第14話

 014



 地下室へ潜って、3日が過ぎた。



 その間、彼女は通学はおろか寝る事もせずあらゆる文献を漁って可能性を探ったが、どれを辿ってもラプラスの結果は変わらない。



 クロードは死ぬ。その事実だけが、メアリの意識を支配していた。



「あんたが狂っちまってどうすんだい。酷い顔だよ」

「黙っていてください」



 ため息をついて彼女を眺めるラプラスは、やがてどこかへ行ってしまった。

 こうして一心不乱に探しているように見えて、その実は心の中で無理だと悟り、彼女は知りたい事を失っていたからだ。



 自分を呼んだ人間の愚かしさに、ラプラスは呆れてしまったのだろう。結局、姫ほどの人間であっても、絶望から目を逸らして必死なフリをしてしまうのだ。



 ――階段を下る音。



「やぁ、メアリ教授の研究室はここかな?」

「……く、クロード先生? なぜ、ここに」

「法王様にお呼び出しを頂いてな。それに、三日前の悪魔召喚のせいで殿下が私の元を訪れた理由が有耶無耶になってしまっただろう。疑問の解消に力添えをしたかったんだ」



 この人は、いつもそうやって。



「……殿下?」



 メアリは、もう一人で立っていられなかった。自信を打ち砕かれ、すべてを知っているハズの彼が誰よりも穏やかで。最後まで、生徒である自分に気を遣ってくれて。



 だから、彼に強く抱きついて泣いた。死んで欲しくないだなんて叫んだって、クロードにこの世への未練を残すだけの残酷な愚行だと痛いくらい分かっていても。



 それでも、メアリはただ縋った。想いを心へ閉じ込めていることは、彼女には出来なかったのだ。



 ……。



「なるほど、ラプラスの悪魔か。流石殿下だ」

「……ありがとうございます」

「うむ。研究の過程で多くの人間と出会った私だが、概念を悪魔化させて召喚する魔法使いなど殿下を置いて他に知らない。勉強になったよ」



 今欲しいのは、そんな称賛なんかじゃない。



「なぜ、先生は自分の亡くなる日を知っていたのですか?」

「確信ではない。ただ、父の命日がもうすぐなんだ。私が初めて学んだ歴史はカミュ家の事だった。先祖の墓を巡れば、共通点に気が付くのも当然だろう」



 泣き止み、しゃくり上げて涙を拭う彼女へクロードは勝手に淹れた紅茶を届けた。



「……お酒も、煙草も、ずっと似合わない趣味だと思っていたんです」



 知識に聡いクロードが、長らく生きられないと知っているからこそ自分の体を虐めて快楽を得る事を是としていたのだと知って、更に無能に腹が立ってしまう。



「私、先生に死んで欲しくないです」

「心から光栄な命だが、どうにもならないよ」

「お父様が、匙を投げたからですか?」

「……あぁ。その通りだ」



 思い出の中で、すべての辻褄が合っていく。



 法王ですら彼を救う術がないからこそ、自分が彼と関わることを見逃されていた。最早、醜聞とも呼べる恋心に許しを得ていたのは、決して実ることのない無意味な恋だと知っていたからだったのだ。



