手が届きそう
おぎまさお
第1話
漠然と、この暮らしに対して疑問を持ってしまった。これで良いのか、という訳ではないが、居ても立っても居られないのである。この疑問であるが、何故今まで心に浮かばなかったのかと思う程に、明確に感じるのだ。俺の思考はもはやこれ以外に何も無かった。
そうと決まれば動き出してしまうのが俺ってもんで、パンツ一丁男の一張羅から、外出用のジーパンと白シャツを纏い準備は満タン。やはり外出はこの組み合わせに限る。家を飛び出す前に俺は振り返った。相変わらず、廊下の先に部屋がある。電灯の紐は左右に揺れていた。家の鍵を閉める必要は、もはや感じなかった。
全く新しい人生が始まる。俺は確信していた。そう思うと笑みが抑えきれないものである。まだお昼過ぎであったので、すれ違う人々に奇異の目で見られた。恥ずかしさの塊のような俺ではあるが、それでもやはり照れるものだ。照れれば照れる程、笑みという物は抑えられない。堪える為に口なんかを尖らせちゃったりして、それがまた可笑しく思えてしまって。でもそれだけ幸せなのだ。工場が多い港町なのにも関わらず、空が透き通って見える。空気もなぜか透明に感じる。産まれてきて良かったと嘘偽りなく思えた。夏が終わり、秋が来る。
ところで俺は、家を出てから今までずっと小走りである。そして目的地というものが無いのにも関わらず足取りは確かであった。慣れ親しんだこの町は、俺の土地なのだ。どこに何があるかは全て知っている。しかしながらこうも走り続けていると、徒歩圏内をいよいよ超えて、近所であるのにも関わらず異国の地であった。なんだこの建物は。この道に生えている雑草は凄い形をしているな。今すれ違った女、良いな。目に入った物すべてが楽しく思えるのだ。そしてそうしている内に、自分が海沿いの工場地帯に向かっているということに気が付き始めた。陽が落ち始め、世界がオレンジ色に焼かれて行く。遠くでクラクションが鳴り響いた。
世界が変わったのは明白だった。なんだよ、今日はもう終わりかよ。一日が短く感じるようになったのはいつからだったのか、俺は思い出せない。海沿いの工場地帯にいるのは確かなのだが、ここへ来てこの先をどう行けば良いのか分からない。複雑に入り組んだ道、袋小路、関係者以外立ち入り禁止の看板だらけである。工場から仕事終わりの労働者達がワラワラと沸いてきた。奴らを無視して立ち入り禁止エリアの中に入っても良い。腕力には自信があるのだ。あの野郎がいちゃもんをつけてくれば、まずタックルをしてやろう。足にまとわりついて、ひっくり返して上からガッチャガチャだ。まあでも辞めておこう。仕事終わりで体力を消耗した人間を狙うのは卑怯者がすることだ。あくまでも俺は強者なのだから。夕陽が遠くの工場へ落ちていく。パイプや煙突だらけの工場に。あの夕陽が爆弾だったら、ここいらは吹っ飛ぶだろうな。
行く当てもないが帰る場所もない。いや、帰る場所は必要ではなかった。とにかく俺は前に進みたいのだ。工場地帯の周りをうろついていれば、自ずと道は切り開かれるだろう。あちらでもなく、こちらでもない。進んでは戻り、戻っては進んだ。そうしていると、高速道路の高架橋の下の歩道へ辿り着いた。街灯もなく、雑木林が生い茂っている。蚊が蚊柱を作り交尾をしまくっていた。俺は虫が大嫌いなのだよ。何匹か口に入る。それにしても、なんて憂鬱な道なのだ。歩道には砂が溢れ、すぐ横の国道ではトラックとハイエースと軽自動車が血眼になりながら飛ばしていた。排気ガスの匂いが立ち込めるこの道は正に地獄道。
「hell road…」
かっけえじゃん。太陽が完全に沈めば、何も見えないのだろうな。高架下の道というのは俗世から切り離された場所に思える。しかしながら人工物に溢れており、薄気味悪い。感情が無く無機質なのだ。俺は高架下から高速道路を見上げた。高速道路の裏側には、なにか色々付いている。なるほどあの装置がそうなのね。分かる気がする。あまりの高さ、そして高速道路の威圧感に立ち眩む。最強に硬いコンクリートの塊の貫禄はとんでもないものだ。これとタイマンを張ったら一体俺はどうなってしまうんだ。あれ?俺って今見上げてるのか?見下ろしてるのか?どっちが上でどっちが下だ?
