第2話
002
「せ、先生。クロード先生」
廊下を歩いて研究室へ戻る途中、呼び止められて踵を返す。すると、そこには先程のトップバッターであったメアリ・ド・パティオラ厶の姿がある。
バレッタを外した長く緩い金髪に、大きく青い目、泣きぼくろ。クロードよりも白い肌に、聖歌隊をモチーフとした制服の、白いドレスと緩い深青のフード付きマントが映えている。
パタパタと走って服や髪を揺らす姿は、姫君とはいえ年相応の女子であるとクロードに思わせた。
「如何なさいましたか? メアリ殿下」
授業中は生徒として平等にタメ口を使うクロードだが、個別の対応ともなればそうはいかない。姫君であるメアリに対して敬意を払い、半歩引いて手を胸に当てると小さく頭を下げた。
「あの、先程の授業で気になった事がありまして」
「左様でございますか。それでは、わたくしの研究室へ参りましょう。不束かではございますが、休み時間内で教授させて頂けると幸いです」
すると、丁寧な言葉遣いで頭の上にグルグルとした不安を浮かべたメアリは床を踵で鳴らし。
「んもぅ。授業中みたいに話して欲しいと言ってるではありませんか」
「……分かったよ、ついておいで」
再び歩き出したクロードの後ろを、気を良くしたメアリはまるで子犬のようについていく。
渡り廊下を歩く途中、通りかかる女子生徒たちの多くは足を止めて「ごきげんよう」と挨拶をする。それに対し、微笑みを浮かべて軽く会釈をするクロードに見惚れながらも、メアリは嫉妬心を淡く燃やした。
隠しきれていないが、彼女はクロードに惚れている。それも、身を焦がす程にであった。
「入りたまえ」
茶色い扉を開いて案内されたのは、7畳程度の広さで壁一面に本の詰まった棚を置き、最奥に地図のスクロールをいくつか広げっぱなしの重厚なデスクがある部屋だ。
見れば見るほど、壁にかかっている立派な額縁に入れられた勲記だけが浮いているように見えてならないとメアリは思った。
「先生、また置きっぱなしですね。大切な研究材料ではないのですか?」
そう、『また』。
メアリは、ことあるごとにクロードの研究室を訪れて、二人の時間を楽しんでいるのであった。
「どうも、整理整頓は苦手で」
ポットをランプで温め、二つのカップに紅茶を注ぎ一つを彼女へ渡す。
「ありがとうございます。……ではなくて、ダメですよ。私以外の子が見たらガッカリしてしまいます」
「安心したまえ。これを見た他の生徒たちも、口を揃えて殿下と同じ事を言った」
「まぁっ!」
そんな言葉を聞いて、メアリが冷静でいられるハズもない髪をフワッと逆立てた。
彼女は、スクロールの入った鞄を置き幾つかの資料を探る彼の背中に立ったが、行動は意外にも見上げて背中に指をなぞらせるだけに留まった。
嫉妬したって、いたいけな女子生徒。分かって欲しいという気持ちを見せるだけの、いじらしいイタズラしか出来ないようだ。
「それで、何が気になったんだ?」
「……なぜ、防衛戦の勝利で国土を広げたのに、今でも国境付近に強力な龍脈が流れているのかという点です」
長く話せるように、ちゃんとネタを用意してきているメアリである。
「龍脈の拡張は、龍脈理学の分野だ。ルロワ先生が深く研究なさっているぞ」
「で、でも! 先生だって知っているでしょう!?」
墓穴を掘って、慌てるメアリ。知識分野の細かい分別は、まだ17歳の彼女には難しい問題であった。
「簡単な事だけな。それでいいのか?」
「もちろんです! 私、まだ大学部の進路だって決めてませんから! そんなに専門的じゃなくていいですから! ちょっと気になっただけですから!」
思わず、クロードのローブをギュッと掴んで大きな声を出してしまった。気がついて、自分はなんて端ない真似をしてしまったのかと顔を赤くすると、ゆっくり手を開いて後ろを向く。
いつかクロードと同じ目線で語り合う事こそが彼女の持つ大きな夢なのだが、彼ほど深く調査を重ねて考察することなど叶わないだろうという、半ば諦めの気持ちが彼への憧れに繋がっていることを知って悲しみに耽った夜を彼女は忘れていない。
故に、彼女は進路を決めあぐねているのであった。
「それでは、私が代行しよう。これを見なさい」
言って、クロードはスクロールを留めているシールを剥がして本棚に広げて説明を施した。