 ……しかし、彼女は諦められなかった。



 抱き締められ、泣き叫び、再び勇気が湧いてくる。この温もりを失わない為ならば、例え悪になっても構わない。



 メアリは、深く息を吸い込んで呟いた。



「ラプラス、そこにいるの?」

「なんだい」



 現れたラプラスを見て、クロードは鳥肌を立てた。あまりにも強大な魔力と高度な術の枷が、今にも世界を滅ぼしかねない力を無理矢理に抑え込んでいたからだ。



 無意識的に、これほどの技術を。やはり、メアリの実力は尋常ではない。



「因果を破壊する魔法を教えて」

「ククク、なんて目茶苦茶な事を言うんだい」

「あるの? ないの?」

「あるよ。けれど、そんな魔法を使えばお前は魔法回路を失うよ。きっと、並の生活を送ることも難しくなる」



 事実、その術を発動した魔法使いは例外なく破滅している。ラプラスは、破滅した術者の末路を下卑た笑みで連連と語った。



 しかし。



「構わないわ」

「構わないって、儂が世界に解き放たれることになるのにかい?」

「知ったことではない!! 悪魔風情、黙って私に従え!!」



 それは、嘗ての覇王の風格を纏う狂気の少女の口調だった。威風堂々としたプレッシャーが、概念そのものであるラプラスすらも怖じけさせる。



「私は絶対に見捨てない!! 例えお父様が諦めたとしても、私だけは先生を救うことをやめない!! その為だったら、私のすべてを犠牲にしたって構わない!!」

「ふざけるな」



 しかし、そんな姫君にストップをかけたのはやはりクロードだ。彼はいつになく真剣な眼差しで、この上なく厳しい態度だった。



「……先生?」

「君は、自分が何を言っているのか分かってるのか? 君のその力に、どれだけの価値があるのか分かってるのか?」

「分かりませんよ!」

「だったら教えよう。君の力はこの国の宝だ。他の誰がどれだけ望んでも手に入ることのない、奇跡としかいいようのない産物なんだ」



 やがて、メアリはたじろいだ。恋した相手には、やはり弱くなってしまうのが人間という魂の入れ物の限界なのである。



「国中の人間が、君の力に期待している。君が魔法を操る事で、多くの人間が救われるんだ。そんな力を、ただ一介の学院教諭の為に失うなど決して許される事ではない」

「でも、私に託すと!」

「最も許せないのは、私の為に私の生徒の人生が脅かされることだ。それだけは、吐いた唾を呑んででも許せない」



 ……この悲しくも心地よい涙の理由を、彼女はいつまでも抱き締めていたいと心の底から願った。



 そして、閃く。



 たった一つの、彼を救う方法。前提を覆し条件を変えてしまう、彼の得意な冴えたやり方だ。



「……クロード先生は、私が殺す」

「面白いことを言うねぇ、苦しむくらいならせめて自分の手でってことかい?」

「違う、私が使うのは呪いよ。呪いならば、生きたまま死ぬことが出来る。動きを止めるまでのすべてを操る、そんな力が欲しい」



 瞬間、ラプラスは笑った。



 最初から知っていた、迷宮の出口を言い当てられたような歪な笑顔だった。



「さぁ、叶えてラプラス。因果を欺く呪いのスペルを生み出して」



 メアリは、完全にラプラスを従えていた。概念が人間に跪くなど、明らかに人智を超越した偉業である。



「仰せのままに。けれど、罪が必要だよ。その男が裏切ったという、証拠になる何よりの罪が」



 ラプラスは、呪いとは罰であると語った。



 呪いに強力な力が宿るのは、術を受けた者の心の闇を支配して操る事が出来るからである。つまり、ネクロフィリアとも呼ぶべき『すべての支配』を得るためには、彼の最も大切なモノを奪わなければならないのだ。



「……あるよ、メアリ」



 言ってクロードが差し出したのは、彼が世界に平等を齎した証であるマロニエの杖。



 王に忠誠を誓い、生徒を導いた、何者でもない彼に与えられた皮肉才能の杖だ。



「私、迷いませんよ」

「あぁ。このマロニエは、君に捧げる」



 すべてを裏切ってしまえば、もうここにはいられない。きっと、クロードに待ち受けるのは残酷な末路だ。



 あの偉大なナポレオン王からの寵愛を失くしてしまう事が、一体どれだけの数の憎しみを生む悪事か。その憎しみたちによって、どれ程の苦痛を受けるのか。



 最早、想像するのも恐ろしい。メアリがどれだけ食い止めようとも、報復の火はそこらじゅうから沸き立つのだろう。



「それでも、私は先生に生きていて欲しいんです。どれだけ辛い目にあったって、生きていて欲しいんです。だって、生きてさえいれば先生は学べますから」



 真の学徒であるクロードだから、他には何もいらないのだとメアリは信じているのだ。



「そして、心から愛してますから」



 ……クロードは、メアリにキスを落とした。



 強い決意の滲む表情が、真っ赤に染まっていく。絆された風格の奥にあったのは、やはり彼を慕う相応な乙女の純情であった。



「私は生きるよ。生きて、メアリの想いをまっとうする」



 メアリは、クロードの胸に顔を埋めて泣いた。もう、戻ることは出来ない。優しい彼を大罪人へ仕立て上げ、あまつさえようやく辿り着いた平等からも遠ざける。



 その為の賽を投げる行為に、どれ程の苦痛が伴うだろう。少女の小さな体には、あまりにも重すぎる責任だ。



「先生……っ」



 だから、クロードは彼女を強く抱き締めた。せめて、今だけは二人で支えられるように。この世の理不尽に抗うように。最後まで彼女を守れるように。



 捧げられたマロニエは、脆く崩れ去った。

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