第6話 いつもと変わらない涼香


 この日はほとんど眠れやしなかった。

 目を瞑ればたちまち昨日の涼香の柔らかい肌の感触や嬌声、うねる様な快楽が蘇り、腹の奥底には熱く煮えたぎる制御の難しい欲望が渦巻き、罪悪感と交互に押し寄せる。

 眠りに落ちたら落ちたで、淫靡に微笑む涼香が誘うように肢体を絡みつかせ、耳元で『いいよ』と囁かれれば、夢の中でも同じ過ちを繰り返してしまう。それこそが、自分の願望だというように。

 それだけ昨日の出来事は、初めての体験は、鮮烈だった。


「……ひっどい顔」


 朝、洗面台の鏡に映った自分の顔は懊悩や後悔、情欲への渇きが目の下の隈や眉間の皺となって表れていた。

 祐真はそれらを洗い流すかのように、冷たい水を頭からかぶる。

 少しだけクリアになった頭で、必死に身だしなみという表層を取り繕い、リビングへ。


「……週末までいないのか」


 灯かりも人の気配もなく、薄暗く寒々としたダイニングテーブルの上に無造作に置かれているのは五千円札。食費にしろという両親からの無言の合図。

 河合家では珍しいことではない。物心ついた時には、既にこうだった。そもそも家族で一緒に食事をする機会の方が稀だ。もっとも、それだって機能的に口に食べ物を運ぶだけになるのだが。

 緩慢な動きで冷蔵庫を開けて覗けば、食べられそうなものは見当たらない。

 あまり食欲はないものの、昨夜も何も食べていないのだ。

 頭の冷静な部分の何か腹に物を入れておかないと、という命令に従い、義務の様に牛乳を流し込む。何も食べないよりはいいだろう。

 そして祐真は億劫な気持ちと共に、家を出た。



 どんよりとした祐真の胸の内とは裏腹に、空は皮肉にも雲1つない突き抜けるような青さだった。まだ少し冷たい風に揺られ、新緑たちは夏の初めを唄っている。

 通い慣れた通学路を重い足取りで歩きながら考えるのは、涼香について。

 ――まずは謝らなければ。

 そこに罪の意識から逃れたいという、自分勝手な打算はあるものの、肉体的に傷を付け汚してしまったことは事実。

 具体的に話すことは決まっていないが、まずはそこからだ。

 このまま行けば、いつもの時間、いつもの場所で晃成と一緒に待っているだろう。

 しかし、ふと思った。

 本当にいつものように現れるだろうか?

 顔を合わせづらいのは涼香も同じではないか?

 その可能性を考えると、途端に今になって恐怖で心が塗りつぶされていく。


「……ぁ」


 思わずギュッと胸を押さえこむ。

 晃成同様、涼香とも腐れ縁というべき長い付き合いなのだ。

 いつも一緒。傍に居て当たり前。もはやありふれた日常の一部。

 それらが無くなるかもしれないと思うと、足元が崩れ去っていく感覚に見舞われる。

 一時の快楽の代償とすれば、なんてとんでもないことだろうか。

 顔面蒼白になっていく祐真は、壁に手を付き、喘ぐように酸素を求めて浅い呼吸を繰り返す。

 どうすれば――

 ぐるぐると思考を空回せていると、やけに脳天気で機嫌の良さそうな声を掛けられた。


「よっ、祐真」

「晃成」

「どうした、汗かいて顔色もひどいぞ? ははぁん、さては寝坊したな。で、全力で走ってきたってとこだろ」

「……ははっ、そんなとこ」


 上手い具合に勘違いした晃成に乗っかる祐真。

 晃成はやけにニコニコしており、グッと肩を組んできたかと思うと頼んでもいないのに、昨日のことを喜びを隠せない様子で話し出す。


「昨日呼び出されてバイト行っただろ? ホールは先輩と2人しかいなくてさ、めちゃくちゃ忙しかったんだよ。ディナータイムとか目が回るほどっていうの、いやぁ~まいったまいった。でもなんとかなったし、オレが行って正解だったね!」

