第8話 じゃあ、何故?



 用事があるといった手前、教室に行くわけにもいかないだろう。

 それに少し考えも纏めたかったこともあり、図書室を目指す。

 図書室には何人か自習している生徒がおり、カリカリとペンがノートを引っ掻く音が響いている。

 彼らを横目に祐真は迷うことなく、勝手知ったる図書準備室へと身体を滑らせた。

 返却用の本が溜まっているキャスター付きブックの小さな棚トラックに眉を寄せつつ壁際の作業台に鞄を置き、パイプ椅子を引き寄せ据わると同時に、張り詰めた気を抜くように大きなため息を吐く。

 右手で頭を押さえながら、涼香について考える。

 あの態度は何から何まで、今まで通りだった。

 昨日のことなどまるで何でもないと、気にも留めていないかのよう。

 祐真にとって女の子の初めてというのは、特別という認識がある。

 一般的な貞操観念としても、そうだろう。

 これまでの付き合いから涼香もそのあたりの感覚が、世間から逸脱しているとは思えない。

 じゃあ、何故?

 本当は祐真のことが好きだったから――そんなことが脳裏に過ぎるも、すぐさまその考えを打ち消す。

 祐真もそうだけど、好きかどうかと問われれば好きだろう。

 しかしそれは恋愛のそれとは違う。そもそも本人が、恋愛なんてバカらしいって言っていたではないか。その気持ちはよくわかる。

 一番可能性が高いのは、好奇心だろうか?

 涼香は、好奇心がかなり強い。

 祐真もあの時、情欲の次に心を占めていたのがそれだった。

 だが果たして、好奇心だけで致すようなことなのだろうか?

 考えれば考えるほどドツボに嵌っていく。

 涼香のことが、この小さな頃から知っている親友の妹のことが、よくわからない。

 そして何よりもわからないのが、自分自身だった。

 今朝の涼香のなんてことない態度に、昨日のことを許されてしまったと感じて安堵すると共に、すぐさま心が仄暗い情欲に塗り替えられてしまった。

 昨日の涼香の熱と感触を思い起こされ、またも抱きたい気持ちが溢れてしまう。

 きっと今また涼香と顔を合わせたら、欲望を滾らせるに違いない。先ほどは少しやばかった。

 ――恋愛対象ではないのに、身体を貪りたい。

 そんな身勝手さ、容易に情欲へ傾く自制心の無さに、まったく己のことが嫌になる。


「くそっ、最低だ……」


 くしゃりと頭を抱え髪を掻き混ぜていると、ガチャリとドアが開く音が響く。


「あれ、河合くん?」

「……上田さん」


 現れたのは綺麗で艶のある髪を肩口で揃えた、華奢で儚く大人しい印象の女子生徒。祐真と同じ図書委員である上田うえだ紗雪さゆきだった。

 彼女とは中学時代のクラスメイトで、顔見知りといったところだろうか。

 普段からあまり交流はないものの、緩くも長い付き合いなので、互いにそれとなく人となりを理解しており、同じ委員の中ではちょくちょく話す方だ。

 紗雪は不思議そうに目を何度かしばたたかせ、こてんと小首を傾げる。

 どうしてここにと問われたとして、何と言っていいのやら。祐真も苦笑を返す。


「……」

「……」


 少し探り合うかのような視線が絡み、むず痒い空気が流れる。

 紗雪も困った様に眉を寄せ、そしてチラチラと視線をどこかへ投げていることに気付く。その先を追えば、返却用の本が溜まっているブックトラック。

 なるほど、彼女がここに訪れた理由はそれらしい。


「本の棚戻し?」

「はい、そうです」

「手伝うよ」

「いや、でも……」


 祐真の申し出に遠慮を魅せる紗雪。

 控えめで謙虚なところは彼女の美点であるのだが、誰かが仕事をしている隣で何もしないというのも、据わりが悪い。

 それに教室に戻った時、晃成に何か言われた際の言い訳にもなるだろう。


「手持ち無沙汰だし、暇つぶしさせてよ」

「ふふっ、そういうことなら」


 祐真は多少強引にブックトラックを押して移動を促せば、紗雪もくすりと笑い機嫌がよさそうに後を着いてくるのだった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る