もう辞めておこう。奴ばかり見ていると車にはねられてしまう。俺はただ、先へ進めれば良いのだ。
そして俺は、とうとう目的地を見つけたのである。インターチェンジを越え、高速道路へと昇って行く道の下にあるあの空間。一目見た瞬間にここが俺の居場所だと感じた。この中に入らなければいけない。しかしながら、幾ら入口を探しても見つからない。完全にフェンスで囲われているのだ。まあそうだろう。容易に入れることが出来れば価値なんて無い。俺はこの鉄壁のフェンスを有難く思った。ワイヤーカッターでもあれば破壊して入れるが、そんなものは持ち合わせていない。よじ登ってやろうとも思ったがフェンスの上は有刺鉄線まみれだ。成程、有刺鉄線ですか、成程。
煙草を吸いながら考えた。目の前で過ぎ行く車共が俺をせかす。もうすっかり夜である。
こんなにも痛いのか。あひぃ、あひぃ。めり込んでくる。まだ両足が着いているというのに、こんなにも血が出る。しかし俺はこの痛みが増せば増すほどゴールへと近づけるということを知っていた。もっとめり込め、もっと近づけ。有刺鉄線の感触が肉の柔らかさから骨の固さへと変わった。骨がガリガリ唸っている気がする。手がただでは済まないということもその時に分かった。足をフェンスに引っ掛けて、もう中間地点だ。もうすぐだ。もうすぐなのだ。有刺鉄線がシャツを切りつけた。お気に入りだったのに。でもまあ良いのだ。ここへ辿り着けれるのなら、何もいらないのだから。
そうしてやっとの思いで、全身がフェンスの向こう側へと出た。なにか温かいものに包まれる感じがした。春の陽を感じたのである。嗚呼やったぞ。全身が満たされる。皮膚の下の神経が踊り狂っている。
フェンスから中へと飛び降りた。手に刺さった有刺鉄線が、全体重をもってして抜け出た。妙な気持ち良さを感じる。導尿カテーテルをブッコ抜く感じに似ている。そしてとうとう辿り着いたのである。未来へのスタートラインへ。
サンクチュアリだ。
夜にも関わらずこの場所は夜よりも暗かった。そして砂埃の匂いは何故か、昔懐かしの心地良さを感じさせた。時折入る車のヘッドライトは、コンクリートの地面から壁、壁から天井へと移り変り、いつか見た社会見学のプラネタリウムを思い出させた。俺は壁にもたれて座り、この場の占有者としての面構えをしてやった。ここは俺の場所だ。特等席で眺めるプラネタリウム。鉄とガソリンが作る流れ星。妙な美しさを持つそれを前に、どれだけ時間が経ったかなど頭になかった。
何時間経っただろうか。今何時なのだろうか。地面一面に広がった砂埃が、血だらけの手の平を覆う。おかげで血が止まっていた。良い場所だ。
中に入ると想像以上に広く感じる。少し探検してみようかとも思ったが、同じ景色が続くだけで何もないことがすぐに分かった。疲れたので少し横になり寝た。何故か地面は暖かかった。
手の平の痛みが俺を起こした。夜もかなり深くなったのか、車の音が聞こえない。そして目が醒めてもこの場所への愛が醒めることはなかった。暫くこの場所に浸りながら煙草を吸っていると、車のヘッドライトが中に差し込んできた。ヘッドライトはゆっくりと、地面から壁へ、壁から天井へ移動した。光はゆっくりと動くが、迫りくるエンジン音から考えるに、車は相当なスピードだそうだ。この相反する事象に私は力学、いや、物理学、良く分からないが何か賢そうな理を感じた。やはり俺の着眼点は一般人のそれとは違う。ダイソツレベルである。
そうして光の動きを観察し、物理学的観点から後世に何か残してやろうと思っていると、壁になにか模様があることに気づいたのだ。高架橋を支える支柱に、スプレーで描かれた落書きを発見したのだ。なんだこれは。どこにも入口は無かった。どうやって入ったのだ?というか、俺がこの場所に入る前からこの模様はあったのか。寝ている間に誰かが入ったのか。俺は恐怖に震えた。どちらにせよ、入口は無かった。これを描いた人間は、あの有刺鉄線を乗り越えた人間なのだ。なんたる強者…。これを描いた人間に出会えってしまえば、争いは免れないだろう。強者同士は潰し合う運命なのだから。