「へ、へぇ。なら、先輩にも感謝されたんじゃないか?」

「おぅ、それ、それよ! お礼にってことでさ、今度先輩がいつもお勧めしてたパンケーキの店に連れて行ってもらえることになったんだ。これってやっぱ、アレだよな? デート……だよな!?」

「あー、どうだろう。少なくとも端から見てると、そう見えるだろうな」

「だよな~っ!? うぅ、髪はどうにかしたけど、着て行く服をどうすればやら。なぁ、そういう時ってどういうの着て行った方がいいと思う?」

「俺に聞かれても……油長の方が詳しいんじゃないか?」

「それもそうだな~っ。聞くにしても、いくつか参考になるものは事前に選んどくか」


 そう言って晃成はスマホを取りだし検索をし始める。「歩きスマホは止めとけよ」と注意を促しても、晃成は「ちょっとだけだし」とどこ吹く風。

 祐真が呆れたようにため息を吐くと、それに同調するかのような声が、隣から掛けられた。


「お兄ちゃんってば、昨日帰ってきてからずっとあの調子! 一晩中、同じ家で聞かされてると、微笑ましいを通り越して若干鬱陶しいったらありゃしない」

「す、……」


 涼香の登場に、ドキリと胸が一気に跳ね上がる。何を話していいか分からず、言葉を詰まらせる祐真。

 涼香は晃成の浮かれっぷりを、うんざりした顔で肩を竦め小さくかぶりを振っている。その様はまるで昨日のことなど何もなかったかのように、いつもと同じだった。


「う、うるさい涼香、っていうかお前はどれ聞いても『あー、それでいいんじゃない?』しか言わなかっただろ」

「ハッ、そんなのオシャレと無縁のあたしに聞く方が間違ってるってーの」

「うぐっ、我が妹ながら、すごい説得力!」

「えっへん」

「は、……ははっ……」


 そして繰り広げられるいつもと変わらない会話に、乾いた笑いが漏れる。

 あまりにも普段通りに展開される空気に、まるで狐につままれているかの様。

 もしかして昨日は涼香と何もなくて、本当は晃成の部屋でうたた寝して見ていた夢かなにかではとさえ思ってしまう。

 するとその時、涼香が足をよろめかせた。


「あっ」

「っと、大丈夫か?」


 祐真がすぐさま腕を掴み、事なきをえる。

 その際にふわりと香った涼香の匂いと、制服越しに伝わるその柔らかさは、記憶の中のものと一致する。胸を騒めかせた祐真は、すかさず手と共に身体も気持ちばかり離す。


「ありがと、ゆーくん」

「いや……」

「ったく、またかよ涼香。それ何回目だ? 今日はなんかボ~っとしててよく躓くな。夜更かしか? 肌荒れはいつもだけど」

「もぉ、お兄ちゃんうっさい!」


 少し気恥ずかしそうにお礼を言う涼香だが、兄に揶揄われれば抗議とばかりに握り拳を振り上げる。

 すると晃成は怖い怖いとばかりに駅へと駆けていく。

 そして「はぁ」とため息を吐いた涼香は、ジト目を祐真に向けて唇を尖らせ呟く。


「もぅ、この歩きにくいの、ゆーくんのせいでもあるんだからね。まだ何か挟まっているような感じがするし」

「……ぇ」

「そうそう、あの後も大変だったんだから。部屋の換気にシーツの血、それはまぁツッコまれたら、タイミング失敗した生理のそれって感じで誤魔化すつもりだけどさ」

「あ、あぁ……」


 涼香は随分あっけらかんと、昨日のことを話す。

 祐真にとっては胸の奥底を爪で引っ掻いたような痕を残した出来事だというのに、まるで昨日の夕飯がどうだったかのごとく、こともなげに。

 混乱が加速していく。

 涼香にとっては、そんなに軽いことなのだろうか?

 わからない。

 ずんずんと晃成を追いかける彼女は、一緒に着いて来ていない祐真に気付き、不思議そうに問いかける。


「ゆーくん、行かないの?」

「っ、あぁ、今行く」


 促され、少し距離を取って隣に並ぶ。

 ちらりと窺う涼香は普段そのもの。

 祐真はこの腐れ縁の親友の妹のことが、わからなくなるのだった。

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