵たちに過剰な緊張が漂っている。見るからに武器然とした槍は、山裾に潜んでいる穢獣を下手に刺激しかねない。
「確認します。――
「……注意はしたんだが、どうにも武器持ちの傾向がある。ころころと班長が変わったしな、指揮系統に信頼が育っていない」
「少し考える必要があるな。兎も角、警戒線を修理する事に専念しよう」
「済まん」
声を潜めて返す勘助に、晶は労いの意図を籠めて肩を叩いた。
離れようと踵を返す。――その時、
―――
聞き逃せない叫声が、一帯に響き渡った。
―――
幼児の夜啼きに似た、特徴的なその響き。
「猫又だ! 総員、楯か、無ければ地面に伏せろ」
「警戒態勢――!!」
考えるよりも早く、晶の警告が練兵班へと飛ぶ。
追従する勘助の指示に、慌てた練兵が盾持ちの後ろに群がった。
夜闇よりも深く山麓に広がる木立の向こう。金色に濁る二つの鬼火が、並んでその狭間を縫うように遊んでいる。
ふつ。と唐突に消えて後、木立の奥から人の大きさほどもある黒い塊が、高く跳ねて躍り出た。
―――
全長は
金色の眼は瘴気に赤黒く濁り、獰猛な牙から涎が垂れる。
そして何よりも特徴的なのは、二又に分かれて踊るその尻尾。
その脅威は、市中の芝居でも話題になるほど。
分かれた尻尾の数だけ命数を増やすというそれは、
――人の味を覚えた多尾の妖猫、猫又である。
「楯に隠れて後退! 勘助、速やかに下がらせろ」
「応さ」
指揮を班長である勘助に戻して、晶は臙脂の刃をした落陽柘榴を抜刀した。
昏く赫い輝きが、夜闇を斬り取る。
吐く息も短く、金濁の眼に目掛け晶は大きく踏み込んだ。
―――
生臭い威嚇と共に、瘴気が刃となって晶に襲い掛かる。
踏み込む攻め足、上段から叩き落す一撃。
晶を狙う瘴気の斬撃は、それだけで容易に霧散した。
しかし赤黒い輝きが止まることは無い。
晶に届き得る斬撃の外から、刃の群れを成して殺到した。
捌き切れない。無数の一つが間違いなく晶の脇腹を捉えている事を悟り、晶は覚悟に呼吸を吐いた。
その脇から、
奇鳳院流精霊技、初伝――、
「鳩衝」
薙刀の切っ先が下から上へと斬撃を刻み、生まれた衝撃が凶刃を全て散らす。
「――晶くん。私が援護するから、攻め込みを止めないで。どうせ此奴しかいないんだから、必要以上に怖れることは無いわ」
「はい」
咲の声に、晶は素直に肯いを返した。
――猫又は厄介な
決して群れることは無く、襲うのは周囲に穢獣がいない場合に限られる点だ。
寧ろ1匹が約束されている以上、数の暴力よりもやり易い相手と云えた。
又、尻尾の数だけ命数が増えると噂されているが、所詮は穢獣。それが迷信である事は、防人にとって有名な事実である。
ただ、厄介なのも事実。
―――怩ィィィイイッッ
瘴気の刃を孕む呪いの叫声だが、その間隔が途轍もなく短いのだ。
個でありながら斬撃の群れをつくるその手口は、防人を除いた守備隊には充分な脅威。
無作為に放たれる斬撃が、幾条も地面に跡を残して晶へと迫る。
その軌道を充分に読み切り、晶は強化した身体能力で回避した。
放たれる刃は無数であっても、その軌道は顔の正面に限られている。
晶は大きく脇腹へと回り込んで、一気に距離を詰めた。
現神降ろしを行使した上での、強引な攻め込み。
刹那に溶ける間合いに、躊躇う事なく脇構えから水平に斬り抜いた。
―――怩アッッ!!
しかし晶に斬れたのは、夜闇広がる虚空のみ。
――何処に。
「晶くん、上!」
戸惑う思考の外から、咲の警告が飛んだ。
巨躯を捻って虚空に踊る姿、晶を見下ろす猫又の眼が喜悦に歪む。
咲が燕牙を放つ姿勢に入るが、間に合うかどうかは微妙な姿勢だ。
視界の上、間合いの外。晶は無我夢中で、今日を潰して練習に明け暮れた所作に入った。
現神降ろしを行使しながら、燕牙を撃つ。二重に精霊技を行使する、その無茶。
どうしても出来ないならば、――可能となるように腕をもう一つ用意すればいい。
単純な原因、単純な解決策。晶に宿る火行の精霊力に手を伸ばす。
――晶の深奥で、南天が微かに微笑んだ。
翻る斬撃が、火焔を捲いて夜気を裂く。
一日の苦労とは裏腹に、呆気なく。
炎の斬撃は猫又の頸を次いでとばかりに駆け抜けて、中天に懸かる月へと消えていった。
♢
さらり。万窮大伽藍の欄干に腕と顎を載せて、朱華は嬉しそうに喉を鳴らした。
「……どうかされましたか、
「晶がの、燕牙を行使った」
「やっとですか。一日も掛けるなど、随分と悠長ですね」
背に控える嗣穂の問いに、気分よく朱華が応える。
愉し気な朱華とは対照に、嗣穂の評は至って辛辣であった。
神無の御坐である晶には、朱華の神気が満たされている。
これは、神気の干渉が晶の意思一つで自在を赦される、その事実を意味している。
畢竟、晶は基本的に、どの精霊技でも自身の意思一つで行使が可能なのだ。
習得に幾許かの修練が必要ではあるが、それでも基本の精霊技程度は数刻も掛けずに修得が可能なはずである。
「判っておらぬの。――晶は、現神降ろしを行使した上で、燕牙を行使したのじゃ」
「元より現神降ろしは、他の精霊技との同時制御を前提としています。そこまで驚く事ではありません」
どうにも鈍い嗣穂の反応に、今一つの理解が共有できていないと悟る。
苦笑を浮かべて、朱華は嗣穂へと振り向いた。
「現神降ろしは精霊力の干渉段階だけで行使へと至れる。つまり、他の精霊技と必ず共有の術式がある。しかし晶は、現神降ろしとは別に燕牙を行使した」
朱華の解説を耳に、理解へと至った嗣穂の顔色が驚愕に歪んだ。
同時に全く別の術式を制御するのは、連続して行使するよりも難易度が跳ね上がる。
精霊技とは別に呪符を行使する程度で、専門の訓練が必要になるほどだ。
この入門として段位の5段があるのだが、晶はここを無視している。
誰から教わるでもなく、その段階を開花させたのか。
神無の御坐としての才能ではない。間違いなく晶個人の才覚、その発露。
「晶は成長するぞ、嗣穂。それこそ歴代の神無の御坐すら嫉妬するほどに、何れ羨み妬みの視線すら届かぬ頂へと、のう」
揶揄うように告げる幼い姿の大神柱を前に、嗣穂は遠見法に映し出された晶の姿を具に記憶へと刻み込んだ。
晶と咲、朱華と嗣穂。
中天に懸かる月は、同じ柔らかな白色で彼らを見下ろすだけであった。
了
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