近寄って見てみると、なかなかの完成度であることが分かった。これはアートだ。間違いなくアートだ。なるほどここがこうなっているから立体的に見えるのだな。この色使いは心を刺激してくれるな。なんという文字が書かれているのだ。俺の知的欲求は、偏差値が低めの不良が描いたアートにくすぐられた。
こいつらもやるな。侮れない。人を見た目で差別するのは辞めよう。そう心に誓わざるを得なかった。決してこれを描いた不良共に媚びている訳ではない。
もう車は殆ど走っていなかった。本当の夜はこれからだったのか。いよいよ俺は一人になったのだ。この場所がより良い場所に進化していく。その過程を見るのが堪らなかった。そして無音であった。無音という音が聞こえる気がする。高速道路がすぐ上にあるのに、何故音がしないのだろう。日出ずる黄金の国、日本は眠らない国ではなかったのか。
それにしても無音である。無音だと、こうも音に対して敏感になるのだということが分かった。無音という音に敏感になっていたのだ。俺は暫くそれを楽しんでいた。
暫くして、ジャリ、ジャリ、という異音が混ざり始めたのに気が付いた。同じリズムで鳴っている。距離は遠いな。なんの音だろうか。徐々に近づいていないか?頭に一抹の不安が過る。まさかとは思うが、この落書きを描いた奴が来たのか、もとい、あの有刺鉄線を乗り越えた強者が来たのか。俺は体中の血液が、我が剛腕に注ぎ込まれていくのを感じた。
息を潜めて隅に身を寄せた。小さな三角座りで身を隠す。この座り方をすると、自分がちっぽけな存在であるということを思い起こさせるような気がする。糞っ垂れが。
しかしその不安は外れであった。フェンスの向こうを歩く何かは、女だったのだ。胸をなでおろした。
それにしてもこんな時間に女が一人、こんな道を歩いて何をやっているのか。薄着で鞄も持たずに、この女は何かあったのだろうな。俺はこの女が気になった。こちらには気づいていないようだ。女はフェンスの向こう側を歩いて行く。俺はゆっくりとフェンスの内側から女を追った。やってやろう。女は真っすぐ歩いて行く。そして俺も真っすぐ歩いた。
成程良い足をしている。ラッキーだ。いや、でも待てよ。シャツが破けて手が傷だらけだと嫌われるんじゃないか?それに俺は金が無い。金の無い男は絶対に嫌われるよ。俺は自信が無くなった。いや、それでも追いかけてみよう。女はこちらに気づいていないのだからね。いやいや待てよ、どうやって追いかけるのだ?このまま行っても一番向こうはコンクリートの壁だ。フェンスをまたよじ登るか?いや、せっかくこの場所を手に入れたのだ。この場所とあの女を天秤にかけても、この場所の方が圧倒的に重たいな。勿体ない。絶好の好機であったのに。二兎を追う者は一兎をも得ずだ。手は二本あるというのに。
もう一回寝よう。ここはよく眠れるからね。そう思い、またお気に入りの位置で寝転がる。何も考えず頭を真っ白にした。すると先ほどよりも辺りが煩くなっていることに気が付いた。無音の世界が壊されたのだ。もう残っているものは暗闇だけか。そしてそう思い落書きに目をやると、先程よりも鮮明に見えることに気が付く。暗闇さえも俺の手から離れていく。夜が醒める。もうこの場所は終わりだ。悲しみに嘆く暇もなく、車の音が盛んになり始めた。高速道路へと続く昇り道を走る車も増えていった。
高速道路は凄いよな。先へと続く道は素晴らしい。一度乗ってしまえば、凄まじい速さで駆け抜けて、降りる時には気づくのだろう。とてつもない距離を走ったという事を。
俺が居るすぐ真上ではそんなことが当たり前のように連続して行われているのだ。羨ましい。そんな場所の真下に居ると、なんだか自分の魂というものも少しずつではあるが前へ進んでいる気がする。上を走る車が筆だとすれば、俺の魂は墨汁である。もっと気持ちよく先へ伸ばしておくれ。もっと走れよ頭上の車。俺の魂を進めておくれよ。墨がかすれて無くなる所まで。
陽は昇り朝が来た。フェンスに顔を押しあてる。ぎしりと少しだけ弛むと、ぎりぎりではあるが少し青空が見えた。
全く新しい人生が始まる、そう確信してならなかった。
「嗚呼、お母さん、僕、必ず立派になりますよ。嗚呼……」
手が届きそう おぎまさお @OggyMasawo
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます