第2話 月が落ちた日
「ヴィクトルさん、エレノアさん、本当にありがとう! 出られなくなっちゃって、このまま死ぬのかと思ったよ」
瓦礫の向こうから引き上げたのは、少々恰幅の良い青年だった。アーサーと名乗った彼は、丸い頬をつやつやと輝かせ、エレノアとヴィクトルの手を交互に握ってぶんぶんと握手をする。目元にはいささか疲労の色が見えはするが、おおむね元気そうでなによりだ。
「あんな深い穴に落ちたのに、怪我ひとつないとは幸運だな」
「いや、あそこは僕の家の地下室だよ。僕は落ちたんじゃなくて、あの中にいたんだよね」
「あの中に? どうやって入ったんだ、ハシゴも階段もないのに」
「魔法で飛んで入るのさ」
さらりと答えるアーサーは、金に近い茶髪と、明るい鳶色の瞳をしている。完璧な金ではないが、彼もそれなりに腕の立つ魔法使いなのだとわかる。こんな非日常的な状況においてもその色は羨ましく、エレノアの心は嫉妬でちりりと焼けた。
「飛べるならそうしてくれよ。俺のズボンは君の体重で伸び切って、足首で溜まってるんだが。高かったんだぞ、これ」
「僕もそうしたかったんだけど、なぜか魔法が使えないんだよ。そのせいで瓦礫も動かせなかったし、外にも出られなかったんだよね」
「やっぱり、魔法は使えないのね。月が落ちたんでしょう? マナはどうなってるの?」
「月が落ちた? ……うわ。本当だ」
空を見上げたアーサーが、呆然として呟く。銀の月光に照らされた顔は青白く見えた。
金の月を失った絶望は、彼の方が深いかもしれない。まだ現状に現実味のわかないエレノアは、ぼんやりとそう思う。魔法使いの暮らしも地位も、魔法の上に成り立っている。それを全て失うとは、どれほどの喪失感なのだろう。
「僕は地下室にいて、入り口がいきなり崩れたんだけど……その前に、地面がすごく揺れたんだ。それからマナが爆発したみたいに増えて、目の前が黄色くなった。今は落ち着いたけど、マナは乱れていて魔法が使えないんだ。君もそうだろう?」
アーサーは、ヴィクトルだけにそう尋ねる。金髪金目のヴィクトルは外見で魔法使いだと判断され、同じ理由でエレノアは魔法が使えないと判断された。当たり前のことなのだが、胸の底がもやもやする。
「俺は元から魔法を使えないからよくわからない。君は魔法使いなんだよな? 俺が元の時代に帰るためには、君の力が必要らしいんだ」
「元の時代に帰るために? ……うーん、何のことだい、それは」
「月が落ちた時のマナの爆発によって、私の作った魔法陣が発動してしまったみたいなの」
エレノアは、自分たちに起こったことをかいつまんで説明する。理解し難い事態ではあるが、アーサーは首を傾げつつも納得してくれた。
「エレノアさんは過去から、ヴィクトルさんは未来から来たのか。そう言われてみれば……エレノアさんの服はかなり伝統的だし、ヴィクトルさんの服は見慣れない生地で出来ているね」
「信じてくれるか。時を超えるエレノアの魔法陣は、魔法使いじゃないと使えないらしい。君が手を貸してくれると助かる」
「ふたりは恩人だから、僕にできることはするよ。でも、今の僕に何ができるんだろう? 魔法は使えないんだけど」
「マナの状況を教えて欲しいわ。月が落ちてきたのなら、隕石みたいに、どこかにその欠片があるかもしれない。可能性があるとすれば、それを使うことだと思うの」
魔法陣で魔法を使うのに必要なのは形を問わないマナである。簡単な魔法なら、金の月光に当てているだけで発動するのだ。時を超える複雑な魔法も、金の月そのもののマナの力を利用すれば使えるかもしれない。
「それはつまり、マナの濃い方に案内すれば良いということかな」
「ええ」
「それなら案内できるよ。マナの流れは乱れているけれど、明らかに向こうのほうが濃いんだ」
そう言って、アーサーは歩き始める。数歩進んで、彼は足をはたと止めた。
「これ……僕の部屋のカーテンだ」
瓦礫の隙間から覗く白い布。アーサーが引っ張ると瓦礫がばらばらと崩れ落ち、中から全貌が現れる。白い布に、素朴な花柄の刺繍がなされている。
「この刺繍は妹が練習したものなんだ。……そうか。僕の部屋もなくなっちゃったんだ」
アーサーは刺繍から視線を上げ、景色を見渡した。
「何もないね……僕の家も王城も、何もかもなくなってる。……家族は、無事なのかな。今日は王城で舞踏会があって、僕以外は皆それに参加していたんだ」
視界に映るのは、やたらと広い夜空と地面を覆う瓦礫ばかりだ。最悪の事態は全員の頭をよぎっただろう。エレノアは何も言えずただ、アーサーの表情の変化を見守る。彼は笑顔を浮かべたが、それは何だか痛々しく見えた。
「マナが濃いのは王城の方なんだ。ちょうど良いね、行って様子を見てみよう。皆が待ってるかもしれない」
「君の家族は魔法使いなのか?」
「貴族は大体皆魔法使いだよ」
「そうか、それは好都合だ。協力を仰ぐから、君も口添えしてくれよ」
「……うん。もちろんさ」
ヴィクトルの声かけは優しかったが、何となく緊張した雰囲気を和らげるところまで馬至らなかった。気付けば三人とも沈黙し、黙々と歩みを進める。
「……金色に、光ってる」
夜明けのようにも見えたが、地面が金に輝いているようだった。エレノアにとっては、見慣れた色でもある。空に輝く金の月と同じ、澄んだ美しい金色。
その金色が、むくりと動いた。丘のような巨体が起き上がる。金の鱗が月光に照らされ、鈍く輝く。鼻の先から尻尾の先まで硬そうな鱗に覆われた、それは大きなトカゲのようだった。
「まさか、あれは……」
ヴィクトルだけが、心当たりがあるように呟いた。その呟きと同時に、トカゲの体が3倍に膨らむ。いや、羽を広げたのだ。大きな羽がばさりと風を掴み、その巨体が浮き上がる。大きく開けた口の中は真っ赤だ。
「ギャオオオォオ!」
この世のものとは思えない凄絶な鳴き声が、空気をびりびり震わせた。音の圧に負け、エレノアは後方にゆらゆらよろめく。
「な、何なの、あれは……」
「ドラゴンだ! 逃げろ!」
羽が上下する度、その巨体はぐんぐんと大きくなる。開いた口の中の鋭い牙が見える。襲いくる恐怖で足がすくみ、動くことができない。
「エレノア、何してんだ! 逃げるんだよ!」
ぐい、とヴィクトルに強く手を引かれ、転ぶようにしてエレノアは駆け出す。
走る、走る、走る。足がもつれ、つんのめる。それでも走り続けるのは、動物的な本能が逃げよと警鐘を鳴らし続けるからだ。まだ追ってきている、それを感じる。
「アーサー、それ投げろ! 気を逸らすぞ!」
「わかった!」
アーサーが、持ったままだったカーテンの布を後ろへばっと投げる。少しして、あの黄金の目から放たれる鋭い眼光が背中を突き刺している感覚が、不意に消えた。
「はあ、はあっ……助かった……」
ヴィクトルが地面にへたり込んだのを見て、危機が去ったのを実感する。恐怖ゆえか疲労か、脚が震えて力が入らず、エレノアも座り込んでしまう。止まった瞬間に吹き出てきた汗が、顎を伝ってぽたぽたと太腿に落ちた。
どさ、と隣で重たい音がする。頬を真っ赤にしたアーサーが地面に倒れ込み、辛そうに顔を歪めていた。
「ひぃ、ひぃ、ひぃ、こんなに走ったの、生まれて初めてだよ。死にそう……」
「命があるだけ感謝しろ。俺たちは今本当に死にそうだったんだぞ」
「ヴィクトルは、あれが何だか知ってるの?」
「ドラゴンだ。ドラゴンにあの距離で見つかって生還したのは、奇跡としか思えない」
「ドラゴンって何……?」
「知らないのか?」
「はあ、はあ、僕も、初めて聞いた」
「ドラゴンはこの世で最も強く、金になる生き物だ。肉は最高の味で、骨は薬になり、鱗は防具に、牙と爪は武器になる。金持ちも貧乏人も、誰もがこの手でドラゴンを倒すことを夢見るのさ。……だから、二人がドラゴンを知らないなんてありえない。魔法文明の時代にはドラゴンは居なかったんだな」
存在しなかったドラゴンという生き物が生まれた理由。あの色を思い返せば、心当たりがある。
「落ちた月が、あんな生き物を生み出したってこと? そんなの……世界の終わりだわ」
エレノアは、ついに絶望的な気持ちになった。ドラゴンに睨まれた時の恐怖が肌にまだ生々しく残っている。
国が終わり、全てが壊れた。その事実が、やっと現実味をもって押し寄せる。
世界の終わりだ。100年後、世界は終わってしまうのだ。胸の底から全てが抜け、がらんどうになってしまうような絶望感。
「いや。ここから始まるんだよ」
エレノアの絶望に、力強く返したのはヴィクトルだった。
「俺の知る夜空には、あの銀の月しか輝いていない。魔法はないし、ドラゴンはいる。俺にとっては普通のことだ。君たちの時代は終わるのかもしれないが、新しい時代がここから始まるんだ」
この絶望的な状況を普通だと言い切るヴィクトルの横顔は、やけに精悍に見えた。
彼の言葉ひとつで、絶望の全てが取り払われるわけではない。しかし、暗い絶望の中にひとつの光が投げ込まれたような気がした。その光を見失わないよう、エレノアは彼の横顔に視線を注ぐ。
「ぐが」
「うん?」
妙な音が挟まり視線を落とすと、アーサーが口を大きく開けて眠っていた。地面に四肢を投げ出した格好はあまりにも無防備で、心地良さそうだ。
「眠かったら寝ていいぞ。こんなに走って、エレノアも疲れただろう」
「いいの? それなら、少し休ませてもらうわ」
いつの間にか、地面は瓦礫から草原に変わっていた。草の生えた地面は柔らかく温かみを感じる。アーサーを真似て横たわってみると、爽やかな草の香りと太陽の匂いがした。同時に、疲労感がどっと押し寄せてくる。
瞼が重くなり、一度閉じたらもう持ち上がらなかった。一瞬にして、エレノアの意識は眠りの中に吸い込まれてゆくのだった。
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