その間、メアリは真剣でありつつも、彼の話す歴史と理論に痺れて思わず見惚れてしまっていた。これでは、まともに学べるハズもない。
「――というワケだ。疑問は晴れたか?」
「は、はい。ありがとうございます」
「満足したなら幸いだ。もう、教室に戻って食事をしたまえ。午後は実技があるだろう」
「……また、ここで食べちゃダメですか? その、実は持ってきてるんです」
彼女の手には、王族の食事にしては妙に質素な、シロップに漬けたミックスベリーとハニークリームのサンドイッチの包み。実は、メアリの手作りである。
「構わないが、あまり相手は出来ないぞ」
「それでいいんです」
無論、クロードは他の生徒にここで食事を摂る許可など出さない。他ならぬ姫君の頼みだからからこそ、特別に許しを出しているのだ。
「……いつの間にか、今年も花が咲いたな」
しばらくして、クロードがボソリと呟いた。窓の外には、校舎へ繫る広い参道とマロニエの並木。白く小さな花を咲かせ、風が微かな香りを運んでくる。
「学院の象徴、天才の花です。先生の通り名に因んだ、素晴らしいモノですね」
「君たち生徒が面白がって呼んでるだけだろう。華美入寂な称号は、なかなか恥ずかしいモノだよ」
思わず滑らせてしまった口を噤み、誤魔化すように笑うメアリ。しかし、本人も知っているということは、彼にそれを教えた者がいたということだ。
きっと、その生徒は自分と同じようにここで二人きりになっていたハズ。
そう思うと、またしても嫉妬心が燃えてしまって。だから、密かに立ち上がり距離を詰めるとデスクの端に寄りかかってクロードを静かに見つめた。
「その資料、随分と複雑な魔法回路ですね。今回は何を調べてるんですか?」
「先日、ベルジアン遺跡からアーティファクトが発掘されただろう」
「あぁ、新聞のスクープ記事になってましたね。確か、微弱ながら無限にマナを生成している可能性があるとか」
「そいつの緊急調査司令が学会から降りてきているんだ。解明出来れば、第二次魔法革命も確実だろうって話らしい」
こういう時、クロードは大して面白そうな顔を見せない。独身の研究者など、こういった新しい要素を発見するたびに喜々として調査に没頭しそうなモノだが。
「相変わらず、退屈していそうです。そんな意欲では、せっかくのマロニエの杖が泣きますよ」
「法王様には申し訳ないが、勲章を授かった事も、学院の名誉教授になった事も、決して私が望んだ結果ではない。本当は、ただ歴史に浸っていられればそれでよかったんだ」
「あら、お父様が聞いたら悲しみますわね。私、思わず口を滑らせてしまうかも」
ちょっとしたイジワルのつもりだ。悪意などなく、クロードの意識が少しくらい自分に向けばいいと思ったに過ぎない。
しかし、彼女の思惑が一度として、彼を道理に導いた事はない。
「それもいいかもしれない。幸い、慎ましく生きていく程度の蓄えはある。死刑にさえならなければ、後は野となれ山となれというヤツだ」
そう。
クロードには、自己実現や承認など、おおよそ人の考える欲を持ち合わせていない。
故に、今回のような豊かさをもたらす可能性のあるアーティファクトにも興味を持たず、些末な遺跡と文献の調査をして歴史を読む事だけを目的としている。
彼の人生は、時間の流れという茫漠なパズルを解くためのモノなのだ。
だから、令嬢たちは彼に憧れる。決められた人生を歩む彼女たちにとって、クロードの自由奔放で気取らない生き様はあまりにも刺激的で輝かしく見えてしまうのだ。
「……一人は、きっと寂しいですよ」
「犬を飼うよ。大きくて勇敢な犬を」
もっと根本的な話がある。
世界や状況などの大きな流れに対しては凄まじい観察眼を発揮するクロードだが、反面、他者個人から向けられる自分への評価を察する能力に驚くほどに乏しい。
自分が他の誰かなら、自分のような男を好きになるワケがないと確信しているからだ。
そのせいで、彼は生徒たちから向けられている好意について察せられない。というよりも、平民の自分を貴族の人間が好くハズがないと思い込んでいる。
利益や実用的な道具の発見に対する自らへの称賛は慎んでて受け入れるが、人徳や思い遣りによる心境の変化を偽りとさえ考える節があるのだ。
つまり、鈍感。それも、ある一面のみに発揮する鈍感だからこそ、この上なくタチが悪い。
無論、お陰で平穏な生活を送れているといえばその通りなのだが。報われない恋をもたらせることが悪だと言われれば、否定する材料など持ち合わせていないのであった。
「さて、そろそろ午後の準備をするよ。野暮用で、学会に行かなくてはならないんだ」
気が付けば、昼休みも終盤。楽しい時間とは、どうしてこんなにも短いのかとヤキモキするメアリは、満を持して勇気を出した。
「あの、先生。外出前に甘いモノは如何ですか? ちょっと食べ切れなくて」
実は、いつもより一つ多く持ってきていたのである。早起きして自分で用意した理由は、正しくこれであった。
「貰おう。ありがとう」
礼をして、空になった彼女の紅茶のカップに少し茶を淹れ、自分のカップには机の下から取り出したブランデーをトプトプと垂らし茶を注いだ。
「あぁ、勤務中にお酒だなんて。味付けにしては、些か量が多過ぎます」
「学会は緊張するんだ。殿下だけが知る事だから、君が許してくれると助かるんだがね」
瞬間、これまでずっと煽られていた嫉妬心がシンと静まり、あとに残ったのは「私だけが知っている先生の悪い秘密」だけとなった。
嬉しい。素直にそう思ってしまう。
「ん、かなり美味いな」
「本当ですか!?」
「あぁ。クリームが実にいい、果物の下拵えも丁寧なんだろう」
温かな気持ちへ更に幸せを投下されて、思わず「うへへ」と少しばかりデレ過ぎた笑顔を浮かべてしまう。もはや、顔の緩みが抑えきれず俯いて噛み締めることしか出来ない。
「これは、王家の抱えるコックの仕事か? もしも店を出しているなら、是非場所を教えてくれたまえ」
「んふふ。内緒です。けれど、また持ってきて差し上げますよ。それでは」
こうして、満足感に打ちひしがれながら研究室を出ると、研究室の前には多くの女子生徒が聞き耳を立てていたのか、慌てて四散し愛想笑いを浮かべた。
それを見たメアリはというと。
「……おほん。如何なさいましたか? みなさま」
先程までの天真爛漫な態度はどこへ行ったのか。咳払い一つで纏う雰囲気までもを張り詰めて、王の娘たる毅然とした態度へと変貌した。
信じられない事だが、彼女は学院内において『淑やかでクールな才女』と評判されているのだ。
「その、メアリ様がクロード先生の研究室へ入っていったのをこの子が見ていまして。防音結界で中の音も一切聞こえませんでしたし、どうしても気になってしまったモノですから」
この子、と呼ばれたのは橙色の髪と、か弱い風体の小さな少女だ。愛くるしいといった表現が似合い過ぎると、メアリは密かに思った。
「何てことはありません。実は、クロード先生へ父から伝言があったのです。大した話ではないのですが、わたくしが王の娘だからと饗される内に時間が経ってしまったのですよ」
「あぁ、なるほど。そういうことでしたか」
生徒たちがホッと胸を撫で下ろしたのは、恋愛絡みではなく彼女たちが『自分だけが許してあげている』と思っている彼のスボラさを指摘され、下手をすれば理事会へ報告されてしまうのではないか?という懸念があったせいだ。
まさか、あの高潔なメアリ姫が恋など、ましてや平民の男に憧れるワケがない。彼女たちは、そう信じているのである。
――ガチャリ。
「あ、クロード先生。ごきげんよう」
「諸君、こんなところで密会か。校舎の喧騒から逃れたい気持ちも分かるが、そろそろ次の授業に向かいたまえ」
部屋に鍵を掛けると、団体に一瞥くれただけでクロードは足早に外へと歩いて行ってしまった。
いずれも名家の令嬢であるが故、或いは少女故、生まれ持つ事の出来ない飄々とした態度と余裕に並々ならぬ魅力を感じてしまう。
もちろん、メアリも例に漏れずポーっと顔を赤くして、廊下に響く革靴が床を鳴らす音をいつまでも聞いていたのであった。
「……行きましょう。授業に遅れてしまいます」
辛うじて、最初に意識を取り戻したメアリ。この中にいては、確かに彼を独り占めに出来ないことで独占欲をメラメラと燃やしてしまうが。
みんなと同じ目線で憧れていらること自体は、それはそれで何だか寂しくなくて楽しいと思っているのだった